「ふう……」


 腕に針を刺した痛みが、やがて全身に行き渡る快楽へと変わっていく、その切なく危うい瞬間を確かめるかのように、カオリは深いため息をついた。注射器をテーブルに置き、血管を浮き出させるために腕に巻いていたゴムを、「べりっ」と外す。そういった一連の動作が、なにげなくスムーズに出来ていることから、カオリにはそれが「当たり前」の所作なのだろうと感じられた。



史郎しろうもやる?」


 半ば朦朧とした目付きになったカオリにそう聞かれたが、俺は首を横に振った。今時、注射針でヤクを打つなんて20世紀の遺物のような接種をしている奴など、滅多にいない。それは、それだけその薬物が「ヤバいもの」であると、証明しているようなものなのだから。


 俺は、自分が用意して来た小さく丸い錠剤をシートから押し出し、舌の上に乗せた。これを噛まずに、喉の奥へ一気に押し込むのが「通」のやり方だ。慣れてない奴は上手く飲み込めずに、途中で錠剤を喉に詰めたりしてえらい目に逢ったりするが、俺はこのやり方が得意だったし、気に入っていた。何より、ブツを自らの手で、自分の中に「取り込んでいく」という実感があった。


 途中で詰まることなどなく、胃の中へ達した錠剤は、すぐに胃液に溶けて、その内容物を四方の胃壁へと染み渡らせていく。俺のお気に入りのこのブツは、溶けるのが速く効果が瞬時に現れるという「即効性」が売りで、俺はこの即効性が気に入っていた。


 胃の中で「しゅわああ……」と溶けていく感覚、これは錠剤の製作者が「そう感じるように」と故意に内包させた効果らしいが、それでもかまわないと俺は思っていた。これだけ「ヤク」を接種することが当たり前になった世の中に於いては、少しでも他との「差異」を作ろうと考えるのは、当然のことだと言えるだろう。そんな「気の利いた効果」を作ってくれた製作者に感謝こそすれ、文句を言うつもりなど更々なかった。



 2020年頃から数年に渡って世界中を襲った、あの忌まわしき「コロナ禍」。これが21世紀後半の「薬物天国」に繋がると想像出来た者は、どれくらいいただろうか。政府が主導するワクチン接種に対して懐疑的な意見も聞かれる中、それは強引に押し進められ、ほぼ「国民の義務」と化していた。ここでその、真偽や是非を問うても仕方ない。それは実際に行われたことで、動かしがたい事実なのだから。


 このワクチン接種で莫大な利益を得た薬品会社と、その利潤の「お裾分け」で大いに潤った政治家の皆さんは、変異やら亜種やらでダラダラと続いていたコロナ禍がようやく収まりを見せた21世紀中盤、次なる利益を生み出す必要性があった。一度味わった贅沢を、捨て去ることの出来る者などいないのだ。一度クスリにハマれば、それを断つことが極めて困難であるのと同様に。


 そこで与党が打ち出した方針が、誰が何を、どう勘違いしてそうなったのか、未だに不明だが。「それまで違法とされていた、薬物の合法化」だった。ヘタに違法と決めつけるから、裏でのやり取りが行われる。それは反社会勢力の財源にもなり、健全な状況に繋がるとは言いきれない。従って、製薬会社が「地球と人に優しい薬物」を開発し、誰もが「安心して薬物を接種出来る」環境を造り上げることが必要である……!


 

 どう考えても、草案か立案かどこかの段階で、誰かが「それはマズいだろ」と指摘しておかしくない、指摘すべき方針だったが。なぜか大きな反対意見も聞かれないまま、その法案は可決されるに至った。この時点ですでに「烏合の衆」と化していた野党に、もはや与党を覆せるだけの力も勢いもなく、法案の否決など出来るわけがなかった。大麻など、いわゆる「ハッパ系」の合法化を目指していた団体の後押しもあり、薬物合法化法案は、あっという間に「実地」されるに至った。


 そして、あっという間に施行されるに至ったがゆえに、本来は施行前に検討し決めておくべき、規制や制限などの項目がほとんどおざなりにされ。施行されてすぐに、それはもうありとあらゆる問題点が当たり前のように噴出し、それに対する方策の何もかもが、「後追いでその場しのぎの解決策」でしかなく。結果、高価で高品質なものから廉価で怪しい品質のものまでが次々に乱発され、市場は混乱を極めた。


 元より、そういった怪しい物品に関するネット販売の規制自体が曖昧なものだったので、そんなタガの外れたマーケットで政府がお墨付きを与えた「怪しいブツ」を販売することに、歯止めなどかけられるはずがなかった。こうしてたちまち世界は、カオスに満ちた「薬物天国」へと化していったのだった。




 そんな中、カオリのように「昔ながらの接種方法」をしてる奴というのは、合法化された薬物の中に、あえて「危険性」を見出したい輩だ。合法化「されてしまった」ことで、彼ら、彼女らの中で、法を破るという「禁断の味」が失われてしまった。そういった輩は少なからず存在したため、当然の如く「そのためのマーケット」も生まれるに至った。需要あるところに供給ありだ。


 表向きは「懐古セット」などという品名で、昔懐かしい「あのやり方」をもう一度! などの触れ込みと共に、それはごく普通に販売されていた。ご丁寧に、CMのBGMには『あの素晴らしい愛をもう一度』の曲が流れていたりした。それでも懇切丁寧な「接種の手引き」を元に、「合法化されたブツ」を接種するなら問題ないのだが。そこでカオリを始めとした、禁断の味に飢えた者たちのため、「合法化スレスレ」のブツを提供する奴も後を絶たなかった。

 

 そしてカオリは今日も、その「すれすれのブツ」を昔ながらのやり方で接種することによる、「禁断の味」を噛み締めていたのである。「懐古セット」にはブツを溶かすスプーンからスプーンを熱するアルコールランプまで付いていて、至れり尽くせりだ。確かに、オール電化キッチンの「火の無いコンロ」でスプーンを炙っても、それは「味気ない」と感じるだろうなとは想像出来た。



 カオリはいかにも「ヤク中」といったうつろな目をして、ベッドにいる俺の横にごろりと横たわった。この「いかにもヤク中」という風情が、彼らにはたまらないらしい。どれだけ健康に気を使っても、環境に気を配っても。もう、「未来に先はない」ことを、誰もが肌感覚で察していたのだから。薬物天国と化し、モラルや秩序が崩壊しつつある世界で、「バラ色の未来」を夢見ることの出来る奴の方が珍しかった。



「ねえ……知ってる? 世間には出回ってない、凄いブツがあるっていうウワサ。あまりにヤバいんで、それだけは合法化されなかったっていう、いわくつきのやつ。『SEXtasy』って名前の、とびきりイカした、イカれたクスリ……」


 カオリは焦点の合わない目で、俺にそう問いかけてきた。SEXtasyのことなら、ヤクに関心のある者なら今時知らない奴の方が少ないくらい、「一般常識」として情報が拡散されている。ただその正確な効果や、本当に実在するのかどうかという「真偽のほど」まで把握している奴は、そうそういないだろう。かく言う俺も、その名前は聞いたことがあったが、実際に見たことはなかった。それだけに、カオリのような「禁断の味」を求める奴らだけでなく、多くのまともな「薬物使用者」にとっても、その名前は何か、胸の高鳴りを感じさせるような響きを含んでいた。



 20世紀末、1990年代あたりから、メチレンジオキシメタンフェタミン、通称「MDMA」と呼ばれる薬物が、世間に出回り始めた。それは一般的に「エクスタシー」と呼ばれ、若者層を中心に「愛用」されていた。服用すれば、一種の多幸感を得ることで、「ハイになった状態」を味わうことが出来る。MDMAを利用した心理療法の臨床実験も行われたくらいだから、その「効能」は折り紙つきと言えた。


 だが、世間に出回っていたエクスタシーは、「純粋なMDMA」であることは滅多になく、「違法な化合物」が混入していることが常識だった。それは当時、「より広く」世間に行き渡らせるために取られた、「配布する側」にとっては当然の選択だったのだろう。その代わり、連続服用することによる「危険度」もアップし、メディアで度々取り上げられ「問題視」されることも少なくなかった。



 そして、薬物天国と化した現在の世界で、人々の間でまことしやかに囁かれるようになった、エクスタシーの「上位変換薬物」、通称「SEXtasy」は。取り分け、性的欲求を高め、更に性的満足感も向上させる効果があるというのが、「一般的な情報」だった。これも20世紀末から「合法なもの」として、医師の処方と共に使用・販売されていた「バイアグラ」と似たものに思えるかもしれないが、「SEXtasy」はバイアグラとは似て非なるもの、全く異なるものだという「触れ込み」だった。


 バイアグラは性的効能を高めるものであり、いわゆる男性の「勃起不全」に効果があることで知られていて、性的興奮を高める「媚薬的効果」は無いとされていたのに比べ。「SEXtasy」は、内なる性的興奮を呼び覚まし、性的効能を極限まで高める。ようするに、「男女問わず、これまで感じたことのない快感を、味わうことが出来る」ものだと言われていた。


「これまで味わったことのない快感」という謳い文句は、SEXtasyに対する興味、関心、そして「手に入れたい」という願望を人々が抱くに持って来いだった。これまで誰も味わったことがないということは、すなわち「誰もそれについて、具体的に説明出来ない」ということなのだから。人々はそれぞれの頭の中で、それぞれの抱く「最高の快楽」を思い描き、それをSEXtasyというまだ見ぬ偶像に重ね合わせたのである。SEXtasyは、何もかもが不確実になった時代に、人々が唯一「夢を委ねる」ことが出来るものだった。




「ほんとにそんなものがあるんだったら、さ。死ぬまでに一度くらいは、味わってみたいよね。……史郎もそう思わない?」


 カオリは、ほとんどもう自分の体を俺の体にしなだれかけるようにしながら、そう問いかけて来た。まるで骨格を失くしたフニャフニャのゴム人形のようになったカオリの様子から見ると、いま口にしてることなど明日になれば、いや数時間後にはもう忘れてるだろうと思い、「ああ、そうだな」と、俺は適当に調子を合わせておいた。明日「シラフ」の時に会ったら、「え? 昨日も史郎に会ったっんだっけ?」と言われてもおかしくないくらい、こういう時のカオリの記憶は頼りないものだった。



 だが、なぜかこの時の記憶だけは、カオリはしっかりと残していた。次の日、シラフのカオリは、俺にある男を紹介した。


「史郎、昨日言ってた、『例のブツ』のこと。この人が、見つけてくれるかもしれないんだ」



 これが、俺とSEXtasyを巡って巻き起こることになる、壮絶な物語ストーリーの始まりだった。 


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