会いに来てくださいよ


 異変を察知したのは、仲間がいた花粉のおかげだった。危険が差し迫っていることをしらせるための香りが森に充満していた。

 まず鳥獣が一斉に森をち、それを合図にして地上の生き物が逃亡をはかる。葉土は騒々しく踏み荒らされ、ただならぬ気配と木々の悲鳴が響き渡る。

 この時点で湖畔こはんを住処とする私たちにはかなりの猶予があった。けれど植物の私には、今日は空に覆いかぶさろうとする黒雲がやけに厚いだとか、天候と関わりなく濃霧となっていることを不審に思うくらいだった。

 植物型の魔物であるがゆえに優れた視覚も聴覚もなく、ヘモグロビンを持たないので一酸化炭素中毒にもならず、急激に二酸化炭素を放出し始めた森の異変にも鈍感であった。

 徐々に火炎のうずが森を飲み込んでいき、ついに私の視界の遠方にも現れたときに日光を遮断するものが黒煙なのだと理解した。

 森が死にかけている。

 


 自然発火と落雷をのぞき、火災を引き起こしそうな生き物など数がしぼられる。生まれつき火炎を自在に操れる魔物か愚かな人間だ。特に後者は外敵から身を守るわけでもなく、自ら燃やそうとするのだから性質たちが悪い。

 竜種も火を扱うが、彼らは森を燃やさない。あらゆる生命の王として空に君臨するだけだ。

 そもそも山火事の原因を特定したところで危機的状況がくつがえるわけではない。私はどうにか生きびるべく思案する。しかし、人間か。一人の頼りない青年の姿が脳裏にちらつく。


 

 一頭の小柄な〈群狼ウルクス〉が私のそばを通りかかる。仲間の香りがした。あちらも私に気づき、ぴたりと足を止める。だらりと舌を伸ばし、目はうつろで呼吸が異常に荒い。


『ワタシトニゲヨウ』


 群狼の背中でうごめく植物が喋る。このウルクスはアルラウネに寄生されていた。

 お人好しなアルラウネだ。魔物だから魔物好しか。私は小柄なウルクスを自分の体躯と見比べ、迷った末に断ってしまった。誘いに乗るべき状況ではあるが、共倒れになる可能性も高い。根を深く伸ばしすぎたせいで咄嗟とっさに身体を切り離せなかったのも理由の一つではある。

 だがそれらは全て言い訳で、私はけたかったのかもしれない。彼が間もなくあらわれるであろう時間だった。

 彼が助けに来てくれると思った――という英雄的救いを期待したわけではない。私は、彼が助けに来てくれるのではなく、彼が助けに来てしまうと危惧したのだ。

 彼がこの場所に来てしまったとき、もし私が不在であれば、彼は私をさがそうとするに決まっている。そうなると確実に逃げ遅れてしまう。

 ここにきて私は重要なことを失念していた。

 なぜ彼が大火たいかの海となった森に足を踏み入れると思ったのだろう? 私のために無条件に命を投げ出してくれる前提で判断したのだろう? 

 もし彼が来なかったら。逃げ遅れるのは私のほうだ。


 

 時間が経つにつれて不安と恐怖がつのった。炎がこれほどまでに恐ろしいとは知らなかった。

 煤を巻いて吹き抜ける風の力を借りた炎は、広大な土地に根ざした生命をことごとく追放してしまった。

 いずれ私は赤い炎の一部になるのだろうか。どれくらい熱いのだろうか。どれくらい痛いのだろうか。どれくらい苦しいのだろうか。どれくらいで楽になれるのだろうか……。

 私はアルラウネに生まれた自分自身をのろった。せめて自由に動けさえすれば、死ぬことはなかったかもしれないのに。


「会いに来てくださいよ……」


 絞り出すように感情がこぼれた。助けに来て欲しいではなく、会いに来てほしいだった。

 それが何を意味するのか、冷静に考えられるほどの余裕はない。

 最後の砦である巨木の緑が赤色に染まる。灼熱の壁が目の前にそびえ立ち、その熱気が周囲の景色をゆがませる。

 もはや手遅れだった。

 私の隣で繁殖する蔓性植物が拡げた長いつるの一本に引火し、ゆっくりと導火線をつたうように一足も二足も早く私の元へと火の手が迫る。

 私は自分の死期を悟った。観念して目をつむる。瞼の裏に彼の姿を思い浮かべる。


「アイルッ!」


 そう、たぶん、彼ならこんな感じで叫びながら助けにくるはず――。

 身体に多量の水がかかり、私は驚いて目を開ける。蔓を伝う小さな火は消えていた。

 濡れた箇所に魔力の残滓ざんしがこびりつく。〈水〉の魔法だ。彼には魔力がないので、おそらく魔道具の一種を使ったのだろう……彼?


「なんで……来ちゃったんですか……」


 怖かった。心細かった。死にたくなかった。助けに来て欲しかった。あなたに会いたかった。

 色々な言葉が渦巻いていたけれど、最初に飛び出したのはそんなセリフだったような気がする。


「なんでってそりゃあ……いつもアイルと会う時間だからね」


 口元にあてた布をずらし、煤と汗をぬぐいながらいう。


「遅刻ですよ、遅刻! あとちょっと遅かったら死んでました」


 伸ばした蔓でぽかぽかと彼を叩いた。苦笑混じりに払いのけた彼は、腰にたずさえた剣を抜く。


「ごめんごめん。僕が買えるなかで一番いい剣を買ってきた」

「魔法で鍛えた剣ですか」と私は剣の表面をなぞって調べる。「あなたにしては高価なものを」

「安物の肉で節約した甲斐があったというものさ」

「偉そうにいわないでください」


 私は笑っていた。恐怖で引きっていたのが嘘のようだ。


「根はってもいいのか?」

「痛いでしょうけど……死なないとは思います。斬られたことないのでわかりませんが……」

「わかった……すぐ斬るよ」


 言いながら剣を振りかぶる。斬られるという意識から身体がこわばる。彼以外の人間であれば、助けようとしてくれたのだとわかっていても防衛本能で反撃してしまうかもしれない。

 彼が渾身の力を込めてぐように振り下ろした。剣身が根に食い込み、痛みが生じる。

 それから彼は懸命に振り下ろしているのだが、非力すぎるためか食い込んではいるものの切断には至らない。私としても同じ傷口ばかり斬られるのはさすがに痛すぎる。だんだん腹が立ってきた。


「あぁもうッ! 貸してくださいッ!」


 二本の蔓で剣を奪い取るとそのまま柄に巻きつけ、角度をつけて一閃する。鋭い痛みとともに体液が飛び散った。衝撃で自重のバランスが崩れ、倒れそうになったところを彼が支えてくれる。


「アイル、大丈夫か」

「あの……あと少しなので、頑張ってへし折ってください」


 切断までほんの数ミリといったところで剣身が根本から折れてしまっていた。彼は頷き、体重をかけてへし折った。ようやく根と擬態部の分離に成功し、彼は地面に座り込む。


「なんとかなったね……」

「ここからですよ。背中、貸してもらっていいですか?」 


 そういって、蔓を身体に巻きつける。彼はなかなか立ち上がれない。


「……もしかして重たいですか」

「ちょっとね」


 気まずそうに彼が答える。

 私は溜息と共にあぎとを持ち上げ、彼に巻きつけた蔓と擬態部以外の部位を噛みちぎって処理する。可動域の問題で根を断ち切るのは難しかったが、他の箇所なら自力でなんとかなる。


「さぁ、いきましょう」

「植物ってすごいな」


 今度はすんなりと立ち上がった彼が褒める。


「普通に致命傷ですよ。人間と違って意識が遠のいたりはしませんが、もし次、何かあったら死ぬと思います。大事にしてくださいね」


 ここで彼を食べれば再生力が高まるという話は胸のなかに仕舞っておいた。はなから彼を犠牲にする選択肢はなかったし、彼に話せば喜んで我が身を食べさせようとするだろうし……。

 

「生きよう」と彼はいった。

「はい」と私は合わせた。


 生きよう。いい言葉だと思った。

 再び彼は〈水〉の魔法を使い、二人の身体を濡らすと人間の街を目指して走りだす。

 背負われている私は、動かせる葉をできるだけ彼の布の上に重ねる。呼吸と同様に自分が光合成をしている意識はないのだが、しているのならば、彼の助けになると考えた。

 実際はあまり意味のない行為だったのだけれど、助けになりたい気持ちは本当だった。



 もう一つの危機が私たちに迫っていた。

 四方を囲おうとうねる炎を間一髪で回避し、一時的に突きはなしたあたりで魔獣の焦げる不快な匂いと獣特有の殺気を感じた。

 今、三頭のウルクスが私たちを取り囲む。普段は群れで生活する臆病な性格の魔獣なのだが、火災の黒煙で仲間を見失ったらしく、孤立した彼らは動転しているようだった。

 き出した牙を見せつけて威嚇する。逆立つ体毛を陽炎かげろうが一層大きく見せる。しかし所詮は群れの規模を強さに直結させてきた獣。個々の力は微々たるものだ。彼はともかく、私には何のおどしにもならない。あくまで本来であれば。

 私は身体の大部分を失い、彼は丸腰で両手がふさがっている。最悪の状況である。容易にねじ伏せられるとみるのが普通だ。


「去りなさい」


 私は警告する。消耗できる体力どころか時間すら残されていなかった。威圧のための魔力を解放する。

 一瞬、ウルクスたちはひるんだものの、数的優位を把握しており、格上の魔物である私にいどもうとする。

 そして私の解き放った魔力にあてられたのか、彼がよろめく。その隙をウルクスは見逃さなかった。私の背後にいた一頭が地面を蹴っておそい掛かる。

 間もなく私の身体に食らいつくはずだったウルクスの牙は、突如として盛り上がったはばまれる。

 わずかに遅れて到達した私の巨大なあぎとが土の壁ごとウルクスの胴体を捕らえ、粉々に噛み砕いた。大量の血飛沫の雨が身体にかかる。返り血で葉がふやけてしまいそうだ。


「い、今のは……」 

「〈大地〉の魔法です。それより、あなたは全力で走ってください」


 かつて魔獣だったものの肉片を二頭のウルクスの眼前に吐き捨てる。仲間の無惨な亡骸に戦意喪失した二頭は、そのまま黒煙の中に逃げていった。


「きみは強いんだね……」


 心なしか暗い声で彼はいった。


「あなたが弱すぎるだけです」


 実際、彼は人間のなかでも飛び抜けて弱すぎる。私と真逆だ。なのにどうしてこんな青年を頼りにしてしまうのだろうか。

 私を支える彼の手に力がこもる。すこし怒らせたかな。でも今は、あなたに頼るしかないんだよ。あなたは弱いけれど世界で一番頼りになる人なんだよ、と私は心のなかで語りかける。

 彼が走る。不安定な足場に何度もよろめきながら、外へ向かっているのがわかる。

 体力の限界を迎えたのか、私の感覚が鈍くなっていく。気絶はしないが、代わりに睡眠欲がやってくる。

 視覚がなくなり、聴覚も失われていく。熱さも感じられない。不思議と恐怖はなかった。

 あと一度でも魔獣に遭遇したら終わりなのに。天運に身を任せるしかない追い詰められた状況が楽しい。

 密着した身体を通して伝わる振動のおかげだろうか。血と汗と煤が混じった彼の匂いは、全然嫌いじゃなかった。

 彼が私の名前を呼んでいる。何かを話しかけている。私は答えてあげられない。どうか彼に、ヘカトンケイルの加護がありますように。



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