16.幽霊を作り、孤独な人<9月22日①>

 待ち合わせ場所は、駅だった。シンプルに時間と場所だけの連絡がきて、五分前に着くように待ち合わせ場所へ向かう。

 駅の入り口では既に鷺山が待っていた。

「待った?」

「いえ。大丈夫です」

 昨日の夜、篠原から聞いたことが頭に残っている。鷺山に会いたい反面、不安があった。けれどそこにいるのは普段通りの鷺山悠人だ。不安は影を潜めて、私もいつも通りに振る舞える。

 待ち合わせ定番の言葉を交わしてから、切符を買う。ここから数駅離れたところに行くらしい。水族館と観覧車がある臨海公園で、家族連れやカップルがよく行く場所。

 行き先は鷺山が決めると言っていたから、どこに行くのかと不安だったけれど、蓋を開けてみれば案外普通の場所だ。

「行き先は、臨海公園でいいの?」

「はい。水族館に行きたかったので」

「水族館が好きとか?」

「どうでしょう。ただ、死ぬ前にもう一度見たいと思った場所でした」

 電車に揺られながら、鷺山は淡々と語る。

「一度来たことがあるんです。両親が離婚してすぐの頃、祖母がここに連れてきてくれました」

 連休ということもあって電車は混んでいる。向かいの席には四人家族が座っていた。男の子と女の子は、お父さんお母さんの膝に座っている。鷺山の視線もそちらに向けられていた。

「本当は、家族で行く予定だったんです。それが叶わなくなり、母も約束どころではなくなりましたから、祖母が連れてきてくれました」

「優しいおばあちゃんだね」

「はい。ですが、母が再婚してすぐに亡くなりました」

 その思い出の場所だから、今日死ぬ前に来たかったのか。彼が切ない記憶を語るたびに胸がきゅっと締め付けられる。今日の死を受け入れているのだと再認識するような、辛い感情がこみ上げた。

「鷺山、手出して」

「はい。こうでしょうか?」

 差し出された手を掴む。電車に横並びで座って、手を繋ぐ。周りの目が恥ずかしい気持ちありつつ、でも温かな鷺山の手が生きているのだと伝えるようで心地よかった。

「今日は手繋いでこ」

 鷺山は答えず、こちらに視線を向けることもしなかった。かすかに顔が赤い気がして、たぶん照れているのだと思う。

「今日は、いっぱい色んなの見よう。水族館も公園も」

「はい」

「たくさん話そう。鷺山のことも教えて」

「はい」

 出会って十六日目。私たちの最後のデートが始まった。


 臨海公園について水族館に入る。チケットは鷺山が用意してくれていた。

 祝日ということもあって混んでいて、はぐれないよう手は繋いだまま薄暗い館内を進んだ。

「あ」

 すぐに鷺山が声をあげた。勝手に歩き出したので私もついていく。

 ぎりぎりまで照明を落とした館内の壁に水槽が埋め込まれ、ライトアップされてぼんやりと光っている。そのうちの一つに、鷺山の興味が向けられていた。

「ウニ?」

「とげとげしていますね」

「いや、そりゃ、見りゃわかる」

「一本一本が動いてます」

「うん。見りゃわかる」

 ウニなんて珍しくもなんともないのに、鷺山はなぜか目をきらきらと輝かせている。棘が一本ずつ動いていると言われたって、その動きがスローだから眺めるのも疲れてくる。何が楽しいのだろう。

「紫色ですよ」

 鷺山の琴線に触れるものがいまいち掴みづらい。

 ウニに興奮していたからトゲトゲ繋がりでハリセンボンを勧めてみたけれど、これは大して興味を示さなかった。

 蛸に烏賊、海の魚たちを眺めて奥に進むと、水族館の目玉である巨大水槽が出てきた。

「これ、覚えてます」

 ゆったりと泳ぐ鮪を見上げて、鷺山が言った。きっとおばあちゃんと来た時に、ここも見たのだろう。穏やかな気持ちを噛みしめて頷く。

「まぐろは眠らずに泳ぐんだそうです。不器用ですね」

「なんとなーく、鷺山に似てる」

「そうですか? 魚に似ていると言われるのはさすがに複雑な気持ちです」

「外見じゃなくて、生き方? 不器用でまっすぐで、謎」

 通り過ぎていく鮪が影を生む。泳いだ後に泡が残って、それは浮かんでどこかに消えた。

「それで言えば、香澄さんはウニですね」

「魚じゃないんだ?」

「触ったら痛そうな棘だらけで、人を遠ざけようとする。でも中身は美味しいじゃないですか」

「なるほどねえ。海の生き物に例えられると複雑ってこのことか」

 褒められているのか貶されているのかいまいち伝わらない。でも鷺山が楽しそうに眺めていた生き物だから、前向きに考えておく。


 水族館を出て、公園内にあるワゴンでサンドイッチとコーヒーを買った。時間はもうお昼を過ぎていて、遅い昼食だ。

 様々なものを挟んだコッペパン専門店らしいワゴンで、私はベーコンとたまごのサンドイッチを、鷺山は白身魚のフライが入ったサンドイッチを選んだ。

 水族館も公園も混んでいたけれど、ちょうどベンチが空いたところだったので座る。

 冷えていた水族館と違って外は蒸し暑い。公園は広くて端の方からは海も見える。そっち側に行けばもう少し涼しかったかもしれない。

「水族館の後って魚が食べたくなりますね」

「ならない。むしろ今はまぐろとか食べられない気分」

 鷺山は相変わらずマイペースだ。驚いたのは、彼がブラックのコーヒーを飲んでいること。私はブラックは飲めない。あんな苦いものをどうして美味しいと思うのか不思議でたまらない。それを鷺山は平然と飲んでいたから驚いた。新しい一面を見つけた気分だ。

 コーヒーを飲んでいる姿を観察していると、鷺山がこちらに気づいた。

「……何かありますか」

 じっと見つめられていては飲みづらいのかもしれない。戸惑っている様子がおかしくて私は笑う。

「大人だなと思って。ブラックとか飲めないよ」

「ブラックコーヒー程度で大人と言われても」

 それからサンドイッチにかぶりつく。本人曰く、水族館のおかげで食べたいと思った白身魚のフライがさくっと小気味よい音を立てた。

 それも眺めていると、鷺山が俯いた。

「あの……凝視されていると、食べづらいです」

「鷺山観察してるだけ」

「こう見えても、かなり緊張しているんです。食事ぐらい放っておいてください」

「そう? 私は鷺山と一緒にいるの慣れてきたけど」

 緊張しているようには見えないし、たかがご飯ぐらい緊張しなくてもと思うけど。

 視線を外して、私もサンドイッチを包みから取り出す。コッペパンからはみ出すぐらい大きなベーコンだ。それを少し食べ進めたあたりで鷺山が言った。

「香澄さんは慣れたかもしれませんが、僕は慣れません。香澄さんと一緒にお昼を食べているなんて夢のようです」

 残念ながら夢ではなくて現実だ。それは鷺山もわかっていると思う。

「あなたと過ごす休日に憧れていたので、今も現実味がありません」

「そんな憧れるようなもんじゃないと思うけど」

「ずっと香澄さんのことが好きだったので、幸せです」

 食事中の姿を見られるよりも、今の発言の方がよほど恥ずかしいと思う。それを聞く私でさえ顔がかっと熱くなった。

「その……好きってのは、恋愛感情として、だよね?」

「はい。それ以外の意味で使っていたら、軽薄な男じゃないですか」

 よくわかっているじゃないか。じゃあ、これは本気として受け取っていいのか。疑うわけではないけれど、あっさりと好意を明かしてくるから受け取り方に困ってしまう。

「ずっと聞きたかったんだけど、私のどこが好きなの?」

 言い終えてから、難しい質問をしてしまったのだと気づいた。そしてものすごく恥ずかしい。

 鷺山はじっくりと言葉を選んで、それから答えた。

「どこと言われると難しいですが、気がついたら目が離せなくなっていました」

「九月七日が初対面だよね? 一緒に予知を見た日」

「僕と香澄さんが初めて言葉を交わした日です。僕はもっと前から、香澄さんのことを認識していました」

 もっと前とは。頭に浮かんだのは彼の旧姓。

 聞かなければ前に進めない。勇気を出して、それを口にした。

「……鷺山が、江古田だった頃から?」

 不安と焦燥。心臓がどくどくと急いている。彼がどんな反応をするのか確かめるため、目が離せなかった。

 鷺山は、目を丸くして固まっていた。

「同級生の……江古田、だよね」

「どうしてそれを」

 薄らとした唇の隙間から、無機質な声が落ちる。

「香澄さんは、その頃の僕を知らないと思っていました」

「篠原から聞いた。他のクラスに江古田って子がいて、でも途中で転校した――それは鷺山だよね?」

 ついに鷺山がため息をついた。肩の力が抜けて、ベンチにもたれかかる。観念するように深く息をついて、言った。

「その通りです。僕は兎ヶ丘小学校に通っていて、当時の名字は江古田でした。転校は小学校三年生の途中ですね」

 両親が離婚して、鷺山は母親に引き取られた。そこで『鷺山』になったのか、もしくは母親の再婚時か。ともかく名字の変移は納得がいった。

 でも、鷺山も兎ヶ丘小学校に通っていたのなら、なぜ早く教えてくれなかったのだろう。それが腑に落ちない。言い出す機会は何度もあったと思うのに。

「どうして教えてくれなかったの?」

「……それは、」

 鷺山は俯いた。

「少し勇気がいるので……食べ終わってからでもいいですか?」

 その唇が動いたからどんな言葉がくるのかと構えていたら、マイペースな発言だった。緊張感ある中で昼食を優先するとは、さすが鷺山。

「あー……うん。そうだよね、食事中だった」

「いえ。いつか聞かれることだと思っていたので……でも心の準備をさせてください。すみません」

 歯切れは悪く、それをごまかすようにサンドイッチをかじる。私はというと、せっかくのパンも味気なく思えてしまっていた。焦らされている気分だ。

 せっかくの大きなベーコンもいまいち味がわからない。ちらりと隣を見れば、鷺山は少し顔色が悪かった。


 食べ終わって、園内を歩く。海辺の道は整備されていて綺麗だ。それに波音が心地よい。公園は貸し出し自転車があるらしく、海辺の道は自転車がよく通る。端の方を手を繋いだまま歩いた。

 鷺山の手は冷えていた。きっと私の方が熱いのだろう。

「昔、ここも祖母と歩きました」

「うん」

「水族館は暗くて祖母の表情はわかりませんでしたが、この道を歩いていた時、見上げた祖母の頬が濡れていて、泣いているんだとわかりました」

 遠くの方を眺めるまなざしは、切ない色を湛えていた。

「どうして泣いてたの?」

「家族が壊れていくのがわかったんだと思います」

 そこで言葉は途切れ、しばらくの間が空いた。

 繋いだ手がかすかに震えている。これから鷺山が語るだろうものは、彼にとって苦しい話なのだと察した。

 そして、かき集めた勇気を吐き出すようにゆっくりと、告げる。

「僕には、一つ違いの姉がいました」

「え?」

「姉は、小学生になる直前に病気が判明し、入退院を繰り返したので学校に通うことができませんでした。両親は姉の世話で忙しく、家は余裕がない状態だったので、当時の楽しい思い出はあまりありません」

 ぎゅっと、胸の奥が苦しくなる。その『姉』が誰なのか、薄々わかってしまったから。

「姉は学校に行きたいと話していました。退院して自宅にいる間、散歩として放課後の小学校に行くんです。彼女のお気に入りは飼育小屋のうさぎでした」

「もしかして、そのお姉さんが、えこちゃん?」

 鷺山は頷いた。

「はい。姉の名は江古田えこだ ゆめです」

 やはり、えこちゃんはいた。それが鷺山と繋がっているとは想像もしていなかったけれど。

 ずっと探していた『彼女』にたどり着けた気がして嬉しくなる。けれど、鷺山の表情は晴れなかった。

「僕が小学校三年生の時でした。姉の病状がよくなり、退院して学校に通っていいと宣告されました。姉は喜んでいて、飼育小屋で出会った友達と学校で遊ぶんだと僕に話していました」

「その友達ってのが私だよね?」

「はい。姉が何度も話すので友達の名前を覚えてしまいました。それが香澄さんの名前でした」

「私の話してたんだ……遊べなかったこと、怒ってた?」

 ずっと心に引っかかっていたこと。私がえこちゃんに再会した時、とにかく謝罪がしたかったから。

 行けなかったことをえこちゃんはどう思っていたのか気になって鷺山を見る。彼が首を横に振ったので、少し安心した。

「姉にとっての香澄さんは、目標だったんです。学校に通って香澄さんに会うことを楽しみにしていましたから」

「……うん」

「でも……姉は、学校に通うことなく、亡くなりました」

 鷺山の顔色が悪くなる。空いた手で苦しそうに胸元を押さえていた。

「大丈夫?」

「すみません。僕にとって……いい話ではないので……」

 深く息を吸いこんで、それでも手の震えが止まらない。歩道沿いにベンチがあったので、私たちはそこに向かった。

 腰掛けて落ち着いた頃に、再び話はじめる。やはり具合は悪そうだった。

「姉が学校に通えると決まって、僕は姉と出かけたんです。姉の病気が再発しないことを祈るため月鳴神社に行きました。そして、拝殿の前で予知を見ました」

 鷺山は、今回の予知が二度目だと言っていた。そして一度目に選んだ未来は鷺山が生きる未来だったとも。

 手が震えていた。苦しみに歪んだ表情から、鷺山が後悔と戦っている気がした。

「交通事故の未来でした。その時は未来の出来事だと気づかなかったので、二つの月が浮かび二つの未来が示される中で、姉が笑って言ったんです――大変な病気も乗り越えられたんだからこれぐらい平気だよって」

「……それで、えこちゃんは亡くなったんだ」

「はい。香澄さんに、申し訳ないです」

 鷺山は、私に向かって頭を下げた。

「僕が生き残ってしまったから、あの日に選択を間違えたから、たくさんのものを壊してしまった。家族はバラバラになった。兎ヶ丘小学校に幽霊の噂を作ってしまった。そして……香澄さんは深く傷ついた。ぜんぶ、僕のせいです」

「違う」

 咄嗟に言い返していた。鷺山の震える手を両手で覆う。鷺山が謝ることはないのだと伝えたくて、強く力を込めた。

「確かに幽霊の噂で傷ついたけど、それは鷺山のせいじゃない。噂話を作った人だから」

「いえ。結果として、幽霊を作ったのは僕です」

 声が掠れていた。背負うものの重たさに、潰れそうな声だ。

「姉が亡くなった後から両親の関係も悪くなりました。月鳴神社で見たことを話しても信じてもらえず、母は気味悪がって僕を遠ざけました。僕は父似ですからそれも嫌だったのでしょう。祖母だけは僕を可愛がってくれたので、この臨海公園に連れてきてくれたんです」

「……うん」

「その後は引っ越して、母が再婚し、僕は『鷺山』になりました。実家に帰れば年の離れた弟がいますから、僕には興味がないようです」

「だから実家に帰るの、嫌そうだったんだ」

「そうですね。新しい家族を見ていると、僕が壊したものの大きさを再認識してしまうので。実家にいても一人で暮らしても、たいして変わりません」

 鷺山の感情が表に出づらい理由はここにあるのだろうか。月鳴神社で起きたことを話しても信じてもらえず、大切な場所は壊れ、最後の寄る辺となった祖母も亡くなり――どれだけ孤独だったのだろう。

 想像しようとして、でも出来なかった。私が考える絶望じゃ、鷺山が背負うものに届かない。それだけこの人は傷ついてきたのだ。過去の話をするだけで手が震えて、具合が悪くなるほどに自分を責めて生きてきた。

 悲しくて、たまらなかった。

 泣いていいのは私じゃなくて鷺山だとわかっているのに、涙が止まらない。いつもの丸まった背は、私に見えない重たいものを乗せていたのだ。気づかず、自分のことばかりだった数日が悔やまれる。もっと早く知っていたのなら。鷺山の孤独に気づけていたのなら。

「あの日に僕が死ぬ未来を選んでいたら、姉は学校に通っていた。兎ヶ丘小学校の飼育小屋に、黒髪おさげの幽霊の話なんて出なかった」

「作ってなんかない! 幽霊なんていないから!」

 かぶせるように叫ぶと、鷺山が顔をあげた。こちらを見て、穏やかに微笑んでいる。

「どうして香澄さんが泣いているんですか」

「だって、鷺山が泣かないから」

「それは理由になっていません。姉が亡くなってることで泣いているんですか?」

「それもあるけど、違う。鷺山が背負いすぎてるから」

 涙を拭っても、止まらない。

「鷺山のせいじゃないよ。月鳴神社の予知だって、あれが未来に起こることってわからない。幽霊だって勝手な話を言いはじめた人が悪い。家族のことも鷺山だけの問題じゃない。だから鷺山はなんにも悪くない」

「……」

「自分のせいだって背負い込んで、自分を傷つけないで。だから謝らないで」

 泣いているのか叫んでいるのかわからなくなる。歩道を歩く人が私たちを見れば、何の話をしているのかと驚くかもしれない。でも、構わなかった。

 私のことを信じてくれた鷺山だから、伝わると信じている。今すぐ言葉にしてぶつけないと、彼の孤独に足を踏み入れることができない、きっと。

 泣きじゃくる私の頭に、ぽんと何かが触れた。頭を優しく撫でられ、一瞬だけ涙が止まる。それから柔らかな表情で彼は言った。

「ありがとうございます。やっぱり、僕の好きな香澄さんだ」

「……い、今、そういうこと言う?」

「はい。あなたの知らないところで、僕はあなたに救われていましたから」

 おかしなことに鷺山に頭を撫でられると涙は止まって、濡れた頬に潮風が沁みる。

 海が眩しい。視界の端で、波が太陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。随分と低くまで落ちてきて、もうすぐ太陽は赤くなるのだろう。

 私たちの時間が、減っていく。

 ぼんやり海を眺めていると、鷺山が立ち上がった。

「あの、行きたいところがあるのですが」

「なに?」

「香澄さんと観覧車に乗りたいです」


 海沿いの道から観覧車までは結構な距離があった。さらに観覧車も待機列が出来ている。

 私たちがゴンドラに乗りこんだ頃には、赤く染まった太陽が水平線に飲まれる前の、最後の眩しさを放っていた。

「意外と揺れますね」

 向かいに座る鷺山は、落ち着かない様子でゴンドラ内や外を眺めていた。

 観覧車も初めて乗ったらしい。乗りこむ時にもゴンドラが動き続けていることに驚き、乗りこんでからは安堵の息をついていた。

「眩しい時間に乗っちゃったね」

「下に着く頃には暗くなっているかもしれません」

「……うん」

 返事をしながらも、心は別のものに向けられていた。夜がくれば、予知で見た時間がやってきてしまう。この観覧車が下に着かなければいいのにと思った。

「観覧車に付き合って頂いてありがとうございます。好きな子と観覧車に乗るのが夢だったので叶いました」

 狭いゴンドラの、対面で。鷺山は照れることなく、さらっと恥ずかしいことを言ってのける。

 そういえば『夢だった』という台詞、今日も聞いた。そのことを思い出して、私はくつくつと笑った。

「鷺山って、意外とロマンチストだよね」

「初めて言われました」

「ほら。お昼を食べるのが夢とか、観覧車とか」

「なるほど……」

 彼は顎に手を添え、何やら考えこんでいた。このまま放っておくと思案に暮れて戻ってこなくなりそうなので、私から話題を振る。

「デートも夢だった?」

「はい。香澄さんと一緒に出かけたいと思っていました」

 視線を外の景色へと逃がし、語る。その手はもう震えていなかった。

「兎ヶ丘高校への進学を決めた理由は、姉から聞いていた香澄さんに会うためでした」

「私に?」

「姉を死なせてしまったことの、謝罪がしたかったんです。姉が亡くなってからの日々はいい思い出ではありません、家にいるのも辛い時がありました。でも香澄さんに謝罪することが心の拠り所でした」

 きっと。私の想像を絶する辛い日々があったのだろう。おばあちゃんが亡くなって、新しい家族の間には居場所がなく。そんな時、彼の支えになったのが『謝罪』というのが切なくて、自然と唇を噛んでいた。

「兎ヶ丘高校に進学すれば兎ヶ丘での一人暮らしが許される。同じ高校にいなかったとしても、在学中に香澄さんを探せるかもしれない――そう思っていました」

「実際は、同じ高校だったね」

「入学式の日にクラス分け表が張り出されているのを見て、嬉しくなりました」

「すぐ話しかけてくれたらよかったのに」

「最初はそのつもりでしたが、香澄さんの様子は姉に聞いた話とだいぶ違っていたので躊躇いました。明るくて優しい子だと聞いていたのに、他人を寄せ付けず暗い人でしたから」

 躊躇ってしまうのもわからなくはない。飼育小屋の幽霊話が広まってから、私は他人との距離を置くようになっていた。友達は作らず、いつも一人。えこちゃんと知り合った頃とは真逆になっている。

「姉の死が香澄さんを変えてしまったのだと思いました。僕の生活が変わったように香澄さんも変わった。だから原因である僕に声をかける資格はない――そう気づいた頃には遅かったんです。あなたから目が離せなくなっていました」

 つまりは。話しかけるタイミングを計るべく観察しているうちに、好きになってしまったという話だ。好意を自覚する頃には声をかけてはいけないと思い込んでしまったのだろう。

 えこちゃんの死は自分のせいだと背負っていた鷺山だから、その結論に至るのは仕方ない。今となっては早く知り合っていたかったと悔やんでしまうけれど。

「話しかけたいけれどできず、そのうちに僕は香澄さんのファンとなってましたね」

「自他共に認めるストーカー」

「今は公認になったので安心しています」

 それは安心していいところだろうか。認めた覚えもないのだが。疑問は浮かぶけれど、いったん忘れることにする。

「それで、神社で声をかけてきたのは?」

「あれは僕の失敗でした。それまで心の中で『香澄さん』と呼びかけていたものを、うっかり口にしてしまったので」

「初対面で名前呼びはね……あれはインパクトが大きかった」

「すみません」

 けれどそこから、今の私たちになっていくのだ。

 鷺山という謎の人物と共に守り隊に入って、ポスターを作って、肝試しを阻止して。友達だって出来た。出会う前の私では他人と繋がることで叶うものがあるのだと知らなかっただろう。

「色々あったね。振り返れば、ぜんぶ楽しかった気がする」

「僕もです。香澄さんと話したことで、知ったこともありました。姉が飼育小屋でどのように過ごしていたのか、気に入っていたウサギのこと、その墓参りもできたのは香澄さんのおかげです」

 いつだったか、藤野さんから『日曜に飼育小屋のあたりで鷺山を見た』と聞いたけれど。それはユメの墓参りにきたのだろう。私から飼育小屋の話を聞いて、えこちゃんが好きだったウサギを知ったのだ。それは遠くから見ているだけでは知り得なかった情報だろう。

「お祭りも、楽しかったです。浴衣姿の香澄さんが見られなかったのは残念でしたが」

「そうだ。鷺山の目を描いたポスター、記念にもらえないか聞いてみよう。部屋に飾りたい」

「何かを残したいと言ったのは僕ですが……それは勘弁してください」

 呆れたように言って、鷺山はこちらをまっすぐ見つめる。

 ゴンドラは頂上に近づいていた。赤く染まった太陽が海に溶けていく。薄暗い紺色の空でビルの波に光が点いていった。

「香澄さん、ありがとうございました」

「え? それって何のお礼?」

「姉と友達になってくれたこと、そして僕と一緒にいてくれたことです」

 それならお礼なんて言わなくたっていい。

 だって、私も鷺山のことが好きだ。理由はわからない。けれど気がついたら、隣にいてほしいと願うようになっていた。今日だけじゃなくて、明日だって一緒にいたい。

 その気持ちを伝えようと唇を開きかけ――けれど、鷺山の方が早かった。

「だから。あなたのために、僕は死にます」

「……は、」

 言いかけたものを飲みこむ。喉元がきゅっと苦しくなった。

「予知と今では、掲示していたポスターが違う。他にもいくつか差異が発生していますが――このまま予知と異なる事態が起き、香澄さんの身に何かが起こることだけは嫌です」

「だから、それなら未来を変えないって言うの?」

「僕は、あなたと予知を見た時に、これが運命だと思いました。僕が生きていたのはあなたを生かすため。あなたを守ります」

 違う。そんな風に守られたくない。私は首を振った。

 ゴンドラが沈んでいく。私の気持ちもそれに似ている。

「嫌だ、死なないで」

「香澄さん、僕は――」

「それならお祭りなんて行かなきゃいい! ずっと公園にいよう。例大祭が終わってから帰ればいい。私のためになんて言わないで。絶対に死なないで」

 止まったはずの涙が出そうになって、けれど鷺山は微笑んだまま。彼のまなざしにある諦念は変わらない。

 何を告げれば、その瞳は光を点すのだろう。夜の闇みたいに真っ暗になってしまう前に、伝えなきゃいけないのに。

 鷺山を引き止める言葉は浮かばなかった。だから、感情をありのまま伝えることしかできなくて。

「鷺山が……好き、だから」

 手が震える。心臓が急いてうるさい。

 想いを伝えるのはこんなにも勇気がいる。出会った日に想いを告げた鷺山は、どれだけの勇気を振り絞ったのだろう。

「……か、香澄さん?」

「好きなの。気づいたらあんたが好きだった。だから、お願いだから、死なないで」

 ちらりと見れば、鷺山は目を丸くして、口もぽかんと空いている。今までにないほどわかりやすく、彼は驚いていた。

「ゆ、夢……ですよね?」

「夢じゃない。ちゃんと告白してる」

 恥ずかしくて顔が熱い。きっと赤くなっているのだろう。もう少し早かったら、夕日のせいにできたのに。

 見れば鷺山も顔が赤くなっていた。照れているのか、視線を逸らしている。

 これが現実だと伝えるため、一歩前に踏み出して、鷺山の手を掴んだ。

「生きていてほしいから、明日の約束をしよう」

「どんな内容ですか?」

「一緒にお昼を食べよう。手を繋いで帰ろう。私が前髪を切ってあげる。あと鷺山が見たがってた浴衣も着る」

 次に思い出したのは、彼が語っていた将来の夢のこと。

「鷺山が救急救命士になれるよう、ずっとずっと応援する」

「それは……僕の夢でしたね」

 私は頷いた。

 今なら、鷺山がそれを目指した理由がわかる。えこちゃんの交通事故がきっかけで、誰かを救える人になりたいと思ったのだろう。たくさんのものを壊したと自責の念にかられていたからこそ、何かを助けたかった。

 鷺山は私を助けるべく死ぬと言っているけれど、それは違う。

「生きよう。最後まで未来を信じよう」

「香澄さん、僕は――」

「うんって言うまで帰らない」

 私が言うと、鷺山は笑った。

「わがままですね」

「諦めが悪いの」

「困りました。僕は嘘がつけないので」

「じゃあ、言って。生きるって約束して」

 困ったように微笑んで、それから鷺山はこちらに手を伸ばした。

「香澄さんが好きです」

「聞きたいのそれじゃない」

「あなたが、僕のことを好きだと言ってくれたことが、一番の幸せです」

「違う」

「ずっとあなたと話したかった。僕の好きな人は、あなただけです」

 生きるって、たった三文字でいいのに。

 鷺山は言ってくれない。

 ゴンドラはみるみる地面に近づいていく。辺りは夜の闇に包まれて、暑くて眩しい太陽は消えてしまった。

「そろそろ、月鳴神社に行きましょう」

 ゴンドラを降りる時、鷺山は小さな声で言った。繋いだ手はそのまま、けれど振り返らない。

 嫌だと叫んでも、きっと鷺山は行くのだろう。

 行かなければ未来を変えられるかもしれないのに、鷺山はそれをしない。私を生かすためにと理由をつけて。

「……私も、行く」

 悲しくて、たまらなかった。

 未来は変わるって信じてる。信じているけれど、怖い。

 十六日間は、私を変えてしまった。だから、この手が消えてしまったら耐えられなくなる。

 好きだから、死なないで。明日も一緒にいて。

 公園から駅までの道のりは視界が滲んでいた。涙が落ちぬよう空を見上げれば、予知の時と同じ、白く大きな満月が浮かんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る