9.きれいな瞳<9月15日>

 終礼後の掃除が終わって放課後。生徒たちが次々と教室を出て行く中、私は自席に着いて鷺山を待っていた。

 昼休みに隣のクラスへ行って、放課後ここへ来るように伝えたのだ。昨日のことがあったというのに鷺山の表情に気まずさはなく、いつも通り淡々としていた。どんな時も塩味の人だ。

 一人、また一人と生徒が教室を出る。藤野さんや古手川さんがいれば挨拶ぐらいはしたけれど二人ともどこかへ行ってしまったので、言葉を交わす人がいない。だから黒板の方をぼんやりと眺めて鷺山が来るのを待った。誰とも会話せずに待ち続けることは苦でなかったはずなのに、今日は時間の経過を遅く感じる。

 教室に残るのが私だけになった頃、扉が開いた。

「遅くなってすみません」

「大丈夫」

 他クラスに入ったことで落ち着かないのか、鷺山は教室を見渡していた。守り隊打ち合わせの時と違ってどの椅子を借りるのか決まらないらしい。私は自席の前を指さした。

「ここに座って」

 鷺山が席について、呼び出した理由を確かめるようにこちらを向いたところで話を切り出す。

「せっかく二人でポスターを作ったのに、提出しないと勝手に決めたこと。意地張って引っ張ってだめにしちゃったこと。ごめんなさい」

「謝らないでください。破れてしまったのは僕にも責任があります」

「でも私は、鷺山の話を聞かずに一人で決めてた。ポスターを作ったのは私だけじゃないのに勝手なことをしたから」

 ずっと頭を下げたままの私に、鷺山は困っていたのかもしれない。返事はすっぱりと答えるくせに今回はなかなか時間をかけている。返事がこない隙に、私は続けた。

「お詫びをさせて」

「……はい?」

「兎ヶ丘小学校の話を鷺山は信じてくれたのに、私はあんたを信じないで勝手な行動を取って傷つけた。だからお詫びをしたいの」

 顔をあげて様子を確かめれば、彼は目を丸くしてこちらを見ていた。それから視線を逸らして、なぜか手で口元を隠す。

 この『お詫び』というのが考えた末の距離の詰め方だ。これなら鷺山の求めるものがわかる。何を好んでいるのか、好きなジュースの銘柄でもいいから、彼のことが知りたかった。

 無言が続いても、鷺山が答えるまで私は何も言わないと決めていた。その覚悟を持ってじいと彼を見つめる。するとおそるおそるといった小声で、鷺山が言った。

「お詫びは、何でもいい……ですか?」

「うん」

「じゃあ、」

 教室を泳いでいた視線が、私をまっすぐ捉える。それから、やはり塩味みたいに淡々とした声で紡いだ。

「二十二日に僕とデートしてください」

 これだけ時間をかけて悩んでおきながら、出てきたのがデートとは。予想の斜め上すぎる。

 恋愛色似合わぬ鷺山から飛び出したと思えない単語で聞き間違いかと思ってしまった。確かに告白はされたけれども、あれが本気だったのかいまいち判断できぬまま。だって表情変化に乏しい男だ。この言葉でさえ、明日の夕飯を語るような軽さで感情はこもっていない。

 だから私の反応はひどく遅れた。真意を探ろうと考えこんで、気づかぬうちに眉間に力まで入って。

「冗談です」

 言葉の反芻に必死だった私を止めたのは、鷺山の一言だった。

 彼は背を向けようとし、口元を隠していた手がするりと下がった。その、ほんの一瞬。隠されていた頬が普段よりも赤く色ついているように見えてしまった。感情を押し込めるように噛んだ唇。頬だけじゃなく耳までいつもより赤くなっている。

 もしかすると、照れている。私に背を向けたのは赤い頬を見られぬよう逃げるためで、勇気を振り絞ってデートという単語を口にしたのだ。きっと。たぶん。

「わかった。一緒に出かけよう」

 冗談でデートの提案をしたのなら、「真に受けないでください」と言ってくれればいい。そうなれば私は、彼は冗談がうまいのだと認識しよう。

 けれど。慌てたように振り返る鷺山の口が紡いだのは違う言葉。

「……いいんですか?」

「うん。二十二日空けておく」

 彼はじっと私を見つめて、ゆっくりと頷いた。

「はい。僕も空けておきます」

 鷺山について一つわかった。彼は冗談が苦手だ。その口から『冗談です』と何度も聞いたけれど、どれも本気で言っていたのかもしれない。だって今は、わずかだけれど口元が嬉しそうに緩んでいる。

 冗談が苦手という彼の裏側を知れたことが嬉しい。開いていた距離が少しだけ縮んだ気がした。

「そういえば、ポスターの提出期限って延びたの?」

「どうしてそれを知っているんですか」

「昨日藤野さんと古手川さんから聞いた。鷺山が、ハナ先生に頭を下げてくれたって」

 すると鷺山は鞄から画用紙を取り出した。

「はい。期限を延ばしてもらいました。もう一度作り直そうと思っていたので」

 あの後で鷺山はハナ先生から新しい用紙をもらったのかもしれない。前のと同じようなデザインの下書きが書いてある。昨日かもしくは今日の昼休みにでも一人で書いていたのかも知れない。

「一人で作り直すつもりだったの?」

「採用されなかったとしても、香澄さんと一緒に考えたデザインのものを残しておきたかったんです」

「採用されなくてもいいってどうして。せっかく出すなら採用されたいでしょ」

「いえ、」

 そこでいったん言葉を区切り、鷺山は黒板の端に視線を送った。放課後だから日付は消えているけれど、今日は九月十五日だった。小さなため息が聞こえて、ぽつりと呟く。

「二十二日が来て僕が死ぬ前に、何かを残したかったんです」

 私は鷺山に死んでほしくない。防犯ポスターが採用されて掲示されたら未来が変わると願っていた。でも鷺山にとって採用不採用は関係ないのだ。完成して形に残ることが、彼の願い。

「私も作る。一緒に作り直そう」

 ポスターを作り上げれば彼の願いは叶うし、これが採用されて未来が変われば私の願いも叶う。ただの紙切れを掲示したところで泥棒が心を入れ替える保障はないけれど、私に出来ることは全部やりたい。

 改めて下書きを眺めれば改善点が浮かぶ。最初に色を塗った時、もう少しインパクトのある絵にしなければ目立たないと反省した。以前のものは人目を引く絵とは言い難い。せっかく期日も延びて作り直せるのだから、前回の反省点を直さないと。

「前回よりも文字を大きくした方がいいよね」

「そうですね。色はいいと思いますが、文字は直しましょう」

「あとイラスト……これも人目を引くものに変えたいけど」

 とはいえ私も鷺山も絵は苦手だ。通行人が驚き立ち止まるような綺麗な絵は難しい。参考になるものがあれば違うかもしれないが、良い見本も浮かばない。

 そこでふと顔を上げて、気づいた。

 ポスターを眺めるため俯いていたことで、普段は長い前髪で隠し気味の瞳が見えている。

「鷺山。ちょっといい?」

「何でしょう」

「眼鏡外して」

 理解できないといった表情で鷺山が眼鏡を外す。分厚い眼鏡だ。すかさず手を伸ばして、長い前髪を持ち上げてみる。まじまじと見れば綺麗な目だ。これを隠しているなんてもったいない。綺麗な黒の瞳に、私の姿が映り込んでいる。

 そう、目だ。

 前に何かで読んだことがある。悪いことを考えている人は人目を気にする。だからこそ目玉を使ったポスターは、監視されているようで効果があるらしい。目しか書いていないポスターなんて不気味だが、だからこそ効果がある。

「あ、あの?」

「……これだよ。目だよ」

 良いアイデアが浮かんで興奮の気味の私と異なり、鷺山は困惑しているようだった。

 掴んでいた前髪は解放して、思い浮かんだものを説明する。これなら私たちでも書けるかもしれない。私か鷺山の目を写真に撮って、それを参考にすればいいのだ。

「では香澄さんの目を見本にしましょう」

「やだ。鷺山でいいじゃん。綺麗な目なのに隠してるのもったいないでしょ。もう少し前髪切った方が似合うと思うよ」

「香澄さんの方が綺麗です」

「いや、鷺山でしょ」

 鷺山も頑なな態度を崩さないものだから、私たちの言い合いが止まらない。たかが見本を決めるだけなのに騒いでいると、教室の扉が開いた。

「あ。やっぱり鬼塚さんだ」

 そう言ってやってきたのは藤野さんと古手川さん。さらに篠原もいる。

「部活は?」

「うちと篠原は剣道部で古手川さんが美術部。でも今日はお休み!」

「どうして」

 藤野さんは笑って隣の席に腰掛ける。古手川さんと篠原もやってきて、作りかけのポスターを覗きこんだ。

「篠原から『鷺山が昼休みにポスター作ってた』って聞いたから。様子見に行こうと思ったんだ」

「てっきり鷺山だけ残ってると思ったのに鬼塚がいるなんてな。お前ら付き合ってんのかよ」

「違う違う。一緒にポスター作ってるだけ」

「でも『香澄さん』って呼んでなかった?」

「は!? お前ら、名前で呼び合ってんの!?」

「まじかよー。俺が彼女作るより先に鷺山かよー」

 鷺山が『香澄さん』なんて呼ぶから誤解がひどくなっていく。どうしたものかと助けを求めるように鷺山を見れば、彼は素知らぬ顔をしていた。面倒なことになりそうだから余計なことは言わないというスタンスだろう。私もそれに乗っかっておく。

「ねえ。聞いてもいい?」

 落ち着いた声音で切り出したのは古手川さんだった。

「鬼塚さんたちは、どうして防犯対策のポスターを作ろうと思ったの?」

 月鳴神社で予知を見たから、とは言いづらい。彼女たちなら信じてくれるかもしれないけれど、あの予知が本当に起こるかは確証がないのだ。もっと納得してもらえる理由は。

「日曜日に、スリに財布を取られるところを見たの」

「え!? 見たってどういうこと?」

 そうして

 おばあさんとぶつかった男の人、男の人が持っていたのはおばあさんの財布だったことを話していく。

「兎ヶ丘でもそういうことがある。例大祭の日みたいな浮ついた時も気をつけなきゃいけない……って私は思う」

 当初は神妙な面持ちだった藤野さんや古手川さんも、話し終える頃には真剣な表情へと変わっていた。身近でそういう事件が起きるのだと、危機感を持ったのかもしれない。

「なるほどな。鬼塚と鷺山が防犯をテーマにした理由がわかったよ。祭りならたくさん人がいるからこえーよな」

 そう言って篠原は隣に座る藤野さんを見た。

「藤野の家って旧道沿いだったよな? お前の家ボロいんだし、気をつけろよ」

 同じ部活で仲がよいのもあってからかっているのだろう。けれど予知でこの先に起こることを知っている私は固まるしかなく。だって篠原の言う通り、狙われるのは藤野さんの家だから。

「やだなあ。ボロ家だから入らないんだって」

 私の心中を知らず、藤野さんは笑っていた。

「お祭りの日、どうすんの? お前も伊豆に行くの?」

「ううん。うちは留守番。めんどいからさー、一人でのびのびするよ」

「いいこと聞いた。俺、遊びにいくわ。藤野の家でパーティーしようぜ」

「絶対来るな」

 二人は楽しそうに話しているけれど、私は不安で心臓が急いていた。結局藤野さんは家に一人で残るのだから、予知と変わらない。

 未来が、変わってほしいのに。

 ちらりと鷺山を見れば、話に興味がなくなったらしく下書き作業に戻っている。鉛筆がしゃかしゃかと動いて、薄い線を描いていた。

 古手川さんが鷺山の作業を覗きこむ。

「鷺山くんと鬼塚さんが作るポスターって一枚?」

「本当は何枚も作りたかったんだけど一枚しか作れなかったんだ。その一枚も色々あって私が破っちゃったから作り直してるの」

「ふうん……」

 すると古手川さんは腕につけていたシュシュを外して髪を結んだ。次は鞄を開けてペンケースを取り出す。どうしたのかと様子を伺っていれば、彼女はにっこりと微笑んだ。

「私も手伝う。私も作れば、提出日までに三枚ぐらい作れるよ」

 鷺山が顔をあげた。眼鏡越しに見えた瞳はまんまるになっていて、鉛筆を握った手も動きをとめていた。

 古手川さんの宣言に続き、藤野さんや篠原もこちらを向く。

「うちもやる。みんなで作れば間に合うって。篠原もやるから」

「勝手に俺を混ぜるな」

「いいじゃん。篠原どうせ暇でしょ」

「暇じゃねーよ」

 藤野さんはともかく篠原は巻き込まれてもいいのだろうか。同じ疑問に至ったらしい鷺山が、逃げるなら今のうちと語るように篠原へ視線を送った。

「なんだよ鷺山」

「無理して参加しなくても大丈夫ですよ」

「……まあ、暇じゃないけど気が向いたから手伝ってやるよ。でも絵も書けないし文字もきたねーから、色塗り担当でよろしく」

「単細胞だからべた塗りしかできないもんねー」

「うるせー。藤野に言われたくねーよ」

 渋々といった発言だけれど、表情を見るにまんざらでもなさそうだ。

 三人増えればポスターはたくさん作れるかもしれない。デザインだって美術部の古手川さんが手伝ってくれれば、今よりいいものが作れるかもしれない。


 なんだかんだ言って制服を腕まくりしている篠原に、楽しそうにデザイン案を語る藤野さん。古手川さんが書く文字は綺麗だし、イラストも上手い。動き始めたそれぞれの姿を見渡すと胸の奥が温かくなっていく。

 閑散としていた教室が騒がしくなって、でも煩わしさはない。絵の具を塗ったり、ポスターマーカーで塗りつぶしたりの単調な作業も今日は何かが違った。

 藤野さんと古手川さんは二枚目の下書き。色塗り担当立候補した篠原は筆を置いて藤野さんたちに茶々を入れている。つまりサボりだ。

 一枚目の仕上げ作業をしているのは私と鷺山だけだった。

「香澄さん、楽しそうですね」

 黄色のポスターマーカーで標語の文字を塗りながら鷺山が言う。

「そう? いつもと変わらないけど」

「いえ、楽しそうです。僕はよく香澄さんを観察してますから。ファンです」

「ファンっていうかストーカーね」

 軽口を飛ばしながらも、気分はそこまで悪くない。

 鷺山が文字を塗っているので私は別の作業をする。一枚目はもうすぐ終わるから、三枚目のデザイン作りに取りかかる。採用してもらう確率をあげるためにも枚数は多い方がいい。

 三枚目のデザインは決めていた。作業のためうつむき、隙間から覗き見えた鷺山の瞳を書き写す。

 改めて見ても隠しているのがもったいない綺麗な瞳だ。眼鏡を外せばイケメンってのは漫画の定番ネタだけれど、鷺山だって負けていない。イケメンとまでは呼べなくても今より格好良くなると思う。前髪を切って髪を整えて、眼鏡を外して猫背も治したらきっと。

「面白いことでもありましたか? ニヤニヤしていますよ」

「ごめん。ちょっと変なこと考えてた」

「そうですか……ところで、香澄さんは何を書いているんですか?」

 鷺山が手を止めてこちらへ視線を送る。私は白い紙に薄く書いた目の絵をつついて言った。

「あんたの目」

「……やめてください」

「やだ。鷺山の目って綺麗だよ。私は好き。だから書く」

「好んでもらえるのは嬉しいですが防犯対策として使われるのは複雑ですね」

 呆れ息を吐いていたけれど、それ以上の制止はなかった。使用を許されたのかもしれない。

 ちらちらと眺めながら書いていく作業は楽しい。ポスターを見ている人と目が合うように書いているので、下書き中は鷺山の瞳が私を見つめている。書いているのは私で、乏しい画力だからリアルではないけれど、視線を交わしていることがくすぐったくなる。

「これ、お気に入りになりそう」

「よかったですね」

「ねえ、前髪切ろうよ」

「不器用なのであまりいじりたくないんです」

「は……? まさか自分で切ってる?」

 驚きに声が上擦った。すると鷺山はおかしなことでもないと言いたげに首を傾げていた。

「はい。でも自分で髪を切るのは難しいので、先延ばしにして前髪が長くなりました」

「……なるほど」

 ぼさぼさの髪も前髪も、そういう理由があったとは。鷺山は一人暮らしだから誰かに頼ることもできなかったのだろう。困っていたのなら教えてくれればよかったのに。

「じゃあ今度私が――」

 髪を切ってあげるよ。言いかけたけれど、それは飲みこんだ。

 予知の日まで七日しかないのに今度なんて。その日がどうなるかもわからないのに約束をするなんて酷だ。

「香澄さん?」

「……なんでもない」

 未来の話をしようとしても、胸が苦しくなる。視線を落とせば、書き写した鷺山の瞳と視線が重なった。責めることも悲しむこともない無感情のまなざしは息が詰まりそうだけれど、綺麗な瞳だ。

 この瞳に映るのが二十三日でありますように。願いを託して下書きを続けた。

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