第10話

 レオンは消えた。いなくなってしまった。目の前にレオンの顔があるというのに、ここにもう彼は、僕の友達はもういないのだ。なんで、どうして、僕の現実と言うのはいつもいつも僕の理解が、僕の覚悟が、僕の認識がついてくるようにできていないのだろうと思った。理不尽ばかりが僕の知る現実を打ち壊して、平和な時間をたっぷりと過ごした僕の心を壊そうとする。今までお前は戦っていなかった、誰も殺してこなかったと誰かが僕を責め立てているかのように、理不尽は僕の大切な友達を、記憶の共有者たちを奪い去っていく。ここにあるただ一つの現実の名前は、きっと死と言うのだ。

 泣いている暇はないのに涙が溢れ出し、それが顎に伝う前に汗と一緒に凍り付いて霜になっていく。さよならの言葉も言えないまま、僕はレオンの死体から離れて塹壕を駆け抜ける。ガリルが重い。二つの手榴弾が左右に揺れて変な音を立てている。機関銃の音が左側からしなくなっているのに気づいたのは、その時だった。左翼の軽機関銃班がいなくなっている。制圧射撃の効力が一気に弱まる。

 中腰のまま塹壕を移動して、僕は隣に配置されていた小銃分隊の端っこの予備役兵が合言葉を叫ぶのを聞いた。


「サーミ!!」

「シイダ!! ―――第二対戦車班、射手戦死!!」

「了解!」


 戦死とすぐに口にできたのは訓練の賜物だとしか言いようがない。身についた言葉や動作は自分のぐちゃぐちゃになった心なんて気にせず、勝手に僕の身体から飛び出していく。予備役兵が分隊長に報告するのが視界の端で見えた。分隊長は困惑したような表情をしたが、すぐに平静を装おうとしたが、失敗して顔面麻痺になった老人のような、左右で違う表情を浮かべたまま固まってしまっていた。そんな彼でも訓練で叩き込まれたことは、自然と身体がやってくれるようだった。

 右の機関銃の音が聞こえなくなった。それは両翼の軽機関銃班が壊滅したことを意味している。軽機関銃班の指揮を執っていたラッセル伍長の顔が、そしてウィスキー交じりの水の入った水筒の重みが僕に襲い掛かる。どちらも軽いなんて言えたものじゃない。重量として軽くたって、その記憶には、そしてこの水筒のウィスキーには、ラッセル伍長がいる。僕はまだ覚えている。彼を、彼らを覚えている。心がゆっくりと壊れていくような音がしたけれども、それは僕が塹壕の底に溜まった雪を踏む音だった。

 僕らの頭上ではレツィアの銃弾がこちらの倍の数飛び交っていて、時折百ミリ戦車砲が自分が火砲であることを急に思い出したかのように凄まじい轟音を響かせて、訓練施設や塹壕のあちこちを、そして土嚢と針葉樹と鉄筋コンクリートで守られた機関銃分隊の火点を破壊しようとしてくる。なにが飛び交っているのかなんて僕には分からない。座学でどれだけ弾の種類を覚えても、飛んでくる弾の種類なんて分かるわけがない。その効果が発揮されるということは、僕の身が危険であるということでもあるのだから。


「小銃分隊! 短連射! 撃てェトゥータ!!」


 顔面が固まったまま小銃分隊の分隊長が号令を出し、僕を合わせて五名の分隊が一斉に塹壕の淵にガリルをあてがい、もぞもぞと動く白い塊めがけて何度も短連射を叩きこむ。撃っても撃っても殺しているという実感はない。むしろ、撃ったら死んでいて欲しい。僕らは撃っているのに、わずか数十メートル先のレツィア人は最初から地面に這いつくばっているものだから、死んだのか生きているのかの確認は困難だった。死んだのなら死んだのだと言って欲しいくらいだった。

 そうして敵歩兵に射撃している間にも、戦車と敵歩兵はゆっくりと近づいてくる。二つのマガジンを空にした僕らが三本目のマガジンを装填し、コッキングレバーを引いて次の獲物に銃口を向けようとしたときに、変化があった。塹壕から歩兵に撃たれているのだと敵が気づいたのか、あちこちに煙幕が立ち込め始めていた。真っ白な煙が雪の上を、土の上を這いまわってそれがどんどんと広がっていく。そして銃声を掻き消すかのようなディーゼルエンジンの轟きと、この世で最も聞きたくないロシア語が僕の鼓膜を震わせた。



―――Ураааааааа!!!!



 一瞬、ぴたりと銃声が止んだ。誰もがそのロシア語が幻聴だと信じたい一心で引き金を引いていた指の力を緩めたかのようだった。それでも、理不尽は僕らに現実を思い知らせて来る。



―――Ураааааааа!!!!



 誰もが顔を見合わせて絶望の表情を見せつけ合う。重々しい重機関銃の発砲音が煙幕の向こう側から聞こえてくると同時に、カカカンッ、と予備役兵の顔面ごと塹壕の淵が抉り取られる。悲鳴のような分隊長の声がした。


手榴弾クラナーッティだ! 手榴弾を全部投げろ!! 全部だ!!」


 言われた通りに、僕は手榴弾を手に取ってレバーごと握り込んだままピンを引き抜き、それを渾身の力を込めて前へ投げる。ドンドンドンッと手榴弾が起爆する音と悲鳴が聞こえたが、僕は構わずに二発目の手榴弾を投げ込んだ。基本動作に忠実にオーバースローで投げ込み、投げた勢いそのままに塹壕に底に手をふれて姿勢を低くする。手榴弾が炸裂した震動が手に伝わるはずだったが、別の震動が僕の指先を震わせる。今まで感じたことのない震動は、T-55のディーゼルエンジンのものとよく似ていた。

 冷や汗が噴き出すよりも先に、僕の頭上にT-55の腹が現れる方が早かった。両側の履帯が土と雪をまき散らしながら塹壕に突撃してきたT-55は、しかし塹壕を踏み越えることはせずに僕の頭上で停止した。そして始まったのは虐殺だった。僕の頭上にいるT-55は砲塔を前に向けたまま百ミリ戦車砲を機関銃陣地に至近距離で叩き込み、砲塔上の重機関銃は左右の塹壕にへばりついている兵士たちを穴だらけにして掃討した。重機関銃の薬莢がぼろぼろと僕の両側に落下していき、直前に頭をなくした予備役兵の首から噴き出した血だまりにそれが落ちると、ジュッと小さな音が鳴った。

 もはや役に立たないガリルをぶん投げて、僕は両耳を覆って目を閉じた。現実はこんなものじゃない。こんなものであっていいはずがない。これは現実なんかじゃない。僕はこんな現実なんか嫌だ。なにもかもが僕の前から消えていく。僕の周囲のすべてが火薬と鉄で蹂躙されて記憶だけが僕の頭に取り残される。僕の頭の中はそうして、幸せな記憶だったはずなのに、になってしまう。ずっとずっと平和と幸せが、文句と不満を言い合えるあの生活が僕らのすべてだった。この現実は僕のすべてを否定する。すべてが火薬と鉄の暴風によって、破壊されるのだと理不尽を叩きつけてくる。救いのない、慈悲もなにも存在しない。

 ロシア語が聞こえた。銃声が聞こえた。誰かが僕のすぐそばに立っていた。

 そして僕は胸倉をつかまれ、ガスマスク姿の男に殴られ、意識を失った。



――――――



 二号車が履帯破損で身動きが取れなくなり、敵の塹壕陣地が機関銃と対戦車火器で防護されたものだと判断したマクドゥーガルは煙幕を焚かせ、それが十分に展張したのを見るや突撃を命令した。T-55Lのエンジンが唸りを上げて煙幕の中に飛び込む中、彼は装填手を怒鳴りつけて重機関銃につかせ、操縦手には塹壕の真ん中で停車するように命令する。なんてことはない、第一次世界大戦で戦車がはじめて戦場に出てきた時のことを、このT-55Lでまたやろうというだけのことだった。

 それは結果として上手くいった。マクドゥーガルの戦車には左側にある車長用だけでなく、右側の砲手用のハッチにもDShK重機関銃を取り付けていたため、左右への射撃は容易に行えた。その分だけマクドゥーガルは身を乗り出さなければならなかったし、装填手などは完全に車外に出ることになるが、懸念となっていた機関銃の火点は砲手が一撃で沈黙させてくれたお陰でどちらも戦死者になることを免れた。戦車に続いて塹壕に歩兵が雪崩れ込むと、抵抗はもはや無意味となった。AKMとPPSの銃声が塹壕の残りかすを清掃していき、戦意喪失した敵兵たちが銃を捨てて両手をあげる。降伏の意志を見せた者を射殺するような者がいないのをDshKのトリガーに指をかけながらマクドゥーガルが見ていたが、そのような者は奇跡的にいなかった。

 マクドゥーガルは戦車を前進させ、塹壕を越えさせる。そして鉄筋コンクリート造の要塞の前にT-55Lを停車させ、戦友のコサックの姿を塹壕に探した。コサックのセミョーノフはしっかりと立っていた。左手にサーベルを抜き身で持ちながら、右肩に一人の敵兵を担いでいた。ガスマスクを脱ぎ捨て、憤った表情で彼はマクドゥーガルの前にその敵兵を下ろし、憤怒で身体を震わせながら叫んだ。


「こいつは子供だ!! グレゴリーなんかよりも若い子供だ!! 子供が混じってるんですよ大尉、なんで敵にもこんな子供がいるんです!!」

 

 知った事ではない、とは言えなかった。地面に横たわった敵兵はたしかに死んだグレゴリーよりも若く見えた。恐怖と絶望が目元に浮かび、頬にはセミョーノフに殴られた跡がついていた。

 部隊の誰もがマクドゥーガルを見つめているような気がした。ここでなにかを言わなければ、なにもかもが崩れ去っていくような気さえした。しかし、マクドゥーガルはセミョーノフに言葉をかけてやることはできなかった。

 タイミング良く、要塞の中から敵兵たちがぞろぞろと出てきた。要塞の司令部要員らしい敵兵の中には、眼鏡をかけた少女までいた。マクドゥーガルはDshkの反動と閃光を思い浮かべながら、兵を率いるだけの気力が今の自分にはないことに気が付いた。なぜ、こんなところにいるのだと、彼らに問いかけたかった。こんなところにお前たちがいるから、おれたちはお前たちを殺してしまうのだと。

 開け放たれた要塞の扉から、小さな乾いた破裂音が響いてきた。司令部要員らしき敵兵の何人かが「大佐エヴェルスティ……」と呟いたのが聞こえてきた。一介の大尉が敵軍の大佐を自決に追い込んだのだと思っても、マクドゥーガルの気分は決して晴れなかった。降伏した兵士たちを一か所に集めるように命令しながら、マクドゥーガルは無線機が鳴っているのに気が付き、その大きな身体をなんとか少しばかり砲塔内にねじ込んで、無線を聞いた。



『発、レツィア陸軍野戦総司令部。宛、第四及び第七独立自動車化狙撃旅団、第三独立戦車旅団。夜は落ちず、白夜となれり。繰り返す、夜は落ちず、白夜となれり』



 静かに息を吸い込み、吐き出す。

 ロヴァニエミ攻略が失敗した時の符号が、機械的に延々と流れ続けている。スチェッキンのフルオートを無線機に叩きこみたい気持ちを抑えて、マクドゥーガルはハッチから這い出して外へ出た。

 今なら自決した敵軍の大佐が、羨ましいとさえ思えた。

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