第35話 寮のお風呂場で

 時刻は21時30分を過ぎた頃。

 オレは寮の大浴場で、目を瞑り、足を延ばし、湯船に寝っ転がるようにして頭まで湯に浸かっている。

 寮生の入浴時間は部活終わりから21時まで、その後30分は風吹さんが使う時間で、残りの30分がオレの入浴時間だ。


「はぁ……これまでずっとやって来たこととはいえ、久々だとさすがに疲れるな」


 特に数十人分の料理の準備がやはり半端ない。

 春休み中は帰省していた子もいたから、多少楽だが、全員集合となれば負担が増える。

 それに数日後には初等部から中等部に上がり、陸上部入部希望の寮生活する子も増えるので、負担は更に増すばかりだ。と言っても昨年度卒業した生徒分が戻るだけと言えば、それだけだが。


「そうですねぇ~。お疲れみたいなので、背中でも流しますかぁ?」


 幻聴だろうか?

 聞こえてはいけないはずの女子生徒――夜乃の声が聞こえる気がした。

 ははっ、いやいやそれはさすがにない。

 もう生徒の入浴時間は終わって、今はオレが入る時間であることはこの寮にいる全員が知っているはずだ。

 さすがに幻聴が聞こえるほど疲れているつもりはなかったが……まぁ、最近は姪っ子たちのこともあって、自分が思っている以上に疲れている可能性がないとは言い切れないが。


「あのぉー、無視しないでもらえます? 聞こえてますよね、コーチ?」


 幻聴ってこんなに何度もハッキリと聞こえるものだったか?

 しかも、しかもだ。

 大浴場に反響した感じも妙にリアルで、目を開ければそこに居そうな気配までしている。


「あっ、それとも若い女の子たちのだし汁を飲むところとか?」


「誰がそんな変態行為するかっ」


 いくら幻聴だからって聞き捨てならない!

 そんなことして――女子校の寮監、寮生入浴後の湯船を堪能――なんてニュースになったらどうするつもりだ!

 やらないからなるはずがないけどなっ!

 反射的に目を開けて、オレは幻聴相手に盛大にツッコミを入れた――。

 目を開けると、そこにはオレの顔を覗き込んでいた。


「…………何やってんだお前……」


 さすがに幻聴にするには無理があったか。

 薄々というか、わかりきっていたことだが、本当に居やがった。


「何って言った通りですよ。背中流そうかなって思いまして。今日は私のせいで迷惑をかけたみたいなので」


 何でわからないんですか? みたいに首を傾げているが、わかるはずがない。

 オレは寮の・大浴場で・裸で・湯船に・浸かっているところだ!

 お前がここにいる現状こそ理解できねぇよっ。


「バカっかおまっ――」

「しー、ですよコーチ。大浴場は声が響きますから誰かに聞こえちゃうかもしれません。こんなところ見られて、どう言い訳するつもりですか?」


 怒鳴ろうとすると、夜乃はオレの口に人差し指を当てて、自分の口の前にも逆の手を人差し指を立てた。

 誰かに見られれば、そりゃオレの人生が終わる。

 寮監、未成年の生徒と混浴――なんてニュースになったら、社会的死は免れない。

 冷静になって夜乃のことを見てみると、胸元から膝まであるバスタオルを巻いている。

 肩は露出していて、妙に生々しい。それにしゃがんでいるからバスタオルの奥が――陰になってて見えない。

 ……じゃなくて!。


「何やってんだ、お前は」


 夜乃の注意を受け、オレは声を抑えて改めて問いかけた。

 普通に話す分には問題ないだろうが、こんな状況だ。必要以上に声を潜めてしまう。


「だから背中を流しにです。今日のお詫びを兼ねて」

「訳がわからんっ。どうしてそうなった」


 今までだって迷惑は色々かけられてきたことはあるが、こんなことをするような奴じゃなかった。

 なのに、なんで急にこんな暴挙にっ。


「いや~、なかなか監視の目が厳しくて、寮の中でこっそり二人っきりになろうとしたらお風呂くらいしかないかなぁ~って思いまして」

「監視? なんのことだ?」


 今日のことで何か監視を付けられるような事態になったのか?

 それともオレ――だとしたら、この状況はやばいだろっ。


「いえいえ、こっちの話なのでコーチは気になさらず」

「気になるわ」


 無理だろ、気にするななんて言われても。


「そうですかぁ? まぁ、教えないんですけど」

「教えないのかよ。それでオレが刑務所に入ったらどう責任取るつもりだ?」

「出てくるまで待ってますよ。ずっと」


 いつものおふざけの調子じゃなく、何だかしおらしい雰囲気でそんなことを言ってきた。

 冗談のつもりだったんだが、そんな風に返されると言葉が詰まる。


「…………で、どういうことだ?」

「だから、背中を流しに」

「もう洗ったぞ」


 オレは湯船に入る前に身体も頭も顔も洗うタイプだ。

 今更来られたって遅い。

 最初から居たからって、お願いするわけじゃないが。


「あ、そうなんですか? なら、ご一緒しますね」

「ご一緒っておま――」

「失礼しまーす」


 止める暇もなく、夜乃はバスタオルを巻いたまま、湯船に足を入れ、そのまま湯に浸かってしまった。

 その振動で湯船が波立ち、湯が顔にかかってくるので、オレは身体を起こす。


「…………」


 母親や血の繋がりのある姪っ子たちを除けば、異性と混浴する初体験だ。


「……あのぉ、さすがにガン見されるのは恥ずかしいんですけど」

「あ、悪い……」


 咄嗟に顔を背けて謝るが、果たして謝るべきなのはオレなのか?

 恥ずかしいなら、入ってこなきゃいいだけの話だろ。

 オレはそう文句を言いなおそうと思い、夜乃の方に向き直ると――


「っっっ」


――滅茶苦茶真っ赤顔をして、自分の顔を押さえている最中だった。


「…………」


 そんな顔になるほど恥ずかしいなら、出て行けよ。

 文句を言うタイミングを逃し、オレは再度顔を逸らして、言葉を探す。


「…………」


 だが、こんな状況じゃ文句というか、どうしてこんなことをしているのかくらいしか思いつかない。

 たぶん、それを聞いたとしても、満足な返事は期待できないと思う。

 だから、今は黙って湯に浸かるしかない。


「…………」


 それにしてもあれだな。

 バスタオルを巻いているとはいえ、年頃の女子とこうして並んで風呂に入っていると、自然と下半身が反応してくるな。

 いくらオレが義姉さん一筋十数年だとしても、男の本能が勝手に呼び起こされる感じがする。

 オレは夜乃にバレないようにポジションを隠すように身体の向きを変えた。


「ふぅー……あの、コーチ」


 横で呼吸を整える気配がして、改まったように夜乃が話しかけてきた。


「なんだ? 最近観た映画の中で一番面白かったのはトップでガンな戦闘機ものだ。アレはMX4Dで観た方が迫力があっていいと思うぞ。オレは酔いそうだから普通ので観たが」

「いえ、映画の話ではなく」

「この辺りのソールフードか? なかなかねぇよな」

「いえ、食べ物の話でもなく」

「なら、あれか――」

「あの、私の話を聞く気ありますか?」


 できれば聞きたくない――とは言えそうにないな。

 今、お前のことを意識すると、アレがああなってアレになるから、ああしないためにアレなんだよ。わかってくれよ、男の事情をっ!


「はぁ……なんだ? 相談があれば聞いてやる」

「なんですか、その溜め息。すごく聞きたくなさそうですね」

「おっ、よくわかったな」


 オレが自分で言ったわけじゃないからいいよな?

 ばしゃ――と横から湯が顔目掛けて襲ってきた。


「ぐっ……何しやがる!」


 唐突の攻撃に、オレは反射的に夜乃の方を向いた。

 やっぱり顔が赤くて、怒ったように頬を膨らませていた。


「乙女が告白しようとしてるのに、なんですか、その態度」

「……告白って……万引きでもしたのか?」


 オレは神父じゃないが、懺悔ってことか?


「違いますよ。そこまで鈍いってわざとですよね?」

「…………」


 答えにくいことを言ってきやがる。


「告白って……愛の告白でもするつもりか? オレにそのサポートを――」

「喧嘩売ってるんですか?」

「なんでそうなるっ」

「三年前、私が告白したこと忘れたわけじゃないですよね?」

「…………」


 逃げ場を塞いでいく気か、こいつは。

 もちろん覚えてる。

 いくら義姉さんのことしか眼中になかったとしても、血の繋がりのない一回り以上、年下の生徒からの告白だ。印象深い。

 それが初めてスカウトした夜乃からなら、尚更だ。

 つまり、この大浴場に乱入ってはそういうことなのか?


「コーチはあの時言いましたよね? 三年経って気持ちが変わらなかったら、また言ってくれって」

「……言った、かもな」


 中学生の相手なんてできるはずがないから、そんなその場しのぎを言った記憶は確かにある。

 そもそも義姉さんがいる限り、返事なんてわかりきっていたこと。

 これから三年間、指導しようって選手と気まずくなるわけにはいかないから、返事を先延ばしにしたんだ。


「そうか……あれからもう三年経つか」

「そうですよ。正確に言えばまだ少し先ですけど」

「まぁ、それは誤差だろ」

「ですね」


 確かあれは初めて陸上部で指導した日だから、あと一週間くらいか。


「気持ち……変わってないって言ったら、どうしますか?」

「…………」

「また告白しても……いいですかぁ?」


 今にも消え入りそうだが、とても熱くて、甘い声音。

 顔を合わせているから、夜乃の表情の変化がよくわかった。

 普段の軽い調子が全て消え、不安と期待が入り混じった瞳が小刻みに震えている。


「……それはオレが決めることじゃない」


 答えは変わらない。

 もう二度と手の届くことのない義姉さんだが、あの人への想いは今も変わることがない。

 死んでしまったからって、簡単には切り替えられない。

 それに旦那持ちの三人の子供の親だった。

 どんな状況になったって、大した違いは最初からない。


「なら、告白してもいいですか?」

「今、ここでか?」

「はい。今ここで」

「寮の大浴場だぞ」

「そうですね。ロマンチックっとは言えませんが、これがこれでアリかなって」

「お互いに裸だが」

「私はバスタオル姿ですよ」


 状況を整理するほどのことじゃないが、ここは風呂場だ。

 そしてオレは裸で夜乃はバスタオル。

 こんな状況での告白がアリ? やっぱり乙女心はわからんっ。


「オッケーならこのままってのもアリかもしれませんよ」


 誘惑するように可愛く小首傾げやがって……!


「オレに未成年に手を出させて捕まれと?」

「バレなきゃ問題になりませんし、私は訴えませんよぉ」

「……そういう問題じゃないだろ」

「じゃ、何が問題なんですか?」

「そんなの決まってるだろ」


 オレの気持ちの問題だ。

 今、義姉さんを忘れて、誰かと付き合うなんて考えられない。


「また三年経って気持ちが変わってなかったら、改めて聞かせてくれないか?」


 夜乃とは今後も三年間指導することが決まった。

 見込みのない告白をされて、断って気まずくなるのはオレとしては避けたいところだ。

 また同じ手段で申し訳ないが、オレにも気持ちがあって立場がある。

 そう易々と生徒の告白なんて受けてられない。


「そうですか……先生の気持ちはわかりました」

「そうか、わかってくれたか」


 はぁーっとオレは長い息を吐いた。


「でも――」

「うん?」


 オレが視線を少し下げた間に、夜乃は身を乗り出してきて、オレとの距離を縮めてきていた。

 そして顔を上げたところに――


「んっ……!」


――夜乃の顔が重なった。

 目の前に夜乃の顔があって、唇に柔らかい感触が広かる。

 そのままオレに乗りかかるようにしてきたので、タオル越しでも胸の感触が伝わってきて、下半身がもう隠せない状態になった。

 咄嗟のことに金縛りにあったように身体が動かなくなったが、少しして身体の自由が戻ったので、夜乃の肩に手を置いて、強引に引き離す。


「……お前、なにして――」

「もう待つつもりはないんですよ? 私はコーチのことが好きです。本気で。結婚を前提に付き合ってください」

「夜乃……」


 オレは今告白をされているのか? それともプロポーズ?

 それに……ファーストキス、奪われたっ!

 夜乃の大胆な行動に、頭がグラグラするほどに混乱してきた。


「待て、待ってくれ……ちょっと落ち着かせて――」

「ダメです。返事をしてくれるまで、続けます」


 そう言って、夜乃は色っぽく濡れた唇をまたオレへと近づけてくる。

 告白の返事もしてないのに、なんでキスを迫ってくるんだ!

 普通、オッケーって返事してからだろ!

 順番が、順番が滅茶苦茶だっ!


「んぐっ……」


 ファーストキスに続けてセカンドキスまで……もう何が何だかわからない。

 夜乃の考えていることが、本気でわからない。

 オレはもう一度夜乃を引き剥がす。


「答え、決まりましたか?」


 決まったも何も最初から変わってないんだって。


「オレはお前とは――」

「時間切れです」


 言いかけてる最中だってのに、こいつはまた唇を塞ぎにきた。


「ちゅ……」


 まるで麻薬のように頭がとろけてしまう。使ったことはないが。

 判断能力と抵抗力が徐々に奪われていくようだ。

 このまま夜乃の暴挙を許していいのか?

 いいわけがない!


「だから、オレはお前とは付き合えないって!」


 オレはもう一度夜乃を引き剥がし――いや、今度は突き飛ばすと同時にそう答えた。

 思った以上に力を入れ過ぎたのか、夜乃は背中から湯にひっくり返って、ばしゃんと水しぶきを上げた。

 その際の衝撃でバスタオルが解けて、夜乃の身体から離れていく。


「あ……悪い。加減が……」


 思っていなかった光景に思わず謝ってしまう。

 いや、悪いのはオレじゃないが。


「………………」

「……夜乃? 頭でもぶつけたか?」


 死人のようにピクリとも動かないので、不安になって顔を覗き込むと――


「うぐっ……」


――夜乃は泣いていた。

 湯で顔が濡れているのではなく、間違いなく瞳から涙を流し、嗚咽を押し堪えている。


「…………」

「……一人に、してくれますか?」

「……あぁ」


 この事態を引き起こしたのは夜乃であって、オレじゃない。オレじゃないが、後味が悪い。

 キスだって三度も無理矢理されて、被害者は明らかにオレなのに、まるでオレが悪役の気分だ。

 仕方がないだろ。オレにだって他に好きな人がいるんだから。

 誰もが、その苦しい程の想いを成就させられるわけじゃない。

 そのことをオレは十数年、身をもって体験してきた。

 オレは湯船に浮かぶバスタオルを夜乃の身体にかけて、静かに大浴場から出ていった。

 そして背後から聞こえてくる泣き声を、できるだけ聞かないように、耳を塞いだ。


 

※あとがき※

 どうしてこうなって?って自分でも思いながらも、久々のニヤニヤしながら書けたので、満足しています。読んでくれている方に受け入れてもらえればいいのですが……


 最近は全部のお話を面白くしないとって憑りつかれていたのですが、よくよく考えれば、物語を進める話、盛り上げる話があるわけで、全部を面白くするのは無理じゃない?と思いなおすことになりました。

 ってことなので、今後は物語を進める話、盛り上げる話でメリハリと付けて全体的に面白くなるように努力していきます。

 その間、アクセス数が伸びなかったり、フォローが減ったり、ハートが付かなかったり、葛藤が激しいですが、自分にはそこまでの技量はないと割り切るしかないですね。

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