バックファイヤー

●バックファイヤー

●鼠の一声

「ダメです!」

明後日の方向から警告が入った。前従業員の栗鼠だ。寿退社したはずなのになぜここにいるのか。

山吹翠は戸惑った。その一瞬の隙をついて身体を抱えられる。ライムグリーンのドレスがめくれ奥の白い生地が露呈するが、気にする暇はない。大柄な男性が軽い身のこなしで翠を抱え安全な場所に着地する。その傍らに栗鼠がいる。

「リーダーなら前言貫徹してください!」と促し、隣の大男が叫ぶ。「バックファイヤー効果だ。あの時の説教をお忘れか?」

「聖十字大僧正! そうか、頭ごなしに𠮟っちゃいけないんだ」

そうなのだ。得体の知れない力に操られた者を力づくで制御しようと試みればかえって破滅を招く。

翠は呼吸を整えて荒ぶるリーナを静かに諭し始めた。

「リーナ!聞いて。あたしよ、わかるでしょ。翠よ」翠はそっと抱き寄せて頭をなで始めた。

彼女は少し大人しくなったようだったが相変わらず凶暴化していた。そして何かを言いかけていたが「グゥウウ……」とだけ言うと口を閉じ、やがて目を閉じた。

そして元の人の姿に戻ったが今度は眠ってしまったようだ。

栗鼠と聖十字大僧正はそれを確認して、ほっとして笑みを浮かべるのであった。

「夫婦お揃いでなぜこんな所へ?」エミリアがようやく口を開いた。

「不法侵入者を追って来たら、この付近で見失ってしまったのだよ」、と大僧正。

「また、兄の家に給付金が投げ込まれたの!」、と栗鼠がいう。どうも月山界隈の民家にまた金塊が投げ込まれる事件が多発している。それをこの二人は追いかけて来たのだ。「それより、この方は?」栗鼠が尋ねる。「あ、こちらは……」と説明しようとしたが、

「翠さんの知り合いの山吹さんですよ」と横合いから遮るようにエミリアが割り込んだ。

翠はそのやりとりを聞いて違和感を感じたが、「そいつはどんな格好をしていましたか?」と夫婦に訊いてみた。この二人はこのあたりの住民から、最近になって、謎の僧侶と魔女の姿をよく見かけるという噂を耳にしているのである。栗鼠と大僧正は、自分たちも同じようなことを見かけたことを伝えた。それから、二人同時に、こう言いだした。

―――まるで別人だ、と。

それを聞いた途端に、

――やはり、そうだったのか。

と確信する。だが今は、

――そんなことは後回しよ。「とにかく、その男の行方を捜しましょう。何か手がかりになるかもしれませんわ」

栗鼠夫婦の家を出た一行は、近くの公園に移動した。そこでエミリアが提案したのは、魔法陣による追跡だった。

「実は先日、あの男が使っていたと思われる魔法陣を見つけましたの。これで追えますわ」

それは、二人が持っているペンダントと同じものだった。

三人は、公園の一角にあるベンチに腰掛けた。

翠は二人の前に立って説明を始める。「まず、これから説明するやり方ですけど……」

それから彼女は手短かに手順を説明した。・魔法陣の上に立ち、魔力を流すこと。

・すると、周囲の風景がぐにゃりと歪み始め、気がつくと別の場所に移動していること。

・その場所には、何らかの痕跡が残っていること。

・ただし、場所によって痕跡の種類が違うため、どこで転移が起こったかを特定しなければならない。

「あの、それでしたら」とエミリアが口を挟んだ。「翠さんが使った方が早いのでは?」

「そうなんだけど」と翠は困った顔をした。「これ、一人では使えないのよね」

「え?」エミリアは意外そうに目を見張る。「どうしてですか? だって、今まで一人きりで何度も試したって言ってたじゃないですか」

「あ、うん。でも、あの時は、他に人がいなかったの。だから、どうしても必要だったの」

「じゃあ、今回は……」と栗鼠は呟く。「二人でやりましょう。そうすれば早く済みますね」

こうしてエミリアと栗鼠と翠は、公園の中央に集まって、例の魔法陣の上に立ったのである。

***

(おかしい)

(何か、嫌な予感がする)山吹翠は、魔法陣の中心に立った。彼女の周囲にはエミリアと、栗鼠の大僧正が付き添っていた。

しかし奇妙なことがあった。それは、翠自身が感じていたのだが……。

(エミリアが呪文を詠唱しない)

そう、いつものように彼女は何もしない。呪文を詠唱するのは、あくまでも栗鼠の役目なのだ。

「どうしたの? エミリア」と翠は囁いた。

「すみません」と栗鼠は謝る。「でも、呪文を忘れてしまいました」

「何ですって!」翠は仰天した。

呪文は厳しい精神修養をして脳裏に刻み込むものだ。さもなくば咄嗟の戦闘で役に立たない。ましてや転送魔法で呪文を忘れてしまったら帰れなくなる。遭難防止の観点から魔法陣の呪文は出来るだけ平易で簡素で覚えやすく改良されている。忘れるなどあり得ない。

しかも栗鼠はレベルの高い術者だ。これはいったいどういうことだろう? 翠は戸惑った。

すると、エミリアが翠の袖を引っ張った。「翠さん、あれを!」と指差す。

彼女の視線の先には……巨大なネズミがいた。

「キャーッ!」翠は悲鳴を上げた。「ちょっと、やだぁ」

「翠さん!しっかりしてください!」とエミリアが叫ぶ。「こいつは幻覚です。落ち着いてください」

「えっ?」

翠は周りを見た。

いつのまにか辺りの風景は一変している。巨大な森に変わっていた。そこには辺り一面、猫目石が落ちていた。

「こ、これは!?」

「わかりませんが、ここは幻覚の世界です」エミリアが答える。「気をつけて」と。「幻覚の中には魔物が棲んでいることもありますから」「大丈夫よ」と翠が微笑んだとき、「キャハ!」という甲高い声が聞こえた。

「えっ?」エミリアは振り返る。

「なに?」翠も振り向いたが、その視界の端をかすめたものがあった。

エミリアと大僧正の背後には誰もいないはずだった。ところがそこに人影が見えるではないか。その人物は二人に襲いかかると、その腕を掴んだ。

(いけない!)翠はその人物を知っていた。それは――

(山伏!?)と彼女が思った時、大僧正が声を張り上げた。「むん!」彼は錫杖を振ったのである。大僧正の手を離れたそれは回転して勢いを増して襲ってきた人面像を叩き割った。翠はそれを見て息を呑んだ。なんと驚くべきことにそれはエミリアにそっくりな顔つきをしている。しかも、彼女の背後にもう一人現れた。それもまたエミリアの姿をしていた。

(どういうことなの?)翠が困惑している間にも、二人は次々に増えていき十人以上になった。その全てが山伏姿だった。彼らはエミリアと大僧正に次々と掴みかかってきたが、二人に敵う者はいないようだ。あっという間に撃退された。そして最後に残ったひとりが、こちらを向いて叫んだ。「グハッ」と吐血した。

そして彼女は地面に崩れ落ちた。その姿に山吹は見覚えがあった。彼女は大僧正の妹である山吹翠だったのだ。彼女は口から真っ赤な鮮血を流している。大僧正は「翠!」と叫んだが遅かった。既に事切れているようだ。大僧正と栗鼠夫婦は死体の前で祈り始めた。

――「おぉ、翠よ」

――「こんなことになるなんて、まさか思わなかったわ」

翠は二人に声をかけたが、反応はなかった。「ねぇ、あたしのこと見える?」

二人は翠の問いを無視して、翠の死装束を脱がせたり、化粧箱から櫛を取り出したりした挙句、白木で出来た棺桶に収めてしまった。さらに墓石の前に運んできて手を合わせる。そしてようやく立ち上がった。「この者は我々の責任です。埋葬させていただきます」

「あの、待って!」翠は呼び止めたが二人の耳には届かないようだった。「お願い、せめて話をさせてください」

だが二人は無視したまま墓を運び始めた。「ごめんなさい」

「あの人たちを恨まないで」翠は必死で訴えた。

――「いいんです」大僧正と栗鼠が揃って答えた。「むしろ、ほっとしているぐらいですから」

「ほっと?」と翠は聞き返した。「あなたたちはあの人を殺せなかったんでしょう」と翠は聞いた。栗鼠が黙って首を縦に振る。「なぜですか?」大僧正は「私はもう年です」と言ったが栗鼠は何も言わなかった。そして翠は気づいた。

「あの人は死んでないわ」翠が叫ぶ。

大僧正がそれを聞いて目を丸くしている。「翠よ、何を言い出すのだ」

「あの人が、そんな簡単に殺されるはずがないでしょう」

翠の言葉に大僧正は、ぽかんと口を開けたまま何も言えずにいた。栗鼠だけが口を開いた。

「あの方が死んだらどうなるのかしら?」彼女は不安げに言った。「私たちはどうやって帰ればいいのかしら?」「それは……」と翠が言いかけたとき、突然地鳴りが始まった。ゴツンゴツンという音が響き渡る。大地が裂けるのがわかった。やがて足元が大きく揺らぎ始める。二人は悲鳴を上げて抱き合った。

「翠!」

「お姉さま?」と二人は同時に言った。「無事なのね?」「翠こそ、生きていたのですね」

「ええ、何とか、ね」と翠が答えると「きゃーっ」と二人は悲痛な叫びをあげた。「助けて」「大丈夫よ」と翠は言いながら、二人の手を取った。「一緒に帰りましょう」

「ええ」と栗鼠は嬉しげに応じた。「あの方のおっしゃる通りね」

「あの方は誰なの? お姉様」と山吹が尋ねた。「それは――」と翠が言う前に「私よ」と声が響いた。

翠は驚きのあまり目を見開いた。その瞬間、辺りの風景が歪む。

気がつくと元の公園に戻っていた。魔法陣の上に立つ翠たちの周囲にも変化がある。そこは先ほどまでいた公園ではなかった。

「ここはどこ?」と翠は呟いた。

「おそらく、あそこが目的地なのでしょう」とエミリアが答えた。

彼女の視線の先には……あの巨大なネズミが立っていた。

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