1−8
「萌の湯」でガマガエルが大量に出現、あわや大パニック――という珍事から約二時間。ところは或摩聖泉学院構内の一室。
卯場さくらは、ひたすら鬱を持て余していた。
その原因となるべき人物は、しかしさくらの目の前でひたすら満面の笑みを浮かべている。
「ね? ね? だから、この
嗚呼、とさくらはため息をついた。だから、さっさと始末しろと言ったのに。やはりこうなってしまった。あるいはあの時、危険を理由に有無を言わさず浴場外へ連れ出すべきだったろうか?
「ラボからの連絡はまだ? ねえ、もうこっちで押し掛けるから、DNAアナライザーだけ使わせてって言ってみてよ。ああ、でも肝細胞と腎臓の標本加工がまだだっけ。みんな遅いなあ。ブログにはアップしたんでしょ? どうして一人も来てくれないの?」
白衣を軽く引っかけた目の前の少女は、大浴場で〝保護した〟巨大ガエルに、もう三時間もかじりついたままだ。なまじ半分ほど撃ち殺したのがまずかった。筋肉片の最後の一つまで回収させられて(ローズ&マリーはさっさと行方をくらまし、作業のほとんどはさくらのペナルティとなった)、気分が悪くなるような後始末も大部分ひっかぶる羽目になった。さらにその後、主君の〝根城〟までサンプルを運ばされたあげく、延々と続く解剖学的なお楽しみの数々につき合わされているのだ。
(何が原因でこの方はこんな方向に道を踏み外されたのか――)
ふと手を止めて、さくらは窓外の夕焼けに遠い目を投げかけた。
すっかりハイになっている少女の名は、
世俗的にはあらゆる放蕩が許されそうな優理枝なのに、彼女は権力ごっこや女の子らしい散財へ一切興味を示さなかった。学院や会社のイベントには中等部時代から色々引っぱり出され、今も総務として様々な責任を負ってはいるものの、普段の優理枝は「温泉ラッコ」とあだ名されるほど、ぼーっと波間に漂うだけのようなおっとりした娘だった。
そんな彼女が唯一、目の色を輝かせる対象が、生物である。と言っても、色んなペットを飼って満足するというようなわかりやすいものではない。
あからさまに言えば、香好優理枝は生物「学」オタクだった。例えば、キメラマウスに驚喜したり、プラナリアでヤマタノオロチを作って遊んだり、ハエトリソウの消化力を倍増させるために遺伝子操作を試したり、というような類の話に異様な関心を示してしまう人種なのである。
そんな娘に、温水の中でぴょこぴょこ跳ね回る人為的変異体(らしい)大ガエルなど見せつけたらどうなるか?
こうなるのだ。
総合科学室横の科学部室――通称「総務のおもちゃ箱」――で、優理枝はもうかなりの時間、職務も忘れてはしゃぎ回っている。件の騒ぎの直後には、地震まであったのだが、優理枝はほとんど気づかないままだったほどだ。そう言えば、最近はとりわけ水生脊椎動物にご執心だった。まさに猫にマタタビ。今日はこのまま徹夜でじゃれついているかも知れない。
(くっ、いったいどこのどいつがこんなものを!)
執行委員会の業務妨害を狙ったのなら、これほど効果的な撒き餌はない。明日あさっての日程の「或摩オータム・温泉フェスティバル」は、或摩温泉全体の重要イベントだ。そして、或摩を牛耳っているのは今や香好グループであり、香好傘下の学校ゆえにイベントの多くは聖泉の学生主導で企画されており、その学生の指揮は執行委員会に委ねられている。優理枝達の一挙一投足は、この秋に或摩が稼ぐ百億円規模の札束そのものである。
お飾り的な部分が多分にあるとは言え、曲がりなりにも組織の要である総務がこのタイミングで骨抜きにされるとは……まさかそれほどの計算が出来る勢力が? しかし、或摩統合情報局の報告では、別段異状は……いや、二時間前に駅前で妙な連中が集まっていたなどという通報があったが……考え過ぎか?
そもそもこれだけの生き物を、誰がどのようにして持ち込んだのか。端末を通じて配下の者に事情聴取を指示してはおいたが、判で押したように「そんな不審者がいるとはまるで気がつかなかった」という証言ばかりだったのだ。
(かつてなかったほどの強敵かも知れぬ――)
などと、深刻な顔でさくらが考えていると。
「とても普通の交配で作られた品種じゃないわね! やっぱり塩基配列を直接いじってるのかな? でも、この表皮ってカエルの遺伝子だけじゃなさそう。菌類かプランクトンか、何か共生微生物を後天的に植え付けてたりとか……どう思う、さくら?」
どこまでも無邪気に笑いかけてくる優理枝である。さくらの何かがぶちっと音を立てた。
「優理枝様!」
「な、何?」
「明日何があるかお忘れですか!?」
「?」
あどけなさすら感じさせる顔で、んんん?と首を傾げる。どうやらメインメモリごとカエルに乗っ取られているようだ。日常記憶はすっからかんなのだろう。
「或摩オータム」
「あ…………」
小さな豆球がぽっと灯ったかと思うと、ぎょっとしたように大きく身じろぎして、あわ、あわとパニックの症状が現れてくる。顔色はすでに蒼白だ。
「ど、どどど、どうしよう、実行委員会の進捗確認が……ああ、お父様にも連絡しなくちゃいけなかったのに……え、特設ステージの打ち合わせって確か……え? え?」
さくらのブラウスにすがりつくようにして、泣きそうな目で震え出した。
「ねえ、今何時? た、大変、スケジュール、全部すっぽかしちゃった……みんな怒ってる? ああそれよりも、フェスティバル、開催できなくなっちゃう? ほんと、どうしたらいいの? 私、なんでこんな所で……」
耐えられなくなって、さくらは優理枝の背中ごと力強く抱きしめた。だめだ。とても自分には出来ない。この人を意地悪く叱ることなど。
「困った方です。……大丈夫、全部代理の者に行かせました。後で報告だけきちんと確認しておいてください」
「ああ……よかった…………」
肺の奥から大きくため息をつく優理枝。本当に心底安堵しているようだ。
事情を全て掌握しているさくらからすると、滑稽さを感じないでもない。総務自ら必ず出向くべき仕事というのは、そう多くはない。ぶっちゃけた話、優理枝など執行委員会に仕事を丸投げして、式典の挨拶に顔を出すだけでも一向に構わないのだ。
(なのに、周りに責任転嫁さえしないで、こんなに震えて……)
罪悪感まで抱いてしまう。いっそのこと、無責任娘に再教育してやろうかとも思う。けれども、それは出来ない。この人が香好の未来を担う以上、そして、卯場が香好を支える家として存在する以上、この方に帝王教育は必要で、自分はそのために厳しいしつけの真似事もしなければならないのだから――。
とは言うものの。
「もう、そんなに取り乱されるぐらいでしたら、ご趣味はそこそこになさいませ」
ぶっきらぼうに言って、優理枝のほっぺたを優しくなでるだけのさくらである。副総務兼秘書として、優理枝に何時間与えられるか、きちんと計算はしているのだ。
「本当にごめん。またやっちゃった。……だめだね、私。スイッチ入っちゃうと、いつまでも暴走しっぱなしだから……」
本質的にこの人は責任感が強すぎるのだ、と思う。それとも、どこかで極端な趣味を恥じているのだろうか? 確かにこれだと、まるで依存症患者の更正に付き添っているような気分だ。依存対象がギャンブルや男でないだけ、まだましなのだろうけど。
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