1−6


「いつからそこに?」

「五分以上前からです! もう、なんで気がついてくれないんですか!?」

 〝くのいち〟の一人だった。と言っても、特別な忍術修行を積んだわけではなく、まあ〝ヒラ〟と呼ぶのも何なので、役なしの女子に対して、しばしばその通称が用いられている。

 もちろん彼女も諜報戦略評議会のメンバーであり、三人とも見覚えはあるのだが——。

「えーと、君は中等部の、確か……」

「うん、ええと」

 合言葉のやりとりも忘れたままで、その先が続けられない幹部三名。早々にしびれを切らして、娘が叫んだ。

「また忘れてる! 評議会は二年目なんですから、いい加減覚えてください! 私の名前は――」

 少女がこれ以上ないぐらい明瞭に、フルネームを口にした。が、淡い笑みを浮かべて頷いているものの、三人ともあまり真面目に頭に入れている様子はない。

 どうせ、すぐに忘れてしまうからだ。

 別に極端に背が低いわけでもない。体が半透明なわけでもない。その少女に悪い印象があるわけでもない。なのに、どういうわけかそこにいることに気づかず、顔も名前も印象に残らない。そのくのいちはそういう少女だ。

 よく見れば小顔の、そこそこかわいい娘なのに、いったい何が要因なのか、とにかく憶えられない。名前だって聞く分には充分個性的だが、一分もすれば類似の響きのあれこれに紛れてあやふやになり、憶えにくい奴という混乱だけが記憶され、今に至る。

 結局、「あの憶えにくいくのいち」という言い方が、評議会の中ではいちばん通りがよかったりする。それとて、いったんは「それ誰だっけ?」と返されるのが常なのだが。

 人目を忍ぶ諜報員としては、希有なまでに得難い資質のはずなのに、特技も能力値もほとんど印象に残っていないため、「そう言えば、何て言ったっけ、あの子」「ああ、あの子なあ、じゃ、この余ってる仕事」という起用法しかなされないのは、彼女にとって幸福なのか、不幸なのか。

「ごめんごめん、じゃ、えー……」

「   です」

「うん、   さん」

 機械的に名前を返す翔雄。さすがにこの時間差なら名前も出る。別に呼びにくいという印象もない。その響きがなぜ頭に残らないのか。受け答えしながら、翔雄は内心で言い訳する。

 悪気はないんだけど、滝多緒全体が強迫観念に取り憑かれているとしか思えない。……そう、強迫観念だ。それに違いない。悪気はないんだよ。えーと、この子の名前……。

 忘れた。

「作戦の報告に来たんだよな? ……いや待て。君は確か——」

「はい、メールでお知らせしました。『ガマ・ストライク』作戦、目標達成。回収不可。指示を請う、です」

「で、離脱してきたわけか。それならそれで話は終わってるから、律儀に報告になんか来なくても」

「その……一応お耳に入れておこうかと思いまして……実は、私、見たんです」

「何を?」

「ガマガエルの体が、妙に薄ら青く光っているのを」

 思わず翔雄は、他の二人と顔を見合わせた。が、翔雄以上に二人には話が見えていないのが明らかだった。

「いったい何の作戦やねん?」

「カエルって何?」

 諦めて、翔雄はくのいちに念を押す。

「見間違えじゃないんだろうね?」

「間違いないです。何匹も同じような光り方してたし」

「むう、それは」

「異格体反応であるな。ついに始まったか」

 いきなりの背後からの声に、一同は慌てて振り返った。観光客がぼちぼち行き来している道路側でなく、駅へ通じる小径側に、ただの通りすがりと見えた男が佇んでいて、翔雄達へじいっと視線を注いでいる。

 薄手のコートの下は軽装のようで、気楽な温泉客の一人にも映るが、首から上の印象がすごい。頭髪が全く無くて、血色のいい地肌を頭の上半分にテカらせているその姿は、いっそ豪快である。角張った感じではないががっしりした面構えで、百九十近い身長に厚い胸板と相まって、何かしら日本人離れしたたくましさを感じさせる。何よりもその目。左目につけている黒くて丸いのは、紛れもない海賊流の眼帯。服装がもう少しそれっぽかったら、強盗団か傭兵部隊の強面ボスその一、とタグ付けして何の違和感もない。

 その人物のことを、翔雄はよく知っていた。ほとんど初対面ではあるが、名前も素性も一通り知っていた。

「おい、あれ」

「え、まさかカブちゃん?」

 勉と真知も気づいたようだ。顔を寄せ合って、小声で頷きながらも、三人ともそれ以上の言葉が出てこない。語るべきことが何も出てこないからだ。

 男の名は甲山かぶとやま剛磁ごうじ。地質学他三つの分野で博士号を持つ才人だが、世捨て人のような生活を送っていて、世間的にはマッドサイエンティストっぽい人物として通っているらしい。

 で、なんでそんな大物が翔雄たちとつながっているかというと……ただ単純に、手配書が出ているからだ。学園長室の扉の横に。写真入りで。題字はもちろん、「この顔にピンときたら、学園長直通番号まで!」である。写真の中の甲山は眼帯はつけていなかったが、いやでも目に入るポスターなんで、評議会の幹部クラスになった歴代メンバーは全員が、顔の輪郭の端々まで見憶えてしまっていた。

 どうやら、峰間大伍と過去に何かあったらしい。聞けば、幼い頃に翔雄自身も何度か会ったことがあるようなのだが、まるで記憶にない。老人も仔細については緘黙するばかりである。

 という、滝多緒学園とも因縁がありそうな怪人物、甲山博士。このタイミングで現れた理由は、果たして――

「あの、あなたは」

「その青い光とやら。カエルの呼吸に合わせて、わずかに強くなったり弱くなったりを繰り返していたのではあるまいかな? ホタルのごとくに」

 不審そうに尋ねるくのいちの娘に向かって、甲山は迷いのない口調で尋ね返した。戸惑いながらも、娘が小さく頷く。

「は、はい、その通りです」

「では、浴槽の外よりも湯の中にいたカエルの方が、はっきり光っていた……ということは?」

「それは……よく確認できなかったですが、そのようにも見えました」

「うむ、いい報告だ」

「で、あなたは」

 重ねて問おうとするくのいちを制して、翔雄が一歩前に出ようとした。が、それよりも早く、甲山はついっと中空へ隻眼の視線を上げ、不意に声高に叫んだ。

「来るぞ!」

 ドォーンっととてつもなく重たい地響きがして、地面が跳ねた。コンマ五秒ほどの間を開けて、細かくシェイクするような揺れが地面を轟かせる。ごおおおおという山鳴りが、道路脇の岩肌から、いや、温泉街全体から沸き起こる。通行人の悲鳴があちこちからいくつも聞こえてきた。

 地震だ。ほぼ直下型。ただし、規模は小さい。マグニチュード3か4か。

 とっさにそれだけ判断すると、翔雄は四方へ視線を走らせた。岩が崩落したりするような地震ではない。むしろ、不慣れな観光客が予想外の行動をすることの方が怖い。

 しかし、地震だと? 確かにこの近辺で小さな地震はたまにある。が、このタイミングでなぜ? いや、もちろん偶然に決まっている。他に考えようはない。とは言っても、自分たちが或摩入りしたその途端に、こんな直下型なんて――

 地面の揺れは十秒程度で収まった。が、その後も眼下に広がる街から、建物のきしむ音がしばらくは波のように反響し続け、次第に小さくなって、ようやく無音になった。

 静まり返るのを待たず、中継連絡担当にコールする。蓮は即座に出た。

「無事か?」

『問題なし。っていうか、これぐらいの地震で何を心配してんの』

「あ? ああ、そうだな。つい反射的に」

 反射的に、何だ? 自分は今、何を確認しようとしたんだろう? と自問するも、なんだか色々あり過ぎて思考が目詰まりしてるような感じだ。ちょっとあきれたように、蓮が、

『心配の元なら、今そっちに行ってるんじゃないの? どうせ一人だけだろ? 地震後のアフターケアが必要なのは』

 言われて、あ、そうか、と手を打つ。はたして横を見ると、混乱しきった評議会幹部が一名、勉にひしっとしがみついていて、声も出ないような怯え方で小刻みに震えていた。

 真知である。

 勉の方はただ棒立ちになっている。真っ赤になっているのはもちろん〝美少女〟から身も世もないといった風情で縋りつかれているからだろうが、それ以上に真知が全力で勉を締め上げているからじゃないかとも思う。中身が自分じゃなくてよかった、と、今日初めて勉がこの場にいてくれたことに感謝の念が起きる。

「いい年なんだし、それ、そろそろ何とかならんのか?」

「ここ、怖いもんは怖いの! しゃあない……やん……」

 翔雄の冷やかしにも、ろくに返事も返せないでいる。

 湯塩真知は地震恐怖症だ。ちょっと揺れた程度でも、即座に行動不能になるほどのパニックになる。のみならず、手近なところに人間がいると、だれかれ構わず全力で抱きついてしまう。

 とは言え、見かけは可憐でも、真知は前衛型の格闘タイプ。それなりに筋力もある。翔雄は、そのうちに、地震のせいで真知がどこかのお年寄りを絞め殺してしまうんじゃないかと気が気ではない。

 結果、ちょっと揺れるたびに、真知(とその周囲の人間)は大丈夫かと通信担当にコールするのが癖になってしまっていた。今回は――まあベン先輩が抱き枕役なら、死にはすまい。

「で、駅前の状況はどうだ? 今何人いる?」

 ようやく手先の自由を確保した勉が、ギブギブと言いながら、なおも鋼のタガのような真知の腕をぺしぺし叩いているのを横目に見ながら、翔雄が蓮に尋ねた。

『いや、あまり評議会で固まってるのも良くなさそうだから、集まってきたやつには、片っ端からレストハウスに向かえって言ってある』

「良くないって、尾行か何かでもついてるのか?」

『んん、それもあったようだけど、駅前なんかにたむろってたら、即座に監視対象になるぜ。今も多分、四人ぐらいこっちを視てる』

「っ! 援護は必要かっ!?」

『問題ない。俺がどこの何者かまではわかってないはず。黙ってずらかる分には邪魔はしないと思う』

「ならいい。メンバーを散らしたのは適切な判断だったな。現時刻をもって、駅前集結は正式に中止。全員、監視網に注意しつつレストハウスに直行するよう、一斉指示を出してくれ。オーバー」

『了解。通信終了』

 出すべき指示を出し終えて、そう言えば、と改めてさっきの眼帯大男を探す。それらしい影はとっくにいなくなっていた。 

 よもや、実物の博士とこんなところで会うことになるとは。何が目的だったのだろう? 揺れが始まる数秒前に地震を察知していたようにも見えたが、あれは何だったのか。いや、その前に語っていた、カエルがなんとか言う話はどういう意味だったのか。

(――あれ、ちょっと待てよ、何かもう一つ忘れてるような気が)

 翔雄が指先でこめかみの辺りをつついていると、ようやく落ち着いたらしい真知と勉が、それぞれ自分の端末に届いた蓮からの連絡を見たのだろう、息を整えつつ、無言で撤収の素振りを見せている。翔雄も黙って頷こうとした――が。

「……なあ、誰かもう一人いたような気がしないか?」

「あの片目のおっちゃんか?」

「いや、その前に」

「え、いたっけ?」

「おったかの?」

「……まあいいか。引き上げよう」

 足を動かす直前、すぐ間近でため息のようなものが聞こえた気がしたが、

 そこには紛れもなくもう一人いたはずだと、翔雄達が帰納的に記憶を再構築できたのは、レストハウスで点呼を取り、見かけの人数と合わないことに幹部たちが首を傾げた、そのしばらく後のことである。



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