1−4

 翔雄がその人影を認めた時、彼我の距離はおよそ二十メートル程度だった。

 駅へ向かうために、そろそろ急な下り坂のどれかを降りていかなければならない頃合いだった。道沿いに並ぶ中規模ホテルの合間に細い坂を見つけ、そちらへ足を向けようとした、ちょうどその時だ。

 翔雄の脳裏で音量全開の警戒アラームが鳴り響いた。角に佇む後ろ向きの人影。マンガなら全身から不気味線が発散されていそうな、違和感の塊のようなものが見える。

「議長?」

 背後から、不審そうな杏の問いかけ。

 何も気がついてなさそうな部下の声に、翔雄は少しだけ逡巡し、決心した。

「黙って。このまま、その道を降りる」

「はい」

 極力小声でやり取りし、極力気配も殺して、そのまま小道に入る。

 人影との距離が、最短四メートルほどになった、まさにその時。

「おなごらの 白肌揺らぐ 湯煙に」

 背中越しの押し殺した声で、翔雄はバタッと足を止めた。酷いセンスの五・七・五である。この上の句だけは、聞きたくなかったのにっ――と、痛いほど拳を握りしめ、うつむいたまま地面を凝視し、息も忘れて痛恨の思いにしばし堪える。

「え、あれ、議長? いったい」

 不思議そうに戸惑うだけの杏。できればダッシュで逃げたい。だが、そういうわけにもいくまい。こうなることは分っていたのだから。

「ああ滝多緒の 秋は暮れゆく」

 著しい自己嫌悪を憶えながら、翔雄が合い言葉の下の句をつぶやいた。敵地で対面した時の敵味方確認。それは今なお、評議会では墨守すべきルールの一つだった。

 人影がこちらに体を向けた。ライトベージュのトレンチコートに焦げ茶の中折れ帽、コートの中身は由緒正しいグレーのスリーピース、足には黒のウィングチップ、ネクタイは妙に幅広の紺色斜めストライプ、目には六十年代ヤクザ映画のようなサングラス。

 どこのオールドエイジコスプレですか、と言いたくなるような、絵に描いたようなゴテゴテのハードボイルドスタイルである。

 しかして、その中身は。

「えっ!? 副議長っ!? うっそおぉぉぉっ! 副議長だあああっ」

 素っ頓狂な声で杏が駆け出した。ほとんど懐に飛び込むような動作で、トレンチコートにしがみついてピョンピョン跳ねる。ハードボイルドの本体は、ただ鷹揚に頷きながら、黙って微笑んでいる。

 滝多緒学園諜報戦略評議会副議長、堀生勉ほりおつとむ。愛称はベン。旅館「ほりのゆ」の跡取り息子で高等部二年生。翔雄、真知達とは幼なじみ。

 見かけはゴツいが性格はよく、メンバーともおおむね関係は良好。一見格別の瑕疵も見当たらない気心知れた相手だが、その実、今の翔雄は徹底的に距離を置きたい気分であった。

 まず、センスがひどい。ただ横に立たれるのもいやだ、というぐらいにダメなファッションなのが常で、甚だしく悪目立ちしている。なのに、本人には壊滅的なまでに自覚がない。正直、今回勉とは全部無線でやり取りするつもりだった。

 次に、思い込みがひどい。絶望的なセンスにもかかわらず、本人はバリバリのかっこいいスパイのつもりでいる。腕っぷしは弱く、切れ者とも言えず、スタミナや所持スキルもはっきり平均以下と言えるのに、自己評価だけはやたらと高い。

 それに加えて、と言うべきか、にもかかわらず、と言うべきか、勉には妙なところがあって、彼の非才を補うこともあれば、ダメっぷりを倍加させることもある。それは――

「えええー? 修学旅行からいつ帰ってきたんですかぁー?」

「おう、おとといな。作戦に間に合うてよかったわ」

「ロンドンでしょー? いいなあ、楽しかったですかぁー?」

「うん、よかったでえ。あ、お土産ちゃんと買うてあるから、あとで食べ」

「ほんと? わーいわーい」

 というように。

 あの、評議会有数のやり手と言われる衛倉杏が、ふにゃふにゃの幼児帰りを起こしてしまうほどに。

 なぜか、会う人会う人をほんわかさせてしまう特殊能力があるのである!

 翔雄は急いで周囲三百六十度をするどくチェックした。こんな状況で或摩のエージェントがちょっかいでもかけてきたら、えらいことになる。幸い、依然人通りの少ない裏道の風景のままだったが。

「なんでも、奈良に行ってたんやて? どうやったん?」

「ええ、はい、面白かったですよー。あっちのエージェントからかったりとかー、カチコミ撃退したりとかー」

 ゴーレムのようないかつい顔が、不器用に頬を緩ませて笑みを形作った。

「へえ、すごいやないか。詳しく聞かせい言うても、みんなあんま喋ってくれへんねん」

「それは、まあ、今は或摩攻略一色ですし、みんなそっちに集中して……あれ?」

 杏が急速に本来の精神年齢を取り戻していくのが、傍目にも分かる。同時に、催眠術から解けた時のような気配が露わになっていく。今、自分は何をしていたんだろう、と戸惑っているような。

(そろそろか)

 翔雄が腕時計に視線を落とした。勉と出くわして二分半。標準時間の三分には届いていないが、本来勉と身近な関係である杏ならこんなものだろう。

「なーんか、映画みたいなええ場面とか、いっぱいあったっちゅう話も聞いてんやけど――」

「あっ、堀生先輩っ!? ええと、はい、すみません、今作戦行動中ですからっ! 用件は手短に!」

「お? おう、そうやの」

 なんだか不意に杏が自分と距離を置いたような印象を感じたのだろう、すこし違和感を窺わせた勉だが、それだけだった。本人が何かを察知した様子は、かけらもない。これまでの全てのケースと同様に。

 ひと呼んでベン・チャーム。面識のある相手を約三分間、魅了状態にする、不随意カウンタースキルの一種(分析 by 蓮)。魅了の強度は、対象と勉との出会いが久しぶりであればより強くなり、知遇を得た直後の相手にはマックスになる。

 親や幼なじみなどには効果がないようだが、中等部以降になじみとなった相手にはしばしばこのスキルが発動し、学園生活でも折りに触れて大小の喜悲劇が起きている、らしい。

 敵地潜入作戦においては、相当の威力を発揮する能力のはずである。ところが慎重な調査の結果、勉本人が無自覚でなければ発動しないらしい、ということが分かってしまった。

 有り体に言えば、使い物にならないということだ。きわめて恵まれた条件下でなら活用できないことはないが、そんなセッティングを考えるよりも、普通に作戦を進める方が間違いない、というのが、事情を知る評議会員の一致した意見である。

「わ、わ、私、もしかして……」

 杏が小声で翔雄に困惑しきった顔を向けた。翔雄はただ頷いて、

「うん、イッてたね。珍しく」

「ど、どれぐらい……」

「うーん、着ぐるみのクマさんを見つけて大はしゃぎの幼稚園の子供、みたいな?」

「あああああああああ」

 真っ赤な顔を見られたくないからか、杏はその場で地面に突っ伏してしまった。拳でコンクリをがんがん叩いている。地響きが結構すごい。

「こんなはずではっ! 油断したっ! ああ、この未熟者めっ、未熟者めぇぇぇっ!」

「何があったんや?」

 眉をひそめた勉が翔雄に問いかける。先輩のせいです、とは言いたくても言えない。

「ああうん、彼女は向上心が旺盛だからねえ」

「大丈夫なんか?」

「問題ないでしょう。それよりも、ベン先輩の作戦進行に何か問題が?」

「いや、こっちは万全やで」

「それはいいことですね」

「聞きたいやろ?」

「いや別に」

「なんや、確認しとかんでええんかいな」

「その必要はない、と学園長御自らのご託宣ですから」

 今回の作戦「或摩の黄昏」は、翔雄が統合指揮を取るのでなく、三人の幹部が別個に作戦を進める段取りになっている。何かあった時はサポートし合うとして、順調であれば、誰がいつどんな行動を取っているのか知らなくていいのだ。そういう独立した組織形態であれば、捕まっても安心だからだそうだ。もちろん、安心なのは作戦の進行が、であって、捕まったエージェントが、ではない。

「気に入らん作戦でも、議長のお前は一通り知っとくべきちゃうんか」

 勉の声が、ふわっとした温かみと気遣いに満ちた響きになる。翔雄がよく知っている、勉の地の声音である。

 修学旅行で評議会を抜けていた勉とまともに話をするのは、十日ぶりぐらいだ。多分、他のメンバーから聞いた言葉の端々から、事情を察しているのだろう。

 ちら、と勉の目を見た。中折れ帽の下の角張った顔の中で、その目は人生街道ン十年の浪速のおっちゃんみたいに、憂いと優しさを等しく漂わせていた。

「学園長のむちゃぶりはいつものこっちゃ。作戦始まっても拗ねてるんは、お前らしゅうないで」

 そう、堀生勉はただのダメエージェントではない。そんな人間が、使えない魅了スキル一つ持ってるだけで、副議長に推されたりはしないのだ。

 こと、問題の中身が情に関わる部分であれば、勉は一目も二目も置かれる存在だった。

「拗ねてるってわけじゃないですよ」

「うん」

「連絡体制は整えてあるし、フォローの想定もしてます」

「そうか」

「でも、あのじじいが『これだけでいい』って言ってることに、わざわざ気を回してやる義理はないですよ。違いますか?」

「いや、それはそやけど……筋が違うんちゃうかなあ。やっぱり、現場に出たんやったら、ベストを尽くさんと」

「尽くしてるじゃないですか。みんなの安全は最大限段取ってます。じじいが言外にほしがってる結果なんて知りません。そもそも計画の無謀さを最後まで理解しなかっんだから」

「うん、お前の気持ちはよーう分かる。分かるけどな――」

 翔雄が片手を挙げて勉を制した。翔雄の目の動きを追って勉が振り返る。両者の視線の先には、いつの間に立ち直ったのか、杏が妙にニコニコした顔で二人を眺めていた。

「……何を嬉しそうに見てるんだ?」

 半閉じの目で杏を睨めつける翔雄。

「ええ? なんか、いいなあって」

 魅了はとっくに解けたはずなのに、やたら目をキラキラさせて、よく分からない返事をする杏。

「あ、私、先に駅前行ってますね。須楼すろう先輩と進行状況、一旦まとめておきますんで。じゃ」

 承諾も得ず、さっさと軽い足取りで行ってしまう部下を、翔雄は微妙に渋い顔で見送った。

「何やったんや?」

「……衛倉は好奇心も旺盛ですから」

「そうか」

 よく分からないという顔で勉が首を傾げた。翔雄自身、実は自分のセリフに意味不明だったりするのだが。


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