0−14
「昆野、いや、昆野さん……いやいや、昆野様」
近いところから小声で呼んでいるのが聞こえて、セシルは胡乱な目を振り向けた。首輪付きで地面にあぐらをかいたままのカチコミ隊の一人である。
「ええと、さっきは悪かった。俺ら、ギャラに釣られただけのただの走り屋なんや。お前を……いや、昆野さんをどうこうしようという気は、最初からないねん。そのだから、このまんま『やまもみじ』継ぐってんなら、俺ら、多分千津川でもしばらく仕事ないし、雇ってくれんかと」
ぷいと視線を外して、とりあえずその場を離れる。背後からは、なおも慌てた声が未練たらしく、
「おいっ、ほんとにっ、なんでもするからっ、荷物運びでも、警備員でもっ」
どこか静かなところに行きたい、と思って大人のメンバーが何となく集まっている辺りへ行くと、今度は観光局の松器がセシルを目ざとく見つけて、
「ああっと昆野作戦部長、ちょっといいかな。鹿戸さんの意思がはっきりしたから、ここからの協議は君も前面で参加するべきだと思うんだけど」
「え、あたしが何で」
「ええとつまり、生前贈与とかの可能性も考えると、今までの前提が色々と崩れてしまって、先が見通しにくくなってるんだ。鹿戸さんはスネに傷持ってたわけだけど、君はそうじゃないでしょう? いわば真っ当な権利者というわけで。とはいえ、我々としては、一から全部話し直すのは避けたいんだけど」
「そういうことを……急に言われましても」
「ああうん、混乱するのは当然だよね。とりあえずそういう話が出てるってことだけでも」
ますます話がややこしくなった。上の方でも混乱しているらしい。どこかで寝っ転がってのたうち回りたい気がして、横になれそうなところを本気で探していると、今度はなぜか杏が目の前に現れた。
「ああセシルさん、今こんなタイミングでなんだけど、資産の運用、よかったら私の個人的なつてで悪くない話が」
「だああああああっ、もうっ!」
いきなり壊れたおもちゃのように両手を振り回して、セシルはその場で地団駄を踏んだ。
「もうっ、もうっ、もうっ」
さすがに周囲からささっと人が離れていく。このまま地べたでそうめんの延べ棒みたいに転がってやるっと膝を折りかけたその時、
「寝っ転がるんならバスの中にしたら」
そっけない声に顔を上げると、息が掛かりそうな位置に翔雄が立っていた。知らないうちに間合いに入られていたのだ。思わず飛びすさって半身で身構える姿勢になる。
「な、何の用!? 貯金口座なら間に合って――」
つい口走った中身には突っ込む気配すら見せず、翔雄は例のごとく、やたらと面倒くさそうな目でじっとセシルを見つめた。ただ、なぜだろう、今回はどこかしら意識的にすごく近い距離でいるような気配を感じる。
「よ、用がないんやったら、は、離れて――」
すっと翔雄が右手を差し出した。手のひらに、氷のかけらのような小さな石が見える。
「これは通販の安売りで買った石英の原石」
ガラスにしてはほどよく丸みがあって芯まで澄んでいるその石は、不格好ながら暗がりでもなかなかいい感じの光沢を放っていた。が、そんなもの突き出されても、当然ながらセシルはただ面食らうばかりである。
「石英ってのは化学的に言うと二酸化ケイ素で、火成岩の基本的な成分でもある。純粋な石英は水晶って名前で多少は珍重されるけれども、まあ宝石としての格は落ちる」
「……それが、何か?」
似たようなことは学校の地学で聞いたような気はする。けれども、それが何だと言うのか。
「当然ながら、二酸化ケイ素に他の元素が結びつくこともある。元の水晶とは全然違う外見や価値を持つことも珍しくない」
「そやから、いったい何をっ」
「それが、これ」
いつそんなものを用意していたのか、不意に小ぶりな雑誌サイズの箱が現れたと思ったら、翔雄がパカッとフタを開いてみせた。中は石の標本箱だ。だがひと目見た瞬間、セシルは目の前のものの美しさが信じられなかった。
「!! ……」
不意を打たれたせいもあるだろうか、上品そうな布地にきっちり並べられている二十個ほどの石は、どれも宝石と呼べそうなほど、きらびやかに見えた。充分な照明もない中なのに、一つ一つが内側から輝いているようだ。
「この左の列が色付きの水晶。紫水晶、煙水晶、黄水晶。ここから不透明度が上がる。玉髄、碧玉、さらに組成が色々と複雑になっているのがメノウ。縞メノウ、苔メノウ、炎メノウ。そして、この列からは分子中に水が入った鉱物……いわゆる、オパールの仲間だ」
いちばん右の列に収まっている標本は、光沢の複雑さが度を超えている。見つめていると、石の中に体ごともっていかれそうだ。わかっている。こんなものは子供の宝石箱に毛が生えた程度の標本、アクセサリーショップでも入手できそうなものばかりのはずだ。けれど――
「この中で好きなもの一つだけ持っていっていいって言ったら、どれを選ぶ?」
耳元で翔雄が囁いた。ぼうっとした感覚のまま、セシルはいちばん右の隅のオパールを指さした。
「ファイア・オパールの上物じゃないか。欲張りだな」
なんだか彼氏と宝石店にでもいるような会話をやってるようで、セシルは急にどぎまぎする。不意に、翔雄が声を低めた。
「じゃあ、昆野セシルの未来の姿をこの中から選ぶとしたら、どれを選ぶ?」
「え……」
「左から右へ、より複雑な組成になるよう並べている。でも、ぶっちゃけどれも、ほぼ二酸化ケイ素の塊で、中身は同じようなものだ。ただ、人間が見れば、右寄りの方がゴージャスな外観ではある。君はこれから、この中のどの石にもなれるとしよう。どの石になりたい?」
いきなり夜の闇が視界に戻ってきたような感覚。翔雄の質問の意図は明らかだ。ここまでのあらゆる対話や議論が走馬灯のようにセシルの脳内を駆け巡る。自分はどうしたらいい? どうするべき? 色んな所からの有形無形の圧力がいっぺんにのしかかってきたように思えて、セシルは思わず胸を押さえた。
「今、それを考えるな!」
いきなりの翔雄の叫び声と腕の微かな痛みで、セシルははっと我に返った。ふらついて倒れかかっていたのを、翔雄が支えてくれていたのだ。翔雄はなおも声を励まして、
「誰のことも考えなくていい。組織の利害とか、責任とか、全部どっかに置いとけ。目の前だけを見て。この石だけを見て。自分にだけ正直になって。君はどの石になりたい?」
「あたし、は」
それが隠れた本当の気持ちだったのだろうか。気がついたら、セシルは一つの石を指さしていた。標本箱の、どの石でもない、翔雄が手の中ににぎったままだった、石英の原石を。
翔雄とセシルが視線を合わせたのは、ほんの数秒だったかも知れない。けれども、何分もの間、すごく真面目に見つめ合っていたような気がして、セシルは慌てて視線を外した。
「うん、それが本心なら、それでいいんじゃないかな」
しれっといた口調を装っていながら、心なしか、翔雄の声は微かな困惑が混じっているような気がする。柄にもないことをしてしまった、みたいなことを言いそうな。
「それで迷いがないのなら」
「迷いなんか、あらへん。旅館のオーナーなんて、最初からあたしの柄やない」
口に出すと、妙にひやりとする感覚が腹の底にある。言ってしまった、という気持ち。でも、確かにこれが本音だ、との実感はある。
「つまりは、そんなもの棚ボタで渡されても、迷惑にしかならんと」
「いや、そこまでは、言わへんけど、まあ」
「父親の気持ちなど、キモいだけだと。ありがたいどころか、邪魔にしかならんと」
「そんなことないっ! ないけど! 急に今日そんなこと言われても。って言うか」
セシルは声の主へと振り返った。
「……いつからそこにおるの、あんた」
「六行前からだな」
しれっとメタな返事でふてぶてしさを高める鹿戸である。セシルがくわっと牙を剥いた。
「殴られ足りへんのか、あんた! 話がしたいんやったら、正面から来いや! い、い、言っとくけど、あたしはあんたを父親なんて」
「ツンデレだな、お前」
「あんたにだけは言われとうないわっっ!」
ぜいぜいぜい。
大きく息をつくセシルを見下ろしつつ、右頬の絆創膏を指先で押さえながら、鹿戸は少しだけ沈黙した。何かを言いよどんでいる気配だ。
「なんか……理由があったの? こんなもんあたしになんて」
まっすぐ切り込むセシルに、むしろ鹿戸はほっとしたような口調で、
「理由は、ある。だが、その半分は今のお前が知らなくてもいいことだろう」
「……じゃ、もう半分は?」
「そりゃ、親のエゴだな」
やたら露悪的なセリフに、セシルが顔をしかめて鹿戸を見上げた。
「そんな顔すんなよ。……何しろ、一生会うことはないと覚悟した娘だ。遺せるのは金しかない。だが、現金はあれこれ理由を付けて獲られる時は獲られる。不動産はそうじゃない」
「いや、そらそうやろうけどっ。そもそもなんであたしに!? 今まで、何一つしてこんかったのに――」
「だから、これぐらい遺さないと釣り合わねえって思うんだよ。理屈に合うだろうが」
「合わへん! そんなん、おかしい!」
どうかすると、そのまま泣き崩れるとかそういうことをしそうな自分に気づいて、慌ててそこで動きを止めてしまう。いくらなんでもここで安物ホームドラマを演じるのは恥ずかしい。鹿戸もなんだかきまり悪そうにしているが、やがて、目を合わせないままでぼそりと問いをよこした。
「後悔しないか?」
「せえへん」
何を、という言葉は二人とも敢えて言わなかった。
「十年後、二十年後に、同じことが言えるか?」
「五十年後でも言うたる」
「なぜ言える?」
返事の前に、一度だけ静かにセシルは深呼吸した。
「こんなもん、金額やなくて気持ちの問題やろ。……気持ちはもろた。そやから、もうええねん」
「そうか」
ほんの刹那、少しだけはにかんだような何かが鹿戸の口元に浮かぶ。が、すぐにそれを引き締めると、少し離れた位置で、それまでずっと居合わせていた峰間大伍へ向けて、はっきりと頷いてみせた。
「『やまもみじ』の譲渡に同意する」
わっと歓声が上がって、大きな拍手が沸き起こった。その時になって、セシルはようやく、最前から自分たちの周りに、その日のキャストが全員集まっていることに気づいた。いつの間にか衆人環視の中、協議の最終段階を鹿戸と二人で進める形になっていたらしい。
「ええええええーっ?」
「ただしっ」
鹿戸が叫び、手を挙げてその場の注意を引く。
「一つ条件がある。娘の生活保障だ。せめて二十歳か、二十二まで、この子が生活費と学費に悩むことのないよう、しかるべき金額を要求する」
「え、そんなの、もう必要ない――」
「いや、だめだ」
セシルの反論を鹿戸は頑強に否定した。
「俺の動産も不動産も全部あんたらに譲るんだ。身から出たサビだということは分かってる。だが、『やまもみじ』の物件と引き換えだと思って、これぐらいの便宜は図ってくれ」
「それはしかし、鹿戸さんご自身が新たに稼げばよろしいだけではありませんか?」
松器が言った。今まで皮肉など口にしなかった事務方からのセリフだったので、鹿戸はその言葉をどう受け止めるべきなのか、すこし戸惑ったようだった。
「お、俺がこれからすぐに、まともに稼げるわけがないだろう。……少々日銭を稼いでも、あんたらが全部むしり取っていくんじゃないのか」
「申し訳ないが鹿戸さん、我々はあなたを根本的に信用していない。なにしろ、逮捕歴こそないものの、実質的に犯罪者なんで」
急に厳しい言葉を浴びせられて、鹿戸がうっと口をつぐんだ。松器は淡々とした口調のまま、「ですので」とセリフを続けた。
「あなたには我々の目の届くところで働き続けてもらうしかない。千津川にも打診したが、あちらではやはり難しいという話です。滝多緒に来て下さい。旅館組合の方で、腕のいいコンサルタントを探しています。倒産寸前の『やまもみじ』を孤軍奮闘で立て直し、十年そこらで二つの観光地から目障りだと意識されるほどの存在に高めたその手腕」
ここでようやく、松器はにやりと笑ってみせた。
「我々が存分に活用させていただきますよ。まあ、娘さんの仕送り分ぐらいの給料は出しますんで」
おおおお、というどよめきと拍手が響く中、キツネに包まれたような顔で、ただ放心する鹿戸。セシルがその背中をずばんとドついた。娘の小馬鹿にしたような笑みを見て、やっとのことで鹿戸は表情を緩めた。
「はは……ははははは」
空笑いしか出なかったのは、おそらく長い長い緊張と疲れのせいだったはずだ。そうでなければ、いつまでも下品にバカ笑いしていただろう。それほどまでに鹿戸が消耗していたことに気づいて、セシルは少しだけ、今さらのように心が塞いだ。
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