0−12
いささか戸惑いつつ、セシルは砂鳥の横で、すぐ目の前の光景を眺めることしか出来なかった。翔雄は今や、最後の追い込みのような口調で鹿戸に畳みかけていた。
「ハッタリだと思ってますか? 僕らにそんなマネは出来ない、と」
「…………いや」
「これも言っておきますが、一度あることは何度でもありますよ」
「………………」
「それでも、旅館を手放すぐらいならいっそもろともに、と?」
「そうでは、ない。……そんな勝手な話があるものか。俺はただ」
「せめて自分の死後に、その守りとなることを願って。そういうことですね?」
鹿戸の動きが停まった。驚いた顔で翔雄を仰ぎ見たまま、呼吸も忘れて目を見開いている。
「やはりね」
そう言って翔雄は背を伸ばし、横で成り行きを見守っている大伍と目を合わせた。老人は何も言わず、何の表情も見せない。次に翔雄は砂鳥を見た。ついさっきまで鹿戸への侮蔑も露わに罵っていた彼女だったが、仮面を付け替えたように、今はただ静かに翔雄を見返すばかりだ。だが、なぜだかセシルには、彼女が今にも翔雄に飛びかかりそうな構えでいるように見えてならなかった。
「まったくどいつもこいつも」
口の中で翔雄が毒づいた。謎めいた空気の中、松器が困ったように声を上げた。
「ええと、すまない、どういうことかな? 説明してくれるとありがたいんだけど」
同じ滝多緒の、それも目上である松器を翔雄は完スルーした。というよりも、取り合っている余裕などない、と言いたげな、ピリピリした雰囲気がにじみ出ている。
「鹿戸さん、あなたは今、どちらへも進みようがない行き詰まりの状態になっている。それは理解できます。ですが、よく考えていただきたい。あなたが望むのは、守りたいと望む人の、不毛な未来か、救いのある現在か」
奇妙に回転の落ちた頭で、セシルは小さなとっかかりを見たような気がした。守りたい、と望む、人? そうか、翔雄は鹿戸に選択を突きつけているのだ。『やまもみじ』の不動産と、誰か、鹿戸が守ろうとしている人間とを。でも、誰かって誰だろう? 確か「やまもみじ」ゆかりの恩師はとっくに亡くなってるし、その息子さんも五年ぐらい前に病死して――。
「未来の不確かさよりも、現在の確実さを選ぶべきなのでは?」
「……そこまで、言うのか。君のような、高校生が」
「愚問です。高校生でも言えること、と受けて止めていだきたい」
なんか、息苦しい。セシルだけではないらしく、翔雄と鹿戸を見つめる人々は、みなここに至って、訳がわからないままに、何かの限界点を意識し始めているような雰囲気になっている。
「もはや問答は不要のはず。ご決断を」
「…………俺は……」
「それとも、あなたの大事なものが、居ながらにして死に体となったところを見ないことには、思い切れませんか?」
鹿戸がぐっと息を詰まらせたのと、砂鳥の鋭い命令が夜気を切り裂いたのは、ほぼ同時だった。
「千津川対外情報室!
至近距離でずっと身構えてでもいたのか、まさに一瞬で千津川チームの全員が姿を現し、セシルの周囲を隙なく固めた。ただ、登場こそ鮮やかだったが、全員結構ビビりまくっているのははっきり窺えた。五名ともめいめい手に獲物を持ち、それなりに戦闘態勢をアピールしているものの、よく言って"決めポーズだけ必死で練習してきた戦隊愛好クラブの皆さん方"と言った風情である。
もっとも、室長一人で洒落にならないぐらいの殺気が発散されていたので、状況の深刻度は本物だ。温厚な交渉担当とさえ見えた水枯砂鳥は、ここに至って全開の闘争心をさらけ出していた。黒光りする愛用の小太刀を片手に捧げ、今にも居合抜きで翔雄へ飛びかかっていきそうな強烈な気合を放っている。
セシルだけが、ただ呆然と目前の状況変化を眺めていた。
滝多緒は即時に反応した。これだけ変化があからさまだと、命令も説明も必要ない。そんなものがなければ動けないエージェントは、評議会には存在しなかった。ものの二、三秒で、その場は無数の刃物飛び道具の類が闘気をぶつけあう、煉獄のような場面に変じた。が、その時。
「評議会は全員動くな!」
翔雄が叫び、ゆっくりと千津川勢に向けて振り返る。一応、命令口調だが、こんな状況の中だと言うのに、思いっきり鬱陶しそうな、ものぐさそうな態度がありありと浮かんでいた。むろん、両手には何の装備もない。
翔雄は露骨にため息を一つついて、
「水枯さん、邪魔しないでいただきたい。今いちばん重要なところなんです」
「その重要なところで、貴様は何をする気だっ!?」
「何をする気だと思っていらっしゃるんです?」
腕組みをしながら問い返した翔雄の態度を、挑発と受け止めたのか、砂鳥がぎりっと音を立てて歯噛みした。両眼から炎のような怒りの感情が吹き出している。
「それを私に言わせる気か!? 鹿戸を観念させる最後の手段など、滝多緒とて先刻調査済みのはずだろう! こいつにとって、『やまもみじ』並に大事なものは、唯一残された家族の命! 生き別れた一人娘の命と安全だ! ならば、その最後の手段は――」
その姿はまさに、効果線ぎっしりの大画面でド派手なBGMを背負っている正義の味方。砂鳥はセシルを肩に抱きながら、翔雄に向けてびしっと人差し指を突きつけた。
「貴様、鹿戸の眼の前で、昆野セシルにあんなことやこんなことをして、屈服させる気だろう!?」
奇妙な静寂が訪れた。唐突に明かされた事実で何人かが愕然とし、さらに盛り上がりを予期して目を輝かせるメンバーは数多いが、パンパンに膨らんでいた何かが急速にしぼんでいくような、そんな印象が確かにあった。
「室長、あんなことやこんなことって何ですか?」
棒手裏剣を教科書通りのポーズで構えながら、"リンちゃん"こと栗瀬(中一)が砂鳥に聞いた。砂鳥は翔雄をヒーローっぽく指さしたまま、余裕の声で応じた。
「ネットで調べなさい。最近はネットにたいがいのことは載ってるから」
「はい」
「じゃなくてっ!!」
「ちょっと待てえええ!!」
セシルと鹿戸が大声で喚き出したのは同時だった。
「何ですか、室長! いつからあたし、そんな罰ゲームみたいなことされる流れになってんですか!?」
「さっきから何を言ってるんだっ!? 俺の娘がこんな場所にいるはずが……え? あれ? ほんとにアレが?」
とりあえず手近な人間に絡もうとしていた二人が、その時になってようやくまともに目を合わせ、すぐに逸らした。
「って言うか、このことって極秘やなかったんですか!? なんでみんな知ってて……あーもう、よりにもよってこんな場面でこいつにバラすとか、あり得へん!」
「いやいやいや、おかしいだろう。なんでアレが俺の娘なんだ? 娘は今年十七だぞ!」
喚き散らしているうちにセシルはチームの囲いから抜け、鹿戸も立ち上がってふらふらと歩き始めた。
「なんでこんな盗撮おやじの説得のためにあたしがエロい目に遭わんとあかんの!? 峰間翔雄! あんた、何するつもりなんやて!?」
「落ち着け、昆野! 安易に動くな!」
「いや、だから僕は」
「聞けよ、お前ら! アレが、アレが俺の娘のはずはないっ! 第一こいつは――」
錯綜した応酬のさなか、互いの呼吸のいたずらで、不意に鹿戸の大声だけが夜の駐車場に飛び出した。
「まだ中学生の体じゃないか!」
体じゃないか、体じゃないか、というこだまが、樹々の暗がりへと吸い込まれていった。
多分、その場の全員が。
次なる展開に期待した。
そして、期待は裏切られなかった。
「あぁたぁしぃはぁぁぁぁ、十七才やあああぁぁぁぁぁぁっっっ!」
強烈な左フックが鹿戸の顔面を襲い、その体が宙を舞った。きれいに放物線を描いた後、砂利を跳ね飛ばしながら地面を二転、三転し、静止する。
さすがに言葉なく佇む砂鳥と千津川チーム。なぜだか、成り行きで歓声を上げて喝采する滝多緒メンバーたち。一方で、一部の男たちは痛ましいものに接するように鹿戸へ瞑目した。
髪をかきむしりながら、今度こそ心底から嫌になった声で翔雄がぼやく。
「ったく、どいつもこいつも!」
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