【完結】酔った時だけ甘えてくる雪女上司が最高に可愛い

あーもんど

前編

 春の暖かな日差しが差し込むオフィスには、パソコンのタイピング音とインスタントコーヒーの香り、それから────氷のように冷たい上司の怒りで満ちていた。


「何……?データが紛失した……?バックアップはどうした?まさか、『取っていない』などと言うつもりではないだろうな?あれほど、データの取り扱いには気をつけろと言ったのに」


 感情の起伏が感じられない無機質な声で部下の岩井を威圧するのは営業課の課長である、白雪しらゆき氷乃ひのだった。

雪のように真っ白な肌と色素の薄い瞳を持つ彼女は腰まである艶やかな黒髪を手で払う。

顔立ちは清楚な感じで非常に整っており、大和撫子という言葉が良く似合う人だった。

でも────常に無表情なせいか、氷のように冷たい印象を受ける。なので、うちの会社では彼女のことを雪女と呼んでいた。


 外見も良くて仕事も出来るんだけど、何を考えているのか分かんなくて怖いんだよな……まあ、頼りになる上司には変わりないけど。威圧感が半端ないだけで。


「つまり、バックアップは取ってないってことだな?」


「は、はい……すみません!」


「紛失したのは全てのデータか?それとも、一部だけか?」


「ぜ、全部です……」


 蚊の鳴くような声で『すみません……』と再度謝る岩井はすっかり縮こまっている。

今にも泣き出しそうな彼を前に、白雪課長は黙ってパソコンを開いた。

冷たい無表情でカタカタとパソコンを操作する彼女はチラリと掛け時計を見上げる。


「お、おい……岩井の奴、やばいんじゃないか?」


「ついに雪女が怒り出すんじゃ……」


「あのデータって、確か今日の昼までに先方へ送る予定だったよな……?」


「そこまで大きな取り引きじゃないけど、営業うちは信頼がないと成り立たないから、ちょっと不味いかもね」


 ヒソヒソと小さな声で会話を交わす他の社員は自分の仕事をこなしつつ、白雪課長の様子を窺う。

この場の空気が張り詰める中、白雪課長は不意に顔を上げた。


「データのことは私の方で何とかする。だから、お前は先方に納期が遅れることを謝罪して来い。移動に時間が掛かるだろうから、今日は直帰して構わない。ただし、誠心誠意お詫びしろ。いいな?」


「は、はい……!分かりました……!」


 ガバッと勢いよく頭を下げる岩井は『今すぐ行ってきます!』と言って、デスクにある自分の荷物を引っ掴んだ。

半泣きのまま去っていく彼の後ろ姿を見送り、俺達はホッと肩の力を抜く。

『とりあえず、クビはなさそうだな』と安堵する中、白雪課長は黙って仕事を始めた。鬼のように早いタイピングでデータをどんどん打ち込んでいく。


「自分の仕事だってあるのに、大変ね。ってことで、外回り行ってきまーす!」


「僕もこれから、先方との打ち合わせがあるので行ってきますね」


「あっ!じゃあ、私も〜!」


 我先にと部屋から出ていく社員達はあからさまに忙しいアピールをする。

手伝いをお願いされる前に逃げる彼らは実に薄情だった。


 まあ、うちの業務内容は過酷だからな。他人の尻拭いなんて、誰もやらないか。


 白雪課長と共にオフィスへ取り残された俺はポリポリと頬を掻きつつ、課長のデスクへ近づく。

そして、山のように積み重ねられた資料の束を一つ手に取った。


「俺、今日は事務作業だけなんで手伝います。だから、頑張って終電までに帰りましょう」


 雪女と恐れられる上司とはいえ、困っている人を放ってはおけず、そう申し出る。

パソコンから、パッと顔を上げた白雪課長は俺の顔を見るなり、『田太来たたらいか』と呟いた。


 田太来というのは俺の苗字で、フルネームは田太来智久ともひさである。

ちなみにこの会社は入社三年目で、営業成績はそこそこ。エリートコースとは程遠いが、わりと充実した毎日を送っている。まあ、充実した毎日と言っても、彼女は居ないけどな……!


「悪いが、頼む。データはメールを使って、私のパソコンへ送って欲しい」


「分かりました」


 手短な指示にコクリと頷いた俺はそのまま自分のデスクへと戻っていく。

そして、分厚い資料をペラペラ捲りながら、データ入力を始めるのだった。


◇◆◇◆


 それから、半日以上かけてデータの再入力を終えた俺達は真っ暗なオフィスで一つ息を吐く。

時刻は既に二十二時を回っており、オフィスには俺達しか居なかった。

定時に帰って行った面々を思い出しながら、俺は肩を揉む。


 はぁ……かなり時間は掛かったけど、何とか終わったな。終電までまだ時間があるし。よく頑張った、俺……!って言っても、やったのはほとんど白雪課長だけどな。俺がやったのは全体の三十パーセント程度だ。あの人のタイピング速度は異常だよ……だって、自分の仕事もきっちりこなしながら、やってたんだぞ?もはや、タイピングの神だろ。


 などと考える中、データの圧縮とバックアップを終えた白雪課長がパソコンから顔を上げる。

ブルーライトカットの眼鏡を外す彼女はパタンッとパソコンを閉じた。


「あとは明日の朝、先方にデータを送るだけだ。遅くまで付き合わせて悪かったな、田太来」


「いえ、少しでもお力になれたなら良かったです」


 僅かに頬を緩める俺は『やっと帰れますね』と言いながら、薄手のコートを羽織った。

退勤の準備を進める俺を他所に、白雪課長は時計に目を向ける。


「終電までまだ時間があるな────田太来、良かったら飲みに行かないか?今日は私が奢る」


「えっ?いいんですか?」


 唐突なお誘いに、俺は反射的に聞き返してしまった。

目を剥く俺を前に、白雪課長は『ああ、手伝ってくれたお礼だ』と付け加える。


 課長自ら飲みに誘ってくるなんて、珍しい……というか、初めてじゃないか?普段は飲み会なんて、滅多に来ないのに……。会社の付き合いでどうしても参加しなくちゃいけないときだって、『車で来ているから〜』とか『このあと、まだ仕事があるから〜』とか言って、お酒は絶対に飲まない。だから、てっきり飲み会は苦手なのかと思っていたが……。


「飲みの誘いはめちゃくちゃ嬉しいんですけど、大丈夫なんですか?課長って、確か車通勤でしたよね?さすがに俺だけ、飲むのは……」


「大丈夫だ。今日は私も飲む」


「そうですか。今日は課長も……って、えぇ!?飲むんですか!?」


 白雪課長の飲酒宣言に、思わず大声を上げてしまった俺は目を真ん丸にする。

申し訳ない気持ちなど吹っ飛んだ俺を前に、白雪課長はポーカーフェイスのまま『飲んじゃダメなのか?』と首を傾げた。

そのあざとい仕草に思わずキュンッとしてしまった俺は僅かに頬を赤くする。


「だ、ダメではありませんが……車はどうするんですか?」


「車……?あぁ、それなら今、修理に出している。だから、今は電車通勤だ」


「あっ、そうだったんですね」


 電車通勤なら、酒を飲んでも大丈夫か。

何より、白雪課長と仲を深めるまたとない機会だし、行くしかないだろ。


「そういうことなら、ご相伴に預からせてください」


「ああ。店は駅前のやつで構わないか?」


「はい!俺は何でも大丈夫です!」


 ビシッと敬礼して答える俺は『酒が入った時の課長って、どんな感じなんだろう?』と少し浮かれる。

そして、才色兼備の課長に連れられるまま、俺は会社を後にした。


◇◆◇◆


 それから、十五分ほど歩いて辿り着いたのは駅前にある小さな居酒屋だった。

個人経営のようで客足はあまり多くないが、それなりに賑わっている。

鼻を掠める炭の香りとアルコールの匂いに頬を緩めつつ、俺は課長と共に奥の席へ通された。向かい合うように席へ腰掛けた俺達はとりあえず、生ビールと焼き鳥を頼む。


 なんか、ちょっと緊張してきたな……。相手が上司だからって言うのもあるけど、白雪課長はめちゃくちゃ綺麗だから、周りの視線が痛い……きっと、『あの二人、釣り合ってねぇーな』とでも思われてんだろうなぁ。


 周囲から突き刺さる視線に、俺は『ははは……』と乾いた笑みを零した。

ちょっと心が折れかかっている俺とは対照的に、白雪課長はいつものポーカーフェイスを保っている。周囲の反応など、露程も気にならないようだ。


「お待たせしましたー!生二つと焼き鳥セットになります!それでは、ごゆっくりどうぞ〜!」


 バイトと思しき若い女性は注文の品をテーブルの上に置くと、そそくさと退散する。

シュワシュワと泡立つ生ビールを、俺達はそれぞれ手に持ち、目を合わせた。


「一先ず、今日はありがとう。とても助かった。今日は好きなだけ、飲んでくれ────乾杯」


 手に持つジョッキをスッと近づけてきた白雪課長に頷き、俺は『乾杯!』と復唱した。

コツンッと互いにジョッキをぶつけ合い、キンキンに冷えた生ビールに口をつける。

アルコール特有の香りとビールの苦味に目を細め、俺は一気に半分まで煽った。


「っぱぁ〜!やっぱり、仕事終わりのビールは最高ですね!生きていて良かったって感じがします!」


「……」


「課長?」


 返事のないことに違和感を覚えた俺は正面に座る黒髪の美女を見下ろす。

黙りこくる彼女はジョッキを手に持ったまま、俯いていた。一気飲みでもしたのか、ジョッキの中は既に空になっている。


 どうしたんだ?課長が無視するなんて、珍しいな……まさか、もう酔ったのか?まだ一杯目だぞ?無理して、一気飲みなんてしたからか?いや、それよりも────酔った時の課長って、どうなるんだ?まさか、怒り上戸だったりしないよな……?居酒屋に来てまで、怒られるのは御免だぞ……!?


「お、俺!水、貰ってきますね!」


 瞬時に危機を察知した俺は『さっさと酔いを冷ましてもらおう』と勢いよく立ち上がる。

避難の意味も兼ねて、早々に撤退しようとするが────不意に服の裾を掴まれた。

ビックリして、思わず立ち止まる俺は反射的に視線を落とす。

すると、そこには────俺の服をちょんっと掴む白雪課長の姿があった。


「えっと……白雪課長?申し訳ありませんが、離して貰えませんか?」


 ポリポリと頬を掻き、愛想笑いを浮かべる俺はそうお願いする。

でも、白雪課長は頑として服の裾を離そうとはしなかった。


「い……ろ」


「えっ?」


 声が小さ過ぎて聞き取れなかった俺は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。

動揺を隠し切れない俺を前に、白雪課長はギュッと強く袖を掴むと、勢いよく顔を上げた。


「────行くな!ここに居ろ!」


 潤んだ目でこちらを見上げる彼女はまるで駄々っ子のようにそう強請る。

アルコールのせいか頬は火照っており、『雪女』のイメージからかけ離れていた。しかも、いつものポーカーフェイスを崩して、ムッとした表情を浮かべている。ぶっちゃけ、凄く可愛い。


 普段は表情に乏しいせいか、可愛いより美しいという言葉が似合うが、今はその真逆だ。人は表情一つでこんなに印象が違うのかと驚くくらい、めっちゃ可愛い……!ギャップ萌えで今にもやられそうだ……!主に俺の心が……!


 珍しく感情を露わにする白雪課長に、俺は『なんだ、この可愛い生物は……!』と頭を抱える。

ニヤけそうになるのを必死に堪える俺の前で、白雪課長は服の袖から一旦手を離した。かと思えば、ガシッと手首を掴まれ、そのままグイグイと引っ張られる。


「田太来はこっち」


「え?あっ、はい。お邪魔します」


「ん」


 完全に課長のペースに呑み込まれた俺は促されるまま、彼女の隣に腰掛けた。

ニコニコと機嫌良さそうに笑う白雪課長は俺の肩にコテリと頭を預ける。

あまりの急展開に思想が追いつかない俺は一分ほどポカーンとしていた。


 え……えっ?なんだ、この状況……めちゃくちゃ最高なんだが?俺は今日、死ぬのか……?


 神展開と呼ぶべき状況に呆然とする俺はチラリと隣に座る白雪課長に目を向けた。ちょうど、あっちも俺を見ていたようでバッチリ目が合ってしまう。


「ん?なんだ?」


 上目遣いでこちらを見上げる白雪課長は花の綻ぶような笑みを浮かべる。

その破壊力はまさに最強で……早くも俺の理性という名のHPが0になりそうになった。


 くっ……!可愛すぎる……!こんなのただの天使じゃないか……!


 庇護欲を誘う白雪課長の仕草と笑顔に、俺はノックアウト寸前だった。


「田太来、あれが食べたい。あーんしてくれ」


「あっ、はい。分かりました……って、あーん!?」


 当たり前のように『あーん』を強請ってくる白雪課長に、俺は思わずノリツッコミを入れてしまう。

とことん甘えてくる雪女上司を前に、俺はタジタジになっていた。


 い、いいのか……!?これは合法的に許されるのか……!?


「田太来、早くしろ。お腹空いた」


「は、はい……!」


 普段の上下関係が染み付いているせいか、俺は強請られるまま焼き鳥に手を伸ばす。

安全面を考慮し、一旦焼き鳥から串を外してから、割り箸で肉を掴んだ。

『本当にいいのか……?』と悩みながらも、空腹を訴える天使様に箸を向けた。


「ど、どうぞ……」


「ん。ありがとう」


 ハムッと一口で肉を食べた白雪課長は満足そうな顔で口を動かしている。

もぐもぐと咀嚼している姿すら、可愛くてしょうが無かった。

ドクドクと激しく脈打つ心臓を必死に宥めながら、俺は口元を押さえる。


 何で白雪課長が頑なに酒を拒んできたのか、分かった気がする……。酒の入った課長はあまりにも可愛すぎる!その上、無防備!この人の甘え上戸は危険だ……!


 可愛いという感想しか湧いてこない甘えん坊な上司に、俺は『平常心、平常心……』と自分に言い聞かせる。

これは酒のせいだと割り切り、何とか理性を保とうとする中────白雪課長はとろんとした目をこちらに向けた。


「田太来」


「は、はい!」


「今日は……いや、いつも助けてくれてありがとうな。本当に感謝している」


「えっ……?」


 穏やかに微笑んで感謝の言葉を口にする白雪課長に、俺は大きく目を見開いた。

お礼を言われることは今までにも何度かあったが、ここまで心の籠った……いや、違うな。普段の言葉にも感情は籠っている。ただ、それを感じられないだけで……。


「お前はいつも優しくて、周りをよく見ているよな。困っている人が居れば、さりげなくフォローに入ってくれる。それに人当たりもいい。無愛想な私のことも色々気遣ってくれて……嫌でも惹かれてしまった」


 スルリと俺の頬に手を滑らせる白雪課長は桜色の唇から、聞き捨てならないセリフを吐いた。

『勘違いしてはいけない』と思いつつも、俺の胸は高鳴ってしまう。

色素の薄い瞳をじっと見つめ返し、俺はゴクリと喉を鳴らした。


「田太来智久、私はお前のことが────」


 そこで一旦言葉を切った黒髪の美女は桜の花がパッと咲くように美しく微笑んだ。


「────世界で一番大好きだ」


 ストレートに伝えられた愛の言葉に、俺はカァッと赤面する。まだ夏は先だと言うのに、体が火照って仕方なかった。

庇護欲とはまた違う、別の感情が胸の奥から湧き上がってくる。


「あ、あの!白雪課長、俺……!」


 勢いに任せてこのまま言ってしまおうと、白雪課長の顔を覗き込む。

だが、しかし……仕事疲れとアルコールでもう限界だったのか、課長はスースーと気持ち良さそうに寝息を立てていた。

無防備に寝顔を晒す彼女に毒気を抜かれた俺は『はぁ……』と深い溜め息を零し、一旦冷静になる。


 まあ、よく考えてみれば、酔っている相手の告白を鵜呑みにするのも変な話か……酒の勢いでつい言ってしまったってこともあるだろうし。そもそも、才色兼備の課長が俺みたいな平社員に好意を抱く訳ないよな。ちょっと浮かれ過ぎていたかも。


「よし!今日のことは忘れよう!そんで、明日からまた普通に仕事する!」


 全てなかったことにしようと決意し、俺は─────芽生えてしまった恋心・・に蓋をするのだった。

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