『バカの壁』なるものは存在しない

 『バカの壁』という書籍が発売されなんか売れて流行語大賞になった時があった。ざっと読んだか読んでないかの記憶だが、反吐が出そうになったのは鮮明に覚えている。まずタイトルが『バカの壁』である必要がなかった。『関心の壁』や『頑固の壁』とか、なんでもいいのである。なぜなら本で主張されているのは〝自分の聞きたくないことは聞かない状態〟なんだから。

 わざわざバカの壁にした理由って何なんだよ、と俺は吐き気がした。

 意図的でないにしろ結果は明白で、「そういうやつはなんだ」と、浅い読者は他人を見下して優越感に浸ることが出来る。タイトルからそういう想像ができる。買う。そうやって生ヌルイ快感で自慰して気持ちよくなってるザマも相当のバカだ。

 結局一時期やたら使われたものだから、何だかんだ言葉が独り歩きする。今や書籍がブックオフ100円でも見向きもされなくなってるので、「知能の低い奴と話が通じない状態」をバカの壁と思っている人がいる。

 ところが、バカかそうでないかってのは相対的なものである。賢者から見れば、凡人も愚者も確かにバカだろう。しかし多数の人間から見ればバカなんてケースによって現れる現象であって、常に壁が邪魔をするほどバカな人間なんてそう見つかるものでもない。さらにいうなら世の中に賢者とその他大勢はどっちが多いか少ないかと言えば、賢者が圧倒的に少数である。つまり圧倒的に高い壁の中にいるのは賢者のみである。

 なので正しく言うなら世の中は

『愚者と凡人の凹凸平原の中に、ポツンと賢者の塔』

 状態である。他人と交流するためにいちいち大変な苦労をして下りてこなければいけないのは賢者のほうであり、まあほどほどにバカでもあったほうが色んな人とラクに話せることになる。

 賢者のほうから愚者と話したい場合はもっと大変で、言語とか理屈とか損得とか通じない交流をしなければならない。

 そんな無意味なこと賢者はしないだろう、と思うかもしれないがそうはいかない。人間、恋愛しちゃうからである。好きになっちゃうものは本当にしょうがない。この願望からは人間等しく逃れられない。気の毒なハナシである。洞窟の底に降りて行って獣を相手にするような泥沼の交渉でも、ときにはしなければならない。そう思わない人は恋愛で苦しんだことが無いか相手が賢くて助かったか、どちらかなので、神でもなんでもいいが、好きなものにすごく感謝しよう。成就したならなお感謝しよう。

 俺は獣でもいい。でも塔のてっぺんを見透かしていたい。バカにされながら地の底で寝転んで、賢者の壁のてっぺんを見ていたい。


 うわ、今のヤツちょっとかっこいい。よくない? 俺カッコイイ。ああ、これをいわなきゃカッコよくこの駄文は終わったのに。でも格好をつけすぎたらちょっと崩した方が良いと、俺は思っている。

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