第1話

 待ち伏せに適した天気があるのだろうか。

 ……だとしたら今は恐らく絶好の空模様だな。

 学校の体育用具倉庫の陰に隠れながら、足利橙夜は(あしかが とうや)は一人思った。隣の川中亮平(かわなか りょうへい)は彼などに構わず、必死で影に覆われている校舎裏を見ている。

 得物を逃すつもりはないらしい。

 橙夜は空を今一度見上げた。自分の複雑な胸中を何とか誤魔化さないといけない。

 差し当たって彼は一ヶ月前に車にはねられて死んだ愛犬・タロを空中に思い描いた。

 ようやく夏の熾烈な太陽が衰えた気持ちのいい秋晴れだった。一掴みの雲もなく、目を凝らせば宇宙まで透き通って見えるのでは、と馬鹿な考えが過ぎる。それがじわじわと滲んでいく。タロの死は衝撃だった。

 タロは橙夜が小学生の頃に引き取った柴犬だ。背中に大きな斑点があり、一瞬たりともじっとしていない性格をしていた。一ヶ月前、それが仇になった。

 動かなくなったタロを家に持ち帰り、橙夜は泣いた。久しぶりの号泣だった。まだそれを思うと心の空虚な穴を実感できる。

「おい、そろそろ来るかな?」

 亮平が振り返らずに声をかけて来た。

「え……ああ……多分」

 慌てて涙を拭った橙夜は対象の監視を怠っていたので、少し言葉がもつれた。

「おいおい、いい加減にしてくれよ。親友」

 川中亮平の日に焼けた顔が振り返る。

 表情は笑っているが、目はそうではない。

「ごめん、気を付ける」

 思わず橙夜は謝っていた。それが常に彼等の関係なのだ。

「ああ、頼むぜ。俺の一生がかかっているんだ」

 大げさな、と思わないでない橙夜だが、女の子に告白したことのない彼には亮平の心境は分からなかった。特に今は分かりたくもない。

「蒲生さんがいつも帰りに校舎裏を通るって情報、確かなんだよな? 橙夜」

 橙夜は亮平の後頭部に答える。

「うん、彼女は文芸部の活動を終えたら生徒玄関からここまで遠回りをする。校舎裏の花壇が気に……」

「もういい、うるさい」 

 一方的に聞いた癖に、一方的に亮平は遮る。

 彼はいつもそうだった。幼稚園で一緒のねこねこ組になり、それから小学校、中学校、高校と見えない縁で繋がっているようだが、イマイチ橙夜は亮平を『親友』と思えなかった。

 特に今回は決定的だ。

「蒲生さん、俺の一世一代の告白にOKしてくれるかな?」

 足元の小石を蹴っていた橙夜の動きは止まる。胸に不快な黒雲が立ちこめた。 

 ……OKするだろうさ。

 橙夜は内心ため息を吐いた。

 悔しいが川中亮平は女子生徒にモテる。一世一代の告白、なんて嘯いているが、橙夜の知る限り彼は中学高校と何度も女の子に告白し、その度に恋人を作っていた。

 川中亮平は背が高く、短髪の下の顔も整っていて、運動も勉強も足利橙夜より遙かに出来る。

 休み時間に女の子との会話を弾ませ、橙夜なんか目もくれないクラスメイトと連んでいる。

 陽キャで上位カーストの目立つ生徒だ。  

 ……対して自分は……。

 橙夜の心の中の熱が冷えた。

 亮平のように逞しい体もなく、運動も勉強も苦手で、クラスの女子生徒とも話さない。 たまたま亮平の知り合いだからいイジメの標的にならないだけの、カースト最下位だ。 勝敗は決している。

 足利橙夜は激しく後悔した。川中亮平と同じ日高高校に入ってしまったことを……同じ少女を好きになってしまったことを。つくづく悪いことは重なる。

「あ、来た!」

 亮平の声が跳ねた。

 慌てて橙夜もコンクリの体育用具倉庫から顔を半分出す。

 蒲生澄香(がもう すみか)だ。

 長めで顔にかかる髪と物静かな性格の為に目立たなかった少女。

 彼女と初めて出会った時の心臓の高鳴りを橙夜はまだ覚えている。

 図書室だった。

 背の低い澄香が書架の少し高い場所にある本を取ろうと四苦八苦していた。

 タロを失った橙夜は誰かに優しくしたくなっていて、本を取ると彼女に渡した。

 天使のような微笑があった。

 橙夜が恋に落ちたのはその瞬間だ。中学生の頃からあまり女子生徒に相手にされなかった彼だから、それが初恋だ。

 契機に二人は急速に仲良くなった。

 最初は毎回の挨拶。次はどんな本を読んでいるかの紹介。本のどこが好きでどこがダメだったかの激論。そうしていると愛犬を失った傷が癒えるのを感じた。

 澄香は星空のように煌めく黒髪が映える白い肌と、低すぎも尚すぎもしない鼻梁、小さな珊瑚色の唇のとびっきりの美少女だった。

 どうして今まで色気づいた獣のような高校生男子達からスルーされて来たのか分からない。

 それに対して彼女は「私あまり教室で喋らないから」と答えるが、本に関してのこだわりと討論の際は澄香は頑固になり多弁になり、橙夜の意見に納得できないと噛みつくように反論してくる。

 教室で無言でいる姿など、想像も出来なかった。

 足利橙夜はうかれた。うかれてしまった。沈んでいた反動からかうかれすぎた。誰も知らない深海に眠る宝石を見つけたような気分になっていた。本来なら口もきけない高まりにいる女の子と仲良くなれた事が、彼を有頂天にさせた。 

 失敗だった。

 どんな奇縁か同じクラスになった川中亮平に、感づかれてしまったのだ。

「へー、お前が惚れた女かー、どんな奴か俺にも紹介しろよ」

 亮平は最初そんな物言いとにやにや面で好奇心を隠そうともしなかったが、渋々橙夜が彼を放課後の図書館に連れて行いくと、数分で態度を変えた。

「幼馴染みが好きになった女の子を見に行く」と言っていた亮平が澄香に出会うと、「俺が最初に見つけた可愛い女の子に告白する」に変化したのだ。

 その前の橙夜との事情など全く考慮しなかった。

 後は橙夜を情報源として蒲生澄香が毎日下校時に校舎裏の花壇の花の世話をすることを知り、告白のタイミングをそこだと定めた。

 どうしてか彼を阻止する事が、橙夜には出来なかった。

 ……蒲生さんもきっと亮平の方が……。

 等と考えてしまった。タロを失った痛みも蘇っていた。 

 だがそれにしても川中亮平は酷だった。告白なんて何度もあったはずなのに、

「今回は自信ないんだー、橙夜、付き合ってくれよ。親友だろ?」

 と彼を無理矢理引っ張って来た。

 実は亮平の魂胆は分かっている。見せつけるつもりなのだ。

 彼も馬鹿ではない、蒲生澄香と最初に仲良くなったのは自分ではなく足利橙夜だと分かっている。

 だから目の前で告白を成功させ、橙夜に諦めさせるつもりだろう。

 そう、川中亮平は自分の告白が失敗するなんて一ミリも考えていない。

 男子達のそんな思惑を知らず、澄香はいつも通り花壇をのぞき込んでいた。

「よし」と亮平は胸を張る。

「行ってくる」彼は大股で蒲生澄香へと近づいていった。

 俯くだけの橙夜は何故か鼻の奥がつーんと痛んでいる自分を発見した。

 ……どうして僕はこんなに馬鹿なんだろう。

 彼は驚いた様子の澄香に何かを語りかけている亮平の姿を遠巻きに見つめるだけだった。どうしてか再び号泣したくなった。

 ふと、澄香の目が逸れた。一瞬視線が橙夜のそれと絡んだような気がする。

「え!」橙夜は確認しようと隠れている体育用具倉庫から身を乗り出した。

「ファイオー! ファイオー!」

 突然の大声に橙夜はびくりと肩を震わした。

 目を転じると野球部らしき集団がランニングしながら近づいてきていた。

 想定外な状況だ。

 さすがに気まずいのか、澄香と亮平の会話も中断している。

 橙夜が微かに安堵する中、野球部員達は澄香と亮平の奥を通過して行く。

 瞬間。その瞬間だった。

 雷。しかも赤い雷が橙夜の視界を包んだ。

「あえ?」間抜けな声を出してしまう。

 あれ程晴天だったのに雷……しかも見たことも聞いたこともない赤い色の。 

 足利橙夜が考えられたのはそこまでだった。

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