天上デンシロック

海丑すみ

第1話

 成谷響介なりやきょうすけは舞台に立っていた。それは栄光に満ちたように白白ときらめく、輝かしい舞台だった。舞台の向こうでは大勢の観客が手を挙げ、荒波を立てている。嵐の海のように騒ぐ歓声に響介の心は高揚した。そうだ、これからライブが始まるのだ。

 響介はスタンドマイクを握りしめ、舞台の前方へと歩みを進める。歓声は彼の姿にますます湧き上がった。さあ、歌おう。俺たちの伝説がついに始まるのだ。

 息を大きく吸い込んだ瞬間、響介の脳裏にピリピリと甲高い電子音が鳴り響いた。まさか、こんな機械的な音はロックじゃない。

 戸惑いの最中、響介は意識が遠のくのを感じた。あの忌々しくけたたましい電子音だけが鳴り止まないまま、舞台の輝きは失われていく。そして壇上は歪んでいき、彼は足元から崩れ落ちていった。

 そのまま真っ逆さまに、響介は闇の中へと吸い込まれていく。深い、深い闇の中。“これは現実? それとも悪夢?”闇はあまりにも深いのに、電子音は遠ざかる気配がない。それどころか、響介を追うように近づいてきて──


「痛っ‼︎‼︎」

 気づけば彼は闇の底ならぬ、安価なタフテッド製のカーペットに伏せていた。どうやら寝返りを打って、顔を正面から盛大にぶつけてしまったらしい。慣れ親しんだ質感が額や頬をちくちくとつつく感触がする。忌々しい電子音は未だ彼の布団の側で、声高に朝の到来を告げていた。

 ああ、あの輝かしい舞台は夢だったのだ。夢から覚めてすっかり冷えてしまった頭で、響介はそもそも、あのライブは確かに夢としか言いようのない光景だったと思い直した。“俺たちの伝説”などと謳いつつ、その舞台に立っていたのは自分一人だけだった。ボーカリストしかいないロックバンドなんて、あるわけがないだろう。

 ほんのりと寂しさを感じつつ、響介は懸命に彼を起こそうと叫んでいた目覚まし時計のアラームを切った。電子音はようやく鳴り止み、そうして彼はやっと気づいた。アナログ時計の針が、起きる予定だった時刻をとうに過ぎた位置を差している。

「やばい! 今日から初登校なのに遅刻する!」

 響介は慌ててパジャマを脱ぎ捨て──ようとして、途中なかなか外れないボタンに悪戦苦闘をしつつ、人生で二度目に着るブレザーに袖を通した。(余談だが、中学の制服は学ランだったのだ)

 そして母が出勤前に作り置きをしてくれた朝食のトーストを、味わう余裕もなく口に突っ込みながら、学生鞄を乱暴にひったくって家を出た。

 アパートの階段を慌てて降りる途中、響介は玄関の鍵をかけ忘れたことに気づき、またドアへと戻った。悲しきかな、そうこうしているうちに時間は無慈悲に過ぎていく。その後も慌てるあまり、玄関の鍵穴へ間違えて自転車の鍵を突っ込みかけるなどの暴挙に出つつ、ようやく響介は高等学校へと続く通学路に走り出た。

 彼の高校一年の新生活は、こうして波乱な幕を開けることとなった。


 ピシャリ! と教室のドアが騒騒しい音を立てて開いたので、響介は登校初日からクラスの視線をいっぺんに浴びることとなってしまった。慌てるあまり扉を開く手に力が入ってしまったのだが、そんな彼の焦燥も虚しく、教室内は既に朝のホームルームを迎えていた。結局遅刻してしまった。響介は自身の肌に、まるで走ってかいた汗を追うように冷や汗が溢れてくるのを感じた。

「お、おはようございます……」

 しんと静まりかえっていた教室に、響介の小さな挨拶は虚しく行き渡った。注目していた生徒たちは皆笑うでもどよめくでもなく、ただ登校初日から遅刻したクラスメイトを呆然と眺めているだけだった。

「ええと……成谷くんかしら? とりあえず、そこの席についてちょうだいね」

 教卓に立つ担任教師の髪の長い女性が、生徒名簿を見ながら響介の苗字を言い当てた。どうやら、もう既に出席を取った後らしい。入学早々遅刻なんかしたのは、自分だけだったという事実に後ろめたさを抱きながら、響介は担任の指した教室中央の席へと向かった。

 そこは何しろ教室ど真ん中の席だ。ただでさえ集まっていたクラスじゅうの注目をさらに浴びることになり、着席するまでの間にも響介の後ろめたさは増すばかりだった。こんなつもりじゃなかった……本当なら、今頃は輝かしい高校デビューを迎えているつもりだったのに。彼は初めての高校生活に、早くも不安を抱き始めるのだった。


 響介には、ある野望があった。それは幼少期から憧れ始め、中学の頃にははっきり夢として抱き続けてきた、音楽への道だった。響介は母子家庭で育っており、金銭的な余裕がなく、生活も決して豊かとは言い難かった。これまでの彼には、安物のプラスチック製の中古アコースティックギターを、独学でかき鳴らし続けるのが関の山だった。

 だが、今日から通うこの共高ともこうこと共立高等学校ともたつこうとうがっこうには、軽音楽部があると聞いていた。数年前にとあるロックバンドが卒業校として挙げ、当時の軽音楽部が話題になっていたのを耳にしたことがあるのだ。その上共高は自宅アパートから徒歩で通える距離という、響介にとっては願ったり叶ったりの環境にあった。

 中学時代、あまり真面目とは言いがたく内申も良くなかった彼にとっては、共高はやや偏差値の高い難関校だった。しかし彼は音楽への憧れのため、苦手だった勉強を自力で克服し、滑り込みの成績で共高の受験に挑んだのだ。合格したのは奇跡としか言いようがなかった。

 合格発表の当日は、会場で思わず声を上げて喜び、跳ねるように帰宅して母へと報告した。母も息子の門出を大いに祝ってくれた。その日の晩は合格祝いとして、久々に“牛肉だけ”のハンバーグを焼いてもらったのだ。あの日の記憶は未だに響介の脳裏に焼き付いている。入学式の当日なんか、もはや“これは現実かファンタジーか?”などと舞いあがった気持ちまで抱いていた程だ。

 そんなことがあったからこそ、響介はこの春からの高校生活を、新たな転機として待ち焦がれていたのだ。あいにく遅刻という格好の悪いイントロとなってしまったが、音楽でいうなら、まだサビはおろかメロにすら入っていないところだ。かいた汗をハンドタオルで拭いながら、響介は決意を改めた。

「よっ、炭鉱初日のカナリヤくん」

 不意に隣の席から声が掛かった。「タンコウ?」と響介は聞き返した。カナリヤくん、という言い回しは恐らく苗字の成谷のもじりだろうが、炭鉱初日というのは言い間違いだろうか。隣の席の少年は不敵に笑いながら話を続けた。

「そう、石炭鉱山のこと。それは置いといて、初日早々不運だったな。俺は沢根英里さわねえいり。沢根でいいぜ」

 沢根は笑みを浮かべたまま、響介に手を差し出した。やけに堂々とした態度の彼に僅かに戸惑いを感じつつも、響介は手を握り返した。沢根は髪色こそ地毛らしい落ち着いた黒色をしているが、短く刈られた短髪と飄々とした態度からは、どこか軽薄そうな印象を受けた。

「えーと、俺は成谷響介。よろしく、沢根」

 恐らく共高では初めての友人になる人物かもしれない。響介は自分も彼を真似て、ふやけた笑顔を作ってみせた。


 初めて受ける授業は現代文だった。まだ初日というだけあって、教師の自己紹介や授業進行予定の説明が主で、始まった授業そのものは思っていたより難しく感じなかった。響介はひとまず安堵した。

 共高に通うにあたって彼が一番恐れていたのは、自分の学力の低さだった。授業についていけなくて、まさかの留年……などという事態になったら、単身で働いている母にあまりにも面目ない。公立高校とはいえ、高等学校の授業料は、成谷家にとって安いと言える金額ではないのだ。なんとしてでも音楽と勉強を両立させなければならない。

 その後の授業も響介は熱心にノートを取り続けた。隣の沢根からは「思ってたより真面目なんだな」などと揶揄われてしまったが、遅刻の汚名をなんとか返上できたのだろうと好意的に受け取っておいた。「まあね」とあえて笑顔で応えると、沢根は感心した様子で笑い返した。

 昼休みは沢根の方から誘いをかけられ、数人のクラスメイトと昼食を囲み合うことになった。どうやら響介の高校デビューは失敗せずに済んだようだ。『ひとりぼっちで弁当を食べる羽目になったらどうしよう』という不安もあったが、隣の席が交友に積極的な人物だったのは、不幸中の幸いだったという他ないだろう。

 昼食中は初対面の響介のため、改めてそれぞれが自己紹介をすることになった。彼らは皆昨日の入学式の後に、ロングホームルームで自己紹介をしたばかりだったのだが、なにしろあれはクラス一斉の紹介の場だ。当然のように互いに話した内容を忘れていたのだ。

 それでも響介の脳裏には、約一名、一番最後に『特に何もないです』と言い放った椀田律わんだりつという少年だけが──もちろんあまりよくない意味で──印象に残っていた。しかし彼がそのことを話すと、沢根はうっすらと顔を歪めて「あいつとはあんまり関わらないほうがいいぞ」とだけ言い、話題を逸らすように自己紹介を始めた。

 沢根はどうやらコンピューターゲームが好きらしい。沢根と中学の頃から仲がいいという、“部長”というあだ名の少年(沢根曰く、ちょいデブという単語がもじられて、いつの間にか部長になったらしい)は、お笑い芸人に憧れる快活な少年で、手品が得意だった。もう一人の“神絵師”というあだ名の少年はマンガが好きらしいが、壊滅的に絵が下手なことを揶揄されてついたものらしい。

 ちなみに、沢根のあだ名は名前をもじって“エイリアン”とのことだった。あだ名がついた経緯も顔がつり目がちだからという、結構ひどいものだ。互いに蔑称とも言えるあだ名で呼び合う関係に響介は驚いたが、それを皆が許し合っているのだから、彼らは付き合いが長いのだろうと思った。

 響介が音楽が好きで、特にロックバンドに憧れていることを話すと、彼らは口々にどんなアーティストが好きか尋ねてきた。「何のバンドが好きなんだ? やっぱツーロクとか?」「ツーロクはちょっと古くね? ダンプかナッドとかじゃねーの?」「そいつら活動期間長いだけでもっと古いぞ」、盛り上がり始める会話の中、響介は焦った。成谷家は節約のため、普段はあまりテレビを見ない。そのため響介は流行のバンドには疎かった。

「俺の趣味、ちょっと古くさくてさ」と誤魔化すと、沢根がからかうように「よっ、古典主義者! ルネッサンス!」と合いの手を入れてきた。ふざけたセンスだったが、彼なりのフォローが響介には有り難かった。

 響介が唯一憧れ、CDアルバムをラジカセで何度も聞き返し、独学でコピーアレンジまでするようになった伝説のロックバンドは、今から四十年以上も前に結成された海外のグループだ。彼が“響介たちの英雄”のことをはっきりと憧れるようになった所以は、母親の影響からだった。

 彼の母の世代では、伝説のロックバンドは第二次ブームを起こしており、母はテレビCMなどのタイアップで彼らの音楽を何度も聴いて知ったのだという。その独創的でいて背中を押すような熱いロックが、母が精神的に参った時に何度も励ましてくれたのだ。

 実際、父の不倫がきっかけで離婚した後、母はことあるごとに英雄の曲を鼻歌で歌うのが習慣になっていた。“俺たちは皆が勝者、負け犬なんかに構う暇はない”──彼女は辛い時にこそ、その歌を歌って自らを鼓舞していた。母は、音楽で救われていた。

 だからこそ、あの曲を作ったロックバンドは響介にとって伝説と呼ぶに相応しく、あの歌を歌ったボーカリストは、英雄と呼ぶに相応しかったのだ。最もその英雄は、響介が生まれるよりもずっと前に、若くして生涯を終えてしまったらしい。生身の英雄にはもう会えない、それだけが残念だった。

 響介は自分の音楽のルーツを思い返し、気づけば「軽音楽部に入って、そこから本気で音楽の道を目指そうと思っていたんだ」と自らの胸中を明かした。しかし次の瞬間、そんな彼に突きつけられた事実は酷なものだった。

「成谷……知らなかったのか? 共高の軽音楽部、一昨年にはもう廃部になってんだぜ」

 響介はその言葉を聞いた瞬間、ショックのあまりまるで毒ガスを吸った小鳥のように、思わずヒュウと声を引き飲んでしまった。

「うそだろ……いや、でも、部活はなくてもエレキギターやドラムセットは残ってるよな?」

 青い顔で縋るように言う響介に、沢根も、部長も、神絵師も、頭を下げて残念そうに首を横に振った。なんということだ、去年の時点で使わない楽器は別の高校へと引き渡されてしまったのだという。ドラムセットだけはなんとか残っているが、それは吹奏楽部が使うものであって、貸し出しの許可は基本的に降りないらしい。響介は思わず頭の中で頭を抱えた。これから始まるはずだった音楽への道が、これでは完全に閉ざされてしまったではないか。

 今朝見た悪夢のように、響介の心は奈落の底へと落ちていくかのようだった。せっかくここまで努力したのに、せっかく母に授業料を負担してもらったのに、音楽も勉強も頑張ろうと意気込んでいたのに、たった今その音楽が……響介の気が遠のいていく。

 そんな彼の反応に気が付いたのか、沢根が響介の肩を叩いた。「大丈夫か?」と聞かれ、響介はなんとか振り絞るようにして「大丈夫だ」と答えた。しかし、実際は大丈夫とは程遠い状況だった。

 響介には中学の頃から、はっきりと友達と言えるような関係の、いわゆる親しい人物がいなかった。当時は父に裏切られたショックから、学校は休みがちで、家でひたすらCDを聴くか、一人で人気のない近所の河川敷へと赴き、歌いながらギターを弾き鳴らすのが趣味だった。交友関係の浅い彼にとって、軽音楽部に入ることは、音楽への道の第一歩として重要なものだと踏んでいたのだ。

 何しろ、ロックは一人では演奏できない。少なくとも、ボーカルとリードギター以外にも、ベースやドラム、場合によってはキーボードやシンセサイザーの担当も要る。対人関係の薄かった自分に、恐らく一からバンドを組む力はないだろう。その上、自力でエレキギターにアンプやエフェクターを揃えるお金もない時点で、これからどうすればいいのだろうか。それともやはり音楽は諦めて、単身の母のためにも安定した道を選ぶべきなのだろうか。

 内心では頭が真っ白になってしまっていた響介だったが、その場は適当に「俺ってせっかちで抜けてるんだ」と自虐的な冗談を交えて、なんとか切り抜けた。

 そう。切り抜けた、はずだった。




「なあ成谷。軽音部の件は残念だったけど……いっそロックに拘らない音楽、ってのはどうだ?」

 放課後、話しかけてきたのは沢根だった。沢根は相変わらず笑みを浮かべていたが、それは今朝見たような不敵な笑顔ではなく、どちらかというと優しげな印象を受ける微笑みだった。

「どうしてもアナログなロックじゃなきゃ嫌っていうんなら、無理強いはしないけどさ。最近は電子音楽っていうのもあって、作曲も作詞も編曲も一人でして、ボーカルは電子歌姫に歌わせて、一曲まるごと全部一人で作っちまうようなアーティストも多いんだぜ」

「なんだ、そんな音楽もあるのか?」

 お先真っ暗の状況だった響介にとって、“一人で全て作ることのできる音楽”というものの存在は興味を引いた。沢根曰く、ボーカルは合成音声の電子歌姫が歌い、リードギターもベースもドラムも、これまたパソコンで合成された電子の音が鳴り、それら全てを一人の人物が、譜面を描くというより、プログラミングをするように作るのだという。

 厳密に言うとエレクトロニック・ミュージックというジャンルらしいが、慣れない横文字の名前はたちまち響介の耳をすり抜けていってしまった。響介は初めて文明開化に触れた、明治時代の人の気持ちがわかるような気がした。

 しかし、電子音楽を聴くにはインターネットが必要だ。成谷家にはインターネットに触れられる環境がほとんどない。携帯電話こそ持っているが、時代遅れのフィーチャーフォンな上に、通話とメール以外の機能はほとんど使えないような格安プランに入っているのだ。

 すると驚いたことに、沢根は複数台持っているというスマートフォンのうち一台を、流行に疎い響介のために気前よく貸してくれた。余談だが、逆に令和の高校生がフィーチャーフォンを持っていることに、沢根の方も「生きた化石!」と発言する程度に驚いた様子だった。

 彼曰く、貸したスマートフォンは“サブ端末”というものらしく、SIMが入っていないとかどうとか、Wi-Fiというものがなければネットには繋がらない、などの制約があるらしい。しかし、とにかくアパートの近所のコンビニに行って、フリーWi-Fiとやらを使えばネットは見られるとのことだ。フリーWi-Fiを使うための設定や、実際の使い方も沢根が懇切丁寧に教えてくれた。

 気前の良すぎる沢根に響介は逆に不信感を抱きかけたが、沢根の「こんだけ貸したんだから、いつかメジャーデビューしたら俺の名前を恩人として出してくれよ」という一言で、全て納得がいった。沢根は良くも悪くも正直なやつなのだ。


 帰宅後、響介は早速アパート近くのコンビニへと向かった。沢根曰く『コンビニでWi-Fiを使うときは、ガムとかでいいからなんか買うのがルールだぜ』ということらしいので、響介は一番安価だった駄菓子のフーセンガムを購入した。

 数十円のガムで店内に長時間居座るのは少々気が引けたが、幸いイートインの席には誰もいない。混雑していないのを良いことに、響介は早速一番奥の席へと座り、沢根に教わった通りにスマートフォンを操作した。もちろん、買ったガムも口に入れた。

 久々に食べたフーセンガムは、フルーツ味のはずなのに、酸味が感じられずひたすらに甘かった。一方沢根に教わった音楽アプリとやらは、響介が思っていたよりも簡単に起動した。勢い余って店内で音楽を鳴らしかけ、響介は慌ててイヤホンをスマートフォンへと差し込んだ。

 沢根が普段から聴いているのだろうか、イヤホンを耳に入れると、早くもシャカシャカとした電子の音楽が聴こえてきた。どうやらこれが彼の言っていた、エレク……なんとかというジャンルの音楽らしい。響介は洋ロックバンドのファンにも関わらず、英語には疎かった。

 電子音楽と聞いて響介が想像していたのは、昔のゲームが鳴らすようなピコピコという軽快な音楽のみだった。しかし響介の耳には、そんな想像を凌駕する様々な音が聴こえてきた。

 空想科学を連想させる電子音は勿論のこと、その上に本物のようなベースやエレキギターの音に、これは最早何の音だろうと思うほど凄みのある重低音が響く。さらにそれらへと重なるように、時折バイオリンやピアノなどの美しい旋律が混ざってくることもあった。まるでオーケストラのような様相だが、それが全てコンピュータによって合成された音楽だというのだから驚きだ。

 思わず「すげえ」と声を上げてしまい、店内で独り言を発してしまった己を慌てて恥じた。幸い、客がおらず暇そうな店員にさえも、響介の驚嘆は聞こえていなかったようだ。

 気づけば響介は、そのエレ……なんとかという電子音楽に、すっかり心を奪われていた。電子音楽の世界は、何より多種多様なのが魅力的だったのだ。テンポの早いポップな曲もあれば、しっとりとしたバラードも存在する。かと思えば激しいメタルのような曲も聴こえてきて、その多様性は響介の興味をますます惹いていった。響介はアプリにおすすめと書かれている様々な音楽を、手当たり次第に再生した。

 時折、明らかに人では発せないと思えるほど高低差のある曲や、または逆に感情を消したように平坦な歌声が聴こえてくる。どうやら沢根の言っていた電子歌姫とやらは、この機械的な声のことらしい。

 その電子の歌声からは、感情的なこぶしやスクリーム、息遣いといったものは聞こえてこない。それだけが少々残念だった。しかし代わりに彼女たちは、人間ではおおよそ不可能であろう息継ぎのない歌や、何を歌っているのかわからないほどの早口なフレーズも、易々と歌い上げていく。そしてその声質の未来的な世界観もまた、響介の好奇心を惹いた。

 おすすめ、おすすめのおすすめ、そのまたおすすめ……と音楽から音楽を渡り歩くうちに、響介は一段と興味を惹く一曲へたどり着いた。その曲はイントロこそポップに始まり、近未来的な音を奏で、電子歌姫が歌い始める……という“ありがち”なものだったが、イントロが終わった途端に違う曲に変わったかのような転調をする、不思議な曲だった。

 テンポはめちゃくちゃになり、電子音達は乱れはじめ、さらには車のエンジン音や路中の雑踏だろうか、騒音が混ざって音楽を掻き乱していく。これはもう音楽というよりただの雑音ノイズだ。そう思いかけたが、響介は騒音の中から僅かにピアノの音を聞き取った。

 その小さなピアノの旋律を聴きたくて、響介はスマートフォンの音量を上げた。クラシックだろうか、聞き覚えのあるメロディーだった。しかしそのメロディーすらやがて激しく乱れていき、ピアノの奏でる音は滅茶苦茶なものになっていく。もはやピアノを弾くというよりは、打楽器を叩くかのような勢いだ。

 そのうちあれだけ邪魔をしていた雑音は、大暴れをするピアノに恐れをなしたのか、うっすらと遠ざかっていく。そして太鼓のように暴れていたピアノは独り取り残され、その後はついに弾き方を忘れられてしまったかのように、弱々しい不協和音を奏で始めた。

 響介はその曲を聴いて、まるで音楽が壊れていくかのような衝撃を受けた。とてもじゃないが、前衛的すぎて曲としての完成度が高いとは言い難い。しかし、その“崩壊していく音楽”には響介の興味を引く何かがあった。その興味の正体が何なのかは、今の響介にはまだわからなかった。

 響介は曲名を見た。『永訣』と書かれている。どこかで見たことのある単語だ。しかし、その単語の意味が何だったかまでは思い出せない。自らの内からまるで泉のように湧いてくる興味の正体を知りたくて、響介は永訣という題が付けられているその曲を、もう一度聞き返した。

 ありがちなポップスのイントロが始まる。電子歌姫は何かを繰り返し歌っている。何度も再生するうちに、『私がいつか“トソツノテンノジキ”となり……』という部分がかろうじて聞き取れた。その言葉の意味はよくわからない。

 その後はやはりあの雑音がやってきて、急に取り乱したように音楽は滅茶苦茶になる。まるで突如、都会の交差点のど真ん中へと放り出されてしまったかのようだ。大勢の雑踏に揉まれながら、電子歌姫は歌うのをやめてしまう。だがその雑音の奥では、ピアノがひっそりと小さく鳴っている。

 響介にはそのピアノが、まるで『聴いてくれ』と話しているかのように聞こえていた。だから響介は音量を上げたのだ。多勢の雑踏の中で、僅かに主張し続ける旋律を聴きたくて。理由はわからないが、響介にとってその小さな旋律は、何故が胸を締め付けるような切なさを孕んでいるように感じたのだ。

 しかしピアノの奏でる旋律は、だんだん過剰に激しいものへと変化していく。響介ははじめ、このピアノは狂ってしまったのだと思った。だが繰り返し聴くうちに、打楽器のように叩かれるピアノの音は、狂った叫びというよりは、苦しむ悲鳴のように聴こえてきた。

 ピアノは苦しんでいる。まるで何かの病にあえいでいるかのように。それが一体何の病なのかは、やはり響介にはまだわからない。そして雑踏は引いていく。これもきっと、悲鳴をあげるピアノなんかに恐れをなしたわけではない、と響介は思った。大衆は、うまく奏でられないピアノに興味をなくして引いていったのだろう。

 引いていく雑踏を惜しむかのように、ピアノはもう一度メロディーを奏でようとする。しかし、病魔に侵されたピアノはもう不協和音しか鳴らせない。そして最後に独りぼっちになってしまったピアノは、ついに弾くことをやめてしまった。響介は、『ピアノが死んでしまった』と思った。

 この曲は、きっと何かのメッセージなのだ。意味を完全に理解したわけではないが、この曲には何かを伝えたいという“熱”がこもっている。その熱さだけは、響介にしっかりと伝わっていた。

 響介は作曲者の名前を調べることにした。この曲が、というよりは、この曲を作った人が──つまり、このメッセージを発信している人が──どんな人物なのかを知りたくなったのだ。

 アーティスト名には“溶計P”と書かれている。アプリで検索すると、彼(または彼女かもしれないが)のページが現れ、彼がこれまで作ってきた楽曲が一面にずらりと並んだ。

 沢根の貸してくれたスマートフォンの音楽アプリでは、“いいね”の数の多い順に曲が表示されるらしい。いいねとは、沢根いわく、気に入ったものへ贈るスタンプのことだ。つまりは大衆からの賞賛的な意味を持つ、勲章のようなものだろう。

 しかしその、いいねの数の多い順の一覧の中に、先程の“永訣”の字はなかった。やはりあの曲は前衛的すぎて、あまり人気はないのだろうか。

 響介はものは試しにと、溶計Pの人気のある楽曲を上から順番に聴いてみた。しかし他に永訣のような尖った曲はなく、あの曲中でいうイントロのような、わかりやすいポップスのメロディが続くばかりだった。それらは良く言えば王道で完成度の高い楽曲だったが、響介にとっては永訣のような熱は感じられないもののように聴こえた。

 ふと、響介はあることに気がついた。ピアノだ。あの印象的なピアノは、溶計Pの他の曲には使われていないようだった。大衆的に人気を集めているポップスの中で、あれだけ尖っているにも関わらず、ひっそりと埋もれている永訣は、まさしくあの曲中のピアノに似ていた。

 そして他の曲を聴いたことで、響介はもう一つ気がついた。打ち込まれている電子音楽の中で、永訣のピアノだけが、恐らく生演奏の音源だったのだ。あんな打楽器のような無茶な弾き方は、例え令和の時代の技術力をもってしても、合成音声なんかでは表現できないだろう。

 しかし、もしあの演奏が溶計P本人のものなら、あんなにピアノを弾くことができる人物が、なぜ電子音楽のポップスというジャンルに拘ったのだろう。そして永訣だけは、何ゆえにピアノを前面に押し出した、前衛的な曲だったのだろうか。響介の中にふと疑問が浮かんでくる。それはまるで心の中に、喉に刺さった魚の小骨が残るような感覚だった。

 そしてその小さな骨の引っかかりは、その後一晩を過ごしても取れそうにはなかった。


 翌日、響介は沢根にスマートフォンを返しながら感想を伝えた。彼から借りたアプリで得た、多種多様な未知の音楽との出会いは、思わず夕方から日が暮れるまでコンビニに居座ってしまうほど有意義なものだった。とはいえ、サブ端末いえど人のものを借り続けるのは流石に忍びない。

 響介はあのアプリを気に入ったからこそ、自分のスマートフォンを買いたいと考えていた。せっかく高校生になったのだ。アルバイトを始めて、自分の稼いだ金銭で音楽の視野を広げたい。そう伝えると、沢根は「良いバイト先を知ってるぜ」と嬉しそうに応えた。

 夏休みの時期に、毎年短期間で高収入の泊まり込みアルバイトを募集している観光地の店があるらしい。沢根曰く、収入がいいぶん死ぬほど忙しいらしいが、響介にとっては忙しさなど大した問題には感じられなかった。

 それより響介は、昨晩からずっと喉奥に引っ掛かり続けていた、小骨のほうが気がかりだった。沢根に溶計Pというアーティストを知っているか尋ねると、彼は「あぁ、あの!」といかにも既知の様子で手を叩いた。小骨がぐらつく感覚に、響介は前のめりになりながら詳細を伺った。

 沢根が言うには、溶計Pは有名というほどではないが、知る人ぞ知る電子歌姫アーティストらしい。噂によると、なんと彼は現役当時に中学生で、作曲と作詞、編曲と調声を全てこなしていたのだという。

 あの曲を作った人物が、自分よりも年下だったことに響介は驚いた。しかし、永訣という曲について尋ねると、それ以上に驚くべき事実が返ってきた。

「あれが気に入ったなんて珍しいな、成谷。あの曲は溶計Pの最後の曲だぜ」

「最後の曲って?」

「言葉の通りだよ。あの曲を最後に、溶計Pは活動停止を宣言してる。一昨年だったかな、もうSNSすらアカウントを放置して、何にも更新されてないんだぜ」

 驚くと同時に、響介はむしろ納得した。永訣に感じた、あの『ピアノが死んでしまった』という感覚は、きっと正しかったのだ。ピアノが死んでしまったように、溶計Pという人物は活動を辞めてしまった。その理由が、恐らくあの曲のメッセージに込められているのだ。

 しかし響介は、未だにそのメッセージが読み解けないままだった。ぐらついた小骨はむしろ深々と響介の喉元へ刺さっていく。中学生があんなに天才的な作曲の力を持ちながら、何故音楽を辞めてしまったのだろうか。あんなにピアノが上手いのに、最後の一曲までピアノを隠していた理由は何故だろうか。深まる謎は、むしろ響介を生い茂る未開の地へ誘い込むかのようだった。

 まさしく、真相は藪の中だ。

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