グラスとロザリオー2


 少女グレイスは、他人の物を盗る事にためらいのない子供だった。十歳にもならぬ齢の時から、気に食わなければ大人であろうが軍人であろうが構わず噛みつく悪童だった。


 半端な奴が嫌いだ。軍の庇護下にある町で、与えられた平和と物資にすがって生きるなんて、息苦しくてたまらなかった。それで満足している奴らとも交わりたいと思えなかった。


 そして、そんな暮らしを強いる鉄人形どもは、ぶっ倒してやりたくて仕方がない。


 私は、この世界で生きている。私を見ろや、くそやろうども。




「それはきみのものだ」




 保安兵に縛られた少女を見て、彼はそう言った。


 教会の司教宅から錫のグラスを盗んだ。たちまち少女は捕縛され、広場の鐘楼前で見せしめとなって民衆に罵詈を浴びせられていた。


 錫のグラスは、司教の子息が十三歳を迎えた祝いに王都から贈られた物だった。町でも祭典が催されたゆえ人々の記憶に新しく、発見まで時はかからなかった。


 少女の悪名は町中に評判である。群衆には十歳の子供を私刑にかけろと石を構える者すらも。誰もが色めきたっていた。


 ――それはきみのものだ。


 司教の子息が、少女のもとへ出てくるまでは。


「僕はエーデル。教会の子で、錫のグラスをきみに譲った贈り主だ」


「あんたが神の御子ちゃん? 今の話はどういうことよ」


 僕は父の息子だよ、と言って彼が微笑を浮かべると、揺れた金髪の下に大きな火傷跡が見えた。戦火を逃れたクチであろうか。


 だが、それが気にならないほど綺麗で穏やかな碧眼を持つ、美しい顔立ちの少年である。エーデルは縛られている自分と向き合い、やさしい声で話をつづけた。


「このグラスは、僕がきみに昨晩あげたものだよ。忘れたのかい?」


「はぁ、何を言って」――エーデルの瞳がグレイスを見た。お伽話の泉のような澄んだ碧色である。言葉にならない力で塞がれたかのように、反問の声は途中でしぼんでしまう。


「きみは僕の友人だ。友に心を尽くして贈り物をする事の、どこがおかしいと言うのだろう」


 観衆がざわめく。少年はまるで、周囲にあえて聞かせるように声を高めていた。


「僕にはなぜ、きみが縛られているのか分からない。それに昨晩きみは帰りを急ぐあまり、こんな物まで忘れて行った」


 懐から取り出した物を見たその瞬間、グレイスは息が止まるような思いがした。銀に輝く十字架のロザリオ。中心には、陽炎のような揺らめきを映した、黄色の珠がはめ込まれている。


 黄玉のロザリオ。


 ……裏街道との与太話で耳にした事がある。


 この世界のどこかを巡る、王都のとある行商が売り歩いている装飾シリーズの一つ。質素なデザインでありながら非常に高価な物として、その筋の者に知られている。そんな希少な物をこの少年が持っていたとは。


 本物か……? 金色の光を反射させる珠が揺れる。そして少年の手にある十字架が、少女の首にかけられた。


「僕の宝物だよ、大事にしておくれ」


 一連の言動に周囲から強いどよめきが湧きおこった。当たり前だ、司教の子供が盗人を庇おうとしている事など、誰の目にも明らかだ。更に許すのみならず自らの宝物まで与えている。


 何も言えないグレイスにエーデルは瞳の温かさを絶やさなかった。そしてくるりと後ろへ振り向き、両手を広げた。


「さあみんな、どうぞ石を投げておくれ」


 高らかなエーデルの言葉に大人達が言う。


「少年に罪はないだろう、それでは君に当たってしまう」


 それに対して、エーデルは答える。


「いいや、僕はとても罪深い。生きるために鳥や獣の命を奪ってそれを食べ、木々を燃やして暖を取る。そして僕はまだ子供で力も弱いから、体が大きく力の強い大人達に護ってもらっている。そんな頂き物ばかりをしている僕が、立場をわきまえることなく、誰かを責めることなどできようか。錫のグラスは彼女の物だ。彼女に石を投げるのならば、僕へも同じように当てて欲しい」







「どうして私を助けた」


 路地裏の石畳にへたり込み、首にかけられたままのロザリオをつまみ上げる。よく分からない困惑と異物感が胸の中に綯い交ぜられていた。エーデルは先ほどの居住まいからだいぶ崩れた、くしゃりとした笑顔を見せる。


「きみが困っていたから」


「それだけで? 私はあんたと初めて会った」


「知らない人だからと言って見放そうとは思わない」


「私は町の嫌われ者、薄汚いドブネズミ。庇って何の得がある」


「僕がそうしたいから動いただけさ、損得の気持ちはないよ」


「あんたの物を盗んだ!」


 グレイスは立ち上がった。薄暗い路地の隙間に少女の声が響き渡った。グレイスは胸に怒りがむらむら湧くのをこらえ切れない。


 恥だ。今、少女の心をさいなんでいる怒りとは、見ず知らずの少年に理由もなく助けられてしまった、己の力不足による恥である。


 他人の物を盗んだ。本当なら血の滲むまで殴られ、罵倒されてしかるべきことだ。同じ事をして捕まった人がどんな目に合ったのか知っている。なのに彼は代償を請うこともなく、私を許し、群衆の前で友人と呼んだ。それでエーデルが得るものは何だ?


 あるとすれば嫌われ者の汚い少女が友人だと言う、汚名である。


 しかし幼い少女にそんな感情の機微を彼に伝えられるほどの語彙はまだなかった。自分に渦巻く複雑なもや・・を表す手段は、大きな声で怒鳴るだけ。それさえも恥に感じて更に大きな声を出したくなる。でも……目の前にいる少年は、大声を出したくらいで怯える様子は見せなかった。


 相手を指差すばかりで言葉を継ぐ事さえできずにグレイスはただ顔を赤くした。そもそも自分がなぜこんな大声を出しているのか理解できていなかった。胸が苦しいのだ。なにかを拒まずにはいられないのだ。


「きみは大人になったら何になりたいと思ってる?」


 ゆるい笑顔と、不意の問い。


 グレイスは鼻白んだ。


「え?」


「きみの話を聞かせて。僕はきみが知りたい」


「私を知ってどうするの」


「んー……まず、僕はきみを嫌いだなんて思っていない。きみの話を聞きたいんだ」


「私を、嫌いじゃない?」


「うん。だって僕ときみは初めて会った」


 そう言ってエーデルは照れたように頭をかいた。さっき彼に対して言った言葉だと、少しの間をおいて気づいた。そんな風に言葉を返された事もなかったから、エーデルが醸す空気に驚かされる。


「だからさ、教えて、教えて。きみがなりたいのは?」


 グレイスの気持ちを知ってか知らずか、柔らかい声を朗らかに少年が言葉を押す。


 一瞬だけ、口ごもる。


 私から言葉を引き出そうとするなんて、今まで誰かしてくれた事があっただろうか。私の言葉、行動の意味を問いかけてくれる人がいただろうか。近くで見る少年の碧眼はまるい空のような感じがしている。今まで触れてきた人とは違う。


 唇の力を抜くまで数拍の間をとり、いつも思っている事を口にする。


「思うままに生きたい」


「たとえば?」


「誰にも邪魔されないようなやつ」


「とすると……僕が思いつけるのは、王様か盗賊くらい」


 思わずエーデルの目を見た。


「教会の子がそんな事言っていいの」


 彼がいるのは新興宗教の類だが、古くから続いている巨大宗派の流れを汲む教会らしい。町に留まる兵士や住民に信心深く祈る者が多いものの、彼の父親である司教がキヤルナで持つ力は、筋を辿れば王都の大教会に至るものだ。


 グレイスの盗んだグラスが王都より届いた品であるのがその証左に他ならない。王を阿諛あゆするべき立場。それなのに彼は「王様と盗賊」を同列に並べる。大人に聞かれでもしたら今度は彼が逮捕だろう。


 正直な驚きにエーデルは笑う。


「神様は冗談をお許しなさるよ」


「虫が良すぎる」


「かもしれない」


 にべもなく突いて出た言葉をエーデルはおかしそうに頷いた。


「さっきの鐘楼広場での事。司教の子である僕が信心深い話をしたから、多くの人が感銘を受けてきみを解放したのだろう。そう思うかい?」


 一概にそうとは言えない。首を振る。


「さすがだね。よく物事を見ている」


「嬉しくない」


「感想だよ。きみの感じているように、僕の家は王都とつながっている。僕に石を投げる事がどんな意味になるのか、みんな知っているだろう。辺境にある軍隊の町はこれだからね」


 エーデルは両手の小指をぴんと立てて、交差させて見せた。王政と軍の蜜月を表すハンドスラングだ。


「そもそも、グラスについての当事者はきみと僕の二人だけ。外野が私刑なんてしようものなら責められるのは治安を保てなかった〈公〉の立場にいる人さ。僕があそこで訓話的な言動をする事は、すべてを美談として収める一番の手段だと考えた」


 さきほどから思うがこのエーデルという少年、理屈っぽい部分はあるが、意外と陰陽の分別がついている。たしかにエーデルの演説を聞いたあとの保安兵が民衆を散らす姿は、やけに精勤している様子だった。


「……で、結局あんたは何が言いたいの? まさか親の七光りで人に言うこと聞かせるのが気持ちいい変態くそやろうって自己紹介? 助けてくれたあんたをそんな風に思いたくないけど」


 それを言うとエーデルはいよいよ腹を抱えて笑い出した。目には涙さえ浮かべている。


「きみは優しいな」


「泥棒だよ」


「僕はきみの未来に興味がある」


「だから何なのよそれ。私はあんたと違って神様なんて信じてないよ」


「どんな思想や生き方をしていようと、神様はお見守りくださっています」


「…………」


 これ以上の反駁はやめようと思った。事実として彼は自分を救ってくれた。その手にさえ噛みつこうとするのなら、いよいよ恥知らずとして自分の情けなさに際限を失いそうになる。


 ここが落とし所だ。エーデルという少年は、清濁併せ吞みながらなお人の善性を語る者。教会の道義をキヤルナの人に浸透させるための体現者として、本気で〈善〉を信じているのだ。


 己の望みを満たすためなら他者を平気で傷つける悪人とは、根本的な世界観が違う。


 だが……少女グレイスは考える。誰が望んで悪になろうと思うのか。生まれついての悪人などいると言うのか。悪とはそもそも何なのか。


 私は、私の未来が欲しいだけだ。人に凄いと思われたい。人を認めさせる力が欲しい。それを果たすための環境が手の届く場所に無いのである。小さな町の閉塞感に倦まされ、そして行き場を失った熱の棘が、未来ではなく他人に向いたのだ。


 幼さと無知ゆえのジレンマが、負の螺旋に、嫌われ者の烙印を押し付けていた。


「これまで盗みを犯した数を覚えているかい」


「二十回以上はしてる。縛り上げられたのは今日が初めてだけど」


「それまではすべて成功していたわけなんだ」


「はじめは失敗続きだった。けど壁を登って、屋根伝いに走れば大人は諦めるってわかった。壁登りが得意なんだ。暇な時はよく町を見下ろしてる」


「すごいね。なのにどうして人の物を盗ろうと?」


「食べ物が欲しくって。最近は追いかけっこが楽しいってのもあるかも。店の人が投げてきた石が耳の横を通り過ぎたときなんか、胸がひゅんとする」


「すごい行動力だ。相手は必死で追いかけているだろうに、きっときみにしか出来ない」


「私がもっと大きくなったら、私をこんな町に押し込めてる鉄人形をやっつけて回るんだ。よくも私の邪魔をしてくれたなって」


 ――あれ?


 喋りながらグレイスは、いつの間にか口数が増えているのに気づいた。


「じゃあ、きみは軍や保安兵団に入りたいんだね?」


「いいや、私は自分の軍を持つんだ。自分で自分を守れるくらい強い仲間を作ってね」


「それがきみの夢なのか」


「私が描く未来には、王にも機械にも、どんな強い敵がいようと誰にも縛られない自由がある。だから私はこんな所でくたばりたくない」


 拳に力を入れる。生まれた時から周りの人は皆、機械に怯えて暮らすのが当たり前になっていた。王が遣わした軍に守られたこの町でも、防壁を出入りするのは軍隊や配達士をはじめインフラストラクチャ関連の人間ばかりである。町の人は誰も外に出ようとしない


 私は狭い場所に収まる器の人間ではない。外で自由に生きるんだ。


 グレイスの瞳に紫玉のきらめきが走る。ロザリオを提げた胸が熱い。


「錫のグラスを売りなさい」


 からりとした声が耳に響く。


「えっ?」


 目を見開いた。エーデルは少女の手を取って、錫のグラスを握らせた。


「いいの、売るのよ?」


「誰にも恐れずへつらわず、自分の望みのために生きる。きみが拓く世界を僕は見てみたい」


 手を包んできた少年の手は温かった。人に手を触られたのは初めてだった。


 グレイスはふと考えた。


 エーデルの言葉の裏にあるものは……自由への憧れなのではないのかと。


「僕は大人になったら教会を継ぐ。そして王都の大教会で、王様と神様にこの魂を捧げるつもり」


 真摯な声音である。彼はすでに自分の未来が分かっているのだ。


「そのとき僕はきっと王都にいる。だからきみも世界を旅した土産話を聞かせておくれ」


 王都。そこは世界で最も意のままに振る舞う者が暮らす場所。人類王とその一族。グレイスが嫉妬を感じているのは、ただ彼らの存在である。けどグレイスはそれを彼に話すのはなんとなくの遠慮がすでに芽生えていた。


 そして同時になんとなく理解した。彼はもしかすると自身の望みを私に託そうとしているのではないか。


 王都に従順であって初めて得られる庇護のもとで、民衆を救わねばならないジレンマ。想像だが、エーデルもきっと自由に生きてみたいのか?


 しかし彼が語らぬのであればこちらから問わないでおこう。思うことがあるのなら、勝手に託しておけばいい。


 他人の思惑よりも自分の感情に心がゆく。私に託されたもの、期待だ。期待に上向く何かを感じている。何だろうか、されて嫌な気持ちがしない。


 なぜかむず痒くなる頬を半分歪め、代わりに肯定とも受け取れるような悪態をつく。


「お返しに説教されるのは御免だね」


 彼はくしゃりとした笑顔を再び浮かべた。頬の火傷跡が夕陽に照らされ赤かった。


「友人として贈る。それはきみの物だ」


「……あのさ、きみって呼ぶのやめてくれない」


 エーデルの手を振りほどき、錫のグラスを両手に収める。彼の姿を視界から外して、強く言う。


 善意。グレイスはやはり、彼が持つ得体のしれない心のありように困惑する。この強いられた世界で柔らかさを保つ人としての姿が、おそろしいほど眩しく見えた。


「じゃあ、きみの名前を教えておくれ」


 遠くの広場で鐘楼の釣り鐘が鳴る。少女は憮然とした顔をしつつも、眩しい方に目を向けた。


「私の名前は――」







 錫のグラスは、路地裏界隈で流れの商人に売りつけた。


 代わりに、本を手に入れた。


 世界で生き抜くための術を頭と体に徹底的に沁みつけた。錫のグラスはいくつかの本を得るのに十分な価値を持っていた。ロザリオは売らずに身につけていた。


 ……いつか、世界を旅してもっと良い物を見つけた時に、いらなくなったと突き返してやる。


 あれから何度、夕日が沈むのを見届けただろう。


 十一歳を迎える前の晩、グレイスは偶然町に潜り込んでいた野盗の頭に、自分を売った。


 ――あんたの役に立ってやる、私を育てろ。


 人がみな眠りに落ちる夜深い時、グレイスはカタギ時代の思い出を教会堂の片隅に埋め――


 ――そして少女は誰にも知られず町を出た。

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