内田善吉(6)

 記憶と言うのは時に残酷な物だ。歳と共に、つい昨日食べた夕飯のおかずが思い出せなくなるのに、心に刻み付けられた記憶は何十年経っても残っている。そしてちょっとしたきっかけで、つい今しがた起こった事のように甦る。


 どうして……。婚約者と別れて何十年ずっと一人で生きてきたのに……。死ぬまでもう後十年も無いだろうに、なぜ心静かに一人で生きられないのだ。



 頼子に拒絶された日から、善吉は何もする気が起こらず、ただテレビを眺めているだけで過ごした。


 このまま何も考えず、ボケて死ねれば良いのに。


 善吉はそう思ったが現実は厳しかった。思い出すまいとしても、過去の辛い記憶は甦り善吉を苦しめた。


 ちょうど一週間経った日の朝。善吉は久しぶりに「真実の世界」にログインした。何か目的があった訳ではない、何もしない事が苦痛になったからだ。


 善吉は釣りに出掛けた。今まで通りの坦々とした日々を取り戻す為だった。


『どうしたんだ? しばらく顔を見せないで』


 しばらくすると、繁が隣に来て釣りを始めた。


『ちょっと体の調子が悪くてな……』


 善吉は適当な言い訳をした。


『俺だけが彼女を作って怒ってるのか?』

『えっ?』


 そんな事を気にしていたのかと少し可笑しくなった。昔から自分は邪魔者だと考えていたので、善吉は人の幸せを妬む気持ちは持っていない。


『怒るどころか喜んでるさ。これで俺も付きまとわれなくて済む』

『け、何を言ってやがる! お前がくたばるまで付きまとってやるよ』


 自分が邪魔者な人間だと思い込むのは繁に対して失礼かもしれない。こうして心配してくれる友がいるのだ。


『なあ』


 しばらく黙って釣りを続けていたが、急に繁が話し掛けてきた。


『ん?』

『本当は何があったんだ?』

『本当って?』

『俺らみたいな爺さんが一週間も動けない状態になったら死ぬぞ。医者も介護者もいねえんだからな。俺は正直諦めかけていたよ。でも戻って来たって事は体じゃないんだろ? 言ってくれよ、隠さずに』


 心配してくれた友に対して隠し続けるのはすまない気がした。全て吐き出す事で楽になる事もあるだろう。善吉は生い立ちから頼子の事まで全て繁に打ち明けた。


『そんな事が……』


 全てを聞いた繁が一言呟いた後、二人とも黙り込んでしまった。


『悪かったな……』


 不意に繁が謝った。


『何が?』

『歳を誤魔かして騙していたり、色々嫌味を言った事だよ』

『なんだよ、お前騙していたつもりだったのか』


 今更謝る程の事ではない。


『俺はお前が羨ましかったんだよ』

『羨ましい?』

『お前はこんな最低の施設にいても一人で平気な顔をしていた。お前が羨ましくて憎らしかったんだよ』

『馬鹿な奴だな……』


 繁に偉そうな事は言えないな、と善吉は思った。善吉も頼子に対して同じように思っていたからだ。


『ああ、俺は本当に馬鹿だよ』


 そう言うと繁は釣りを止め立ち上がった。


『どうした? もう止めるのか?』

『ああ、馬鹿は馬鹿なりにやる事があるんだよ』


 そう言うと繁は消えてしまった。


 怒ったのか? 難しい奴だな。


 善吉は少し呆れたが、構わず釣りを続けた。孤独に死ねる自分を取り戻す為に。



 あれから数日経ち、善吉は毎日釣りに出掛けていた。卓郎が訪れてお見合いやサークル活動に誘われたが丁重に断った。これ以上心を惑わされたくはなかったからだ。


 卓郎は来たが、繁はあれ以来姿を見せなかった。

くたばるまで付きまとうと言っていたのに気まぐれな奴だ。デートに忙しいのかもしれないな。


 この数日間で、善吉は気持ちが少し落ち着きだしていた。昔を思い出す事も少なくなっていた。


『お、今日も来てるな』


 何日かぶりに繁が横に座った。


『俺がくたばるまで付きまとうんじゃなかったのか? 年寄りだからコロっと死ぬかも知れねえぞ』

『まあ、そう言うな。お土産持って来てやったんだからよ』


 お土産? 何の事だ?


『こんにちは……』


 声の方に画面を切り替えると頼子が立っていた。


『こんにちは……』


 善吉は立ち上がり頼子に向かい合ったが、何を話せば良いのか分からなかった。繁は善意のつもりだろうが、あれだけ避けられた頼子に対して何を言えば良いのか分からなかった。


『この前はすみませんでした』

『いや、こちらこそ無神経な事を言って気分を悪くさせてしまってすみませんでした』

『善吉さんに怒った訳ではないのです。私は、私の罪を思い出すのが怖かったのです』


 俺に怒った訳じゃないのは安心したが、罪とはなんだろう。


『繁さんから善吉さんの詳しい過去を聞きました……。私は善吉さんとは逆に不倫をして大切な人々を裏切ったのです』


 頼子は淡々と自分の過去の罪について話し出した。



 頼子は四十代半ばまで、二人の子供と優しい夫と、幸せな家庭を築いていた。


 ある日、頼子は職場で知り合った二十代の男から熱心にアプローチされた。最初は冗談と相手にしなかったが、忘れかけていた女としての感情をくすぐられた。何度も誘われる内にとうとう過ちを犯し、男女の仲になってしまった。頼子は久しぶりの女としての感情に溺れてしまったのだ。


 家庭を壊すつもりなど無かった。愛しているのは夫だと断言出来た。不倫している自分と家庭を想う自分が別人のようにコントロール出来なくなっていた。


 やがて、些細な不注意から不倫が夫にばれ、離婚された上に子供達とも引き離される。何度も何度も夫に謝り続けたが、許される事は無かった。元々相手の男に愛情が有った訳でなく、不倫発覚後に別れていた為、頼子は一人孤独になってしまった。


 いつか許される日を夢見て、頼子は慎ましく生き、子供達の為にお金を貯め続けた。長男が結婚すると親戚経由で聞き、援助を申し出たが受け取って貰えなかった。


 三年前、再婚もせずに一人で暮らしていた元夫が死に、戻る場所が無くなった頼子は決心する。貯めていたお金を国に寄付し、施設に入居した。


 一人静かに死を迎える為に。



『私は罪を犯した者なのです。だからここで一人寂しく死んで行くのを待っています』


 善吉は頼子の過去を聞き言葉が出なかった。同じ死を待っている者だが二人の立場は逆であった。


『善吉さん。あなたは私と違い罪人ではありません。どうぞ皆さんと幸せに暮らして下さい……。私はそれだけを言いに来ました』

『……』

『おい、何も言わなくて良いのかよ』


 だまったままの善吉に繁が催促した。


 俺に何を言えと言うのだ。頼子は罪を背負って一人静かに死のうとしている。逆の立場だが、俺にはその気持ちが良く分かる。


 結局、善吉は何も言う事が出来なかった。


『それでは失礼します』


 頼子は消えて行った。


『何やってんだ、ばかやろう! お前が許してやれば良いだろ! お前だって過去に許していれば違う人生送れたかもって言ってたじゃねえか。それで丸く収まるのに……』

『そんな単純なものでもないだろ。俺は彼女の旦那じゃないし、彼女は俺の婚約者でもない』


 そうだ、そんな単純なものじゃない。


『かー! 馬鹿、馬鹿、ばかやろう!』


 繁は怒ってどこかへ消えてしまった。


 善吉は変わらず釣りを続けた。



 頼子が訪れてからも善吉は毎日釣りを続けた。


 ルーチンワークで出来るだけ変化を作らず坦々とした生活を続ける。


 毎日毎日、続けて続けて続けて……。


 だが、続ける事は無理だった。善吉はこれ以上自分の気持ちを抑えることは出来なかった。


 いつしか善吉のルーチンは公園のテーブルの脇に立ち続ける事に変わっていた。頼子を待つ為に。


 何日も何日も善吉は待ち続けた。死ぬ為ではなく、生きて気持ちを伝える為に。


『善吉さん?』


 待ち続けた善吉の前に、やっと頼子が現れた。


『どうして、ここに……』

『俺が許す』

『え?』


 頼子は善吉の言った言葉の意味が良く分からなかった。


『被害者の代表として俺が許す。だからもう死を待つだけの人生は止めよう。一緒に笑い合って暮らそう』


 俺達はもう十分に苦しんだ。もう自由になっても良い筈だ。きっかけは何だって良い。単純だって構わない。


『良いの? 本当に良いの?』

『良いんだ。大丈夫。良いんだ』


 俺は許したかった。婚約者も許して欲しかった筈だ。


 頼子は許して欲しかった。頼子の旦那も許したかった筈だ。


 これで良い。これで良いんだ。俺達はもう自由になって良いんだ。


 二人の呪縛は解かれ、そして自由になった。



 数日後、パチンコ店で善吉、頼子、康代、繁の順に並んで打っている。卓郎の開催するサークル活動に参加しているのだ。関西弁の若者が丁寧に打ち方を教えてくれた。


『当たった! 私当たったで!』


 康代が一番に声を上げた。


『私も当たった!』


 頼子も続いた。


 四人は毎日のように一緒に行動していた。パソコンを切れば相変わらず部屋の中では一人だが、善吉達はもう孤独じゃない。もし死んでも悲しんでくれる仲間がいる。それだけで生きる意味を感じられた。

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