第22話


 いつも通りの日々が繰り返されていた八月が終わろうかという頃のこと。

 麻紀は朝起きて自分の身体の異変に気がついた。


 毎日出勤するために身体を起こし、顔を洗い。

 着替えている最中は嗚咽を我慢する日がもう何年も続いているのだが、それとは違う。


 胃が痛い。

 いや、痛いというよりも、胃の中をまるで丸めた新聞紙で擦られているような感覚がするのだ。

 そしていつもの吐き気がさらに増している。

 しかし麻紀は身体の異変を無視して出勤した。


 麻紀の体調が悪化したのは、その日の昼である。

 当然のように朝から説教をされてようやく昼休憩に行くことを許可された麻紀は、いつにも増して食欲がないことに気づいた。

 それでも一応何か口に入れなくてはと弁当箱を開いたところで、突然の吐き気に襲われてトイレに駆け込んだ。

 何も入っていない胃から辛うじて胃液だけを吐き出すと、麻紀はトイレを出た。


 そしてまた休憩室の椅子に腰掛けて弁当箱を開くと、今度はめまいがする。

 麻紀は背もたれにぐったりと身体を預けて天井を見ると、見慣れた天井の柄が渦を巻いている。

 そしてヤニに染まった天井は、赤や緑や青や黄色がちらちらと瞬いている。


 休憩室に誰も居ないのをいいことに渇いた笑みをこぼした。

 ついにきた。

 麻紀は自分の身体に何が起こったのかを悟った。


 精神よりも先に、肉体が音を上げたのだ。

 いや、精神が音を上げたから肉体に影響が出たのか。

 もう麻紀にとってはどちらでもよかった。

 麻紀は入社してからその日初めて、早退した。


 次の日は木曜日で病院は休診日である。

 麻紀は朝起きて前日と同様の症状に襲われたが、また無視して出勤した。


 まさか来ると思っていなかったのだろう、園田は麻紀が出勤してきたのを見て驚いていた。




「お、おはようございます。大丈夫ですか?」



「昨日はご迷惑をお掛けしました」



「い、いえ……」




 麻紀は、他人から大丈夫かと聞かれても決して大丈夫だ、とは答えない。

 全くもって大丈夫ではないからだ。

 そこで嘘を吐く意味が解らないし、遠回しに大丈夫じゃないから空気を読め、という思いを忍ばせて肯定も否定もしない。


 しかし他人はそれを都合のいいように解釈するもので、大丈夫だと解釈する者もいれば、大丈夫じゃなさそうだけど面倒だし、本人も否定しないからどうでもいいかと放っておく者もいる。

 園田は後者と解釈したようで、それ以上何も言ってこなかった。


 この日も炎天下の中、吐き気とめまいをこらえながら墓石掃除を続けていた麻紀は、いよいよ動けなくなった。

 滝のように汗をかき、吐き気を我慢するのに口を押えてうずくまった。

 店の外で珍しく、園田が説教をされている。

 その騒音を聞いて、耳鳴りが加わった。


 いつも店に入って来る時間に麻紀が入ってこないので、心配と称して、探すよう言いつけられた園田が、墓石の展示場に来た。

 麻紀は園田が来たことは判ったが、何を言っているかまでは解らなかった。

 困った顔をしてかすかに首を振る。

 しゃべる気力のない麻紀は、何とか意思の疎通が取れるように身振りで伝える。

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