第16話


 麻紀は物を書くことが好きだった。


 中学生の頃は、授業中にノートに思いつく限りを書き連ねていた。

 現実とは違う物語の世界が楽しくて、本もたくさん読んだ。


 中学生になり、地元の図書館が改装されたことで学校帰りに毎日通い、閉館時間まで入り浸っていた。

 そしてお小遣いというものが始まったこの頃は、月に一度近くの本屋さんに出向いて、気になる物を何冊か買って読むこともしていた。


 しかし父が死に、慌ただしくなった時期を境に、麻紀は書くことも読むこともしなくなった。

 初めはそんな気分になれなかったのが主な原因だったが、女手一つで自分を育てなくてはならなくなった母の手前、小遣いをくれともいう気にはならなかったし、書いている時間も無くなった。


 麻紀は将来やりたいこともなかったので、大学に進学はしなかった。

 しかし、人付き合いが嫌いな麻紀はすぐに就職するのが嫌で、取りあえず就職支援学校に通うことにした。

 そこでパソコンスキルの資格を得、仕方なく就職した。


 そして、自分で稼いだお金でまた好きなことができるようになった矢先、母が死んだのだ。


 このとき麻紀は本当に諦めた。

 実は心のどこかで、働きながらも何か書いて生活の足しにできるのではないか、もし軌道に乗ったら本業にしたっていい。

 そう思っていた。


 しかし麻紀は、母が死んだときに悟った。


 あ、自分にはいい事なんて起こらないんだ。

 いいことがあってもその倍以上の悪いことで塗り替えられるんだ。


 それから麻紀は県庁のパートを辞め、今の仏壇会社に就職した。

 いつ契約が切れるか分からないパートより、正社員で安定したかったのだ。

 しかし、そうなることはなかった。


 麻紀はある程度の収入の増加の代わりに、精神を削る羽目になったのだ。

 いつ何時も無気力で、しかし相手に屈することはなく、人付き合いが苦手なために可愛げもなく、しかし嫌になっても逃げることはなく。


 麻紀の中のくだらない自尊心が、もう両親はいないのだし大人なのだから、仕事終わりに遊びに行けばいいのに、何が楽しくて生きてるのなどという社長夫人の挑発も無視させ、いい年して独り身なんだから結婚でもすればいいんじゃないか、良いのがいるから紹介してやろうかという、迷惑な社長の下世話も、張り付けた笑顔で首を傾げてかわさせていた。


 なんでしょうね、何か趣味とかあればいいんですけど、と社長夫人の息子自慢と、くだらない話に耳を傾けて時給を稼ぐのは簡単だ。

 どうせ滅多に客など来ないのだから、適当な相槌を打って息子たちを褒めていれば、今日はもう帰っていいよと言われるまで時間をつぶせる。


 え、いいんですか。機会があればお願いします、と社長の口車に乗せられていれば、もしかしたら実際に相手と会うのさえ我慢すれば、食費を一食分浮かせられたかもしれないし、私にはもったいない方でしたと断れば、社長にも先方にも顔が立つだろう。


 これが世にいう世渡り上手、という類のものであることは麻紀にだって解っている。

 しかし、なぜ毎日あの仕打ちを受けながら、尚も下手に出なければならないのか。


 雇われているからだと言うのか。

 雇われている側は、世の中皆こういったことを毎日我慢しているのか。

 だとしたら麻紀は呪わずにはいられないだろう。


 これが普通だというのなら、当たり前に今まで誰しもが通ってきた道だというのなら、私はこの世の中を、あの会社を、社長を、社長夫人を、お局様を、その他役員や社員を、呪わずにはいられない!

 反論しないからって、否定しないからって、文句を言わないからって、私はお前たちに好き勝手言われて、いいように扱われてそれでもにこにこと、はいはいと従うとでも思っているのか!

 ふざけるな、呪ってやる、恨んでやる! そこまで考えて、麻紀は周りが暗くなっていることに気がついた。

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