第9話


 麻紀はやっと坂道を登りきると、駅からまだ動かない電車をちらりと横目に見て、遮断機に手を掛けた。

 隣で電車が通るのを待っている身なりのいい会社員に、一瞬驚いた顔をされたのが見え、麻紀はだらりと手を下ろした。


 用水路への転落防止のために設置されている柵にもたれかかって、電車が通り過ぎるのを見届けた麻紀は、足早に歩いていく先程の会社員の背中を眺めながら丸まっていた身体を起こす。


 だらだらと歩くことを再開した麻紀は、ふと家の冷蔵庫を思い出した。

 入っているのは確か納豆と麦茶と調味料、それから今日の夜に飲もうと前々から買い置きしている、缶チューハイくらいだ。


 お米は炊かないといけないな、と考えたところで突風に吹かれた。

 麻紀はふらふらとよろけて道に座り込んだ。

 生ぬるいアスファルトがじりじりと麻紀の掌を焼く。


 事態が呑み込めずきょとんとして振り返る。

 電車が通った様子はない。


 当然だ。

 麻紀の住んでいるような田舎では、次の電車が通るまでに三十分は空く。

 先程通ったばかりなのに、まだ来るはずはないのだ。


 考えても解らないので、麻紀はよろよろと立ち上がり手を払った。

 幸い誰にも見られていなかったようで、まただらだらと歩きはじめる。


 ようやく坂を下りた麻紀は、田んぼからの涼しい風に頬を撫でてもらいながら、また考える。

 お盆休みの間はあのけたたましい声を聞かずにいられる。

 しかし休みが明ければ、またあのうるさい声を聞かなくてはならない。

 もういい加減、うっとうしい。


 恐らく社長夫人は、自分が正しいと思っているだろう。

 何をさせてものろい麻紀が悪い。気が利かない麻紀が悪い。自分の主張をしない麻紀が悪い。的の外れたことを言う麻紀が悪い。

 だからいちいち声を荒げないといけないのだ、というのが社長夫人の言い分である。


 本当のことを言えば、雇い雇われの関係を無視していいのなら、麻紀にだって言いたいことはある。

 何だったら蹴りでも食らわせてやりたい。

 本当は引っ叩きたい。

 しかし一人暮らしの麻紀には、先立つものが必要なのだ。

 そんなことを気にしないまま生活できるのであれば、とうの昔に社長夫人をありったけの言葉で罵倒している。

 そしてセクハラ薄髪社長とセクハラ・スメハラデブ店長には、二文字ずつの罵声を浴びせているだろうし、園田の奴には拳の一つでもお見舞いしているところだろう。

 要するに、くたばってしまえ、である。

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