10話 少年の心

「やったわ!」


 カナタが叫んだ。どんどん落下してゆく。


「まずいよ」


 少年が大きく目を見開く。カナタの行く手に岩肌が突出していた。


「あら、このままじゃぶつかっちゃう。痛いのかしら」

「なに呑気なこと言ってるの。なんとかしないと」

「そういうあなただって、同じようなものよ」


 少年の前方にも岩肌が見える。荒れ狂う濁流に削り取られ、丸みを帯びたものが無数に顔を覗かせていた。


「だから言ったんだ! 飛ぶなんて無茶だって」

「でも逃げ出せたわ! これで自由よ!」

「死ぬのと引き替えだよ。バカだ。大バカだ」


 落ちざまにカナタの目尻から涙がぼろぼろと溢れ出していた。

 それを見た少年が戸惑った。


「なんで泣いてるんだよ」

「ほんとね不思議。どうしてだろ。私にも分からない。でも、どうせ売られるくらいなら、ここで終わった方がましよ」

「そんなこと言うなよ」

「ごめんね」

「なんで謝るのさ」

「あなたを巻き込んじゃった。ひとりで飛ぶのが怖かったの」

「いまさらそんなこと。手を出して、ほら」


 少年の差し出した手が、届きそうで届かない。


「おい、なに諦めてるんだ。伸ばしてよ」

「もういいの。たぶん私が望んでたこと」

「嘘だ。泣いてるくせに」

「先生がいない世界なんて、やっぱり耐えられない」


 言葉にした途端、押し込めていた感情が溢れ出した。考えたくないことが波となって頭の中に押し寄せてきた。自らを支えてくれた師はもういない。分かっていた。ただ向き合いたくなかった。どうして、こんなにも寂しいのだろう。この寂しさに一生付きまとわれるくらいなら、嘘だって許したかった。側に居たかった。もう自らを理解してくれる者など誰もいない。不安と孤独で押し潰されそうだった。いっそ頭を打ち付けて全部忘れたかった。このまま落ちてしまえば、そんな絶望から全て解放されるような気がした。


 落下の勢いは増してゆき岩肌が差し迫る。加速したふたりの身体は勢いよく空を切り、風音が耳元でひどく騒々しかった。


「勝手だ」


 少年が言った。

 もがきながら、カナタを掴もうとしている。


「なに勝手に高い理想、掲げてるんだよ」


 腕を掴まれ、引き寄せられた。


「しぶとく生きろよ。奴隷だっていい。死ぬよりマシだ。捨てろよ。下らない希望は。死ぬ奴らはみんな言うんだ。天国に行きたいって」

「行けるのかな?」

「行けるわけない! そんな場所あるもんか」

「じゃあどこに行けるの?」

「生きるんだ。なにがあっても」


 少年の腕に力がこもる。

 眼前に突き出している巨大な岩山にぶつかりかけ、身を翻して、ふたりはそれを紙一重で避けた。それでも次にまた現れた岩肌は避けようのない場所に待ちかまえていた。少年はカナタを抱き抱えながら、かかとを振り上げ、隣の岩を蹴り上げた。岩が砕け散り、少年の足から血が迸る。ふたりの落下位置が動いて、その身は荒れ狂う濁流の中へと飲まれた。


 川の流れに翻弄され、方向感覚を見失う。自らがいまどちらを向いているのか分からない程、流れは速かった。いつまでも浮上を許されない。水が冷たく凍えてしまいそうだった。呼吸が出来ず、思わず水を飲み込んでしまう。光が差し込んだかと思うと、ふたりの身体は勢いよく外に放り出された。


 外気に触れ、カナタは大きくむせた。一呼吸おく間もなく、今度は足下に広がる光景を目の当たりにし、思わず息を飲んだ。


「……嘘。やだ、ここって」


 それは遙か高くそびえ立つ、一本の滝だった。投げ出された先はその頂きにあたる。足下でカナタの何倍も大きな野鳥が羽を広げている。それが小鳥のように小さく見える。まるで雲の上から世界を見下ろしているような、遠大な景色があった。山も川も、鳥も雲も、遠くに見える街やお城や教会の鐘や、海岸線や青い海までも、全てが見渡せた。海岸線の向こう側へ沈みゆく夕日が、ちっぽけなふたりの身体を、色鮮やかに染め上げた。


 視界が反転して、ふたりの身体は再び落ちてゆく。

 カナタは少年を見上げた。先行して落ちている少年に、痛いくらい腕を捕まれているのに、なぜかとても安心できた。


「ねえどうして。あなたもそんな顔をしているの?」


 少年の顔はくしゃくしゃに歪んでいた。濡れた耳の先から水が滴り、カナタの頬に流れる。悔しさを押し殺したような声で、少年が言った。


「みんな行っちゃったんだ。僕を置いて。俺が弱かったから」


 少年の唇が震える。


「俺は守れなかった。守ることさえ、出来ないと決めつけて逃げたんだ。姫様から。ずっと、頭から離れてくれない。俺は意気地なしだ」

「……そう。私だけじゃなかったのね」


 目の前の狼族の少年だって、心に深い傷を負っていた。自分のことばかり夢中になり、カナタはそれに気付けなかった。


「理想なんてなくたっていい。せめて死ぬなんて言うなよ。言わないで」


 狼族の少年が、カナタを抱き寄せ懇願する。


「二度とそんな簡単に、死を受け入れないで」

「約束する。どんなに高い場所から落ちても、生きようと思うわ」


 少年が頭上で小さくうなずくのが分かった。


 カナタの中で不思議と恐怖は消えていた。それどころか、巨大な滝の頂きから望んだ景色は、いままで見たどんな景色よりも綺麗だと思えた。


 死ぬのが嫌になるほどに――。

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