ダブル・クロス

改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )

第1話

                   一


 外灯の薄明かりの下をスーツ姿の中年男が歩いている。上質な生地で仕立てられた三つ揃えのシックなスーツには、金茶のチーフが挿してあった。整髪料でセットされた髪は、耳の周囲や襟足が綺麗に切り揃えられ、髭の剃り残しもない。ブランド物の鞄を提げたその男は、反対の手をポケットに入れながら、道路の先の建物を見上げた。


 その建物は、都会の込み入った住宅街の中から高く突き出している。建物の外側に廊下やベランダは設置されていない。全ての壁面がガラス張りで、いかにもセレブ好みらしい外観だ。


 男は、そのナリキン趣味的な高級タワーマンションを見上げたまま、少し片笑んだ。


 男が顔を下ろすと、彼の視界に女の姿が映った。一階の屋内駐車場に通じる自動ドアが開き、黒く長いストレートの髪をかき上げながら、若い女がエントランスに入ってくる。

 

 女は、煌々としたライトに照らされたエントランスを通り、郵便ポストの前に立った。ブランド物のスーツに包まれた背中をこちらに向けて、自分のポストを開け、中から取り出した郵便物の束を手際よく振り分けていく。不要なダイレクトメールを隅のゴミ箱に投じた女は、ブランド物のハンドバッグを下げた手に残りの郵便物を持ち、艶っぽい腰つきでエレベーターへと歩いて行った。


 男が見ていたのは、その女ではない。男が歩いている細い通りの電柱に身を隠し、マンションのエントランスに向けてカメラのレンズを向けている女だ。男は観察する。


 その女はニット帽から肩までの髪を垂らし、フード付きのジャンパーを着ていた。下はジーンズ地のミニスカートだ。少し寒くなってきた時期だというのに、タイツは穿いていない。靴はボロボロのスニーカーだった。その女は、電柱の陰からフラッシュの光を放ちながら、エントランスの中をデジタルカメラで懸命に撮影している。


 男は足を止め、少し考えた。上着のポケットから、リボンが掛かった赤い小袋を取り出す。男はそれを見つめて溜め息を吐くと、腕時計に目を遣った。もう一度息を吐いた男は、その袋をポケットに戻すと、しかめた顔を左右に振りながら、その電柱の方へと歩いて行く。


 女はデジタルカメラを持った手を電柱から出して、背一杯に伸ばしていた。眩い光を放ちながら、何度もシャッターを切っている。素早く手を引いた女は、電柱に隠れたまま、胸元でそのデジタルカメラの画像を確認した。突然、女の背中に垂らしたフードが後ろに引っ張られる。背後から男の低い声が聞こえた。


「おい、ここで何をしているんだ」


 男は女のフードを高く引き上げたまま、彼女をにらみつけた。女は薄手の綿シャツの上からデジタルカメラを胸に押し当てて隠し、驚いた顔で答える。


「いえ、あの、怪しい者じゃありません。仕事です、仕事」


 男はフードから手を放し、眉を寄せた。


「仕事? どんな仕事ですか。まさか、マスコミの方ですか」


「いいえ、違います」


 女は首をすくめる。男は眉をひそめた。


「じゃあ、何の仕事ですか」


 女は視線を逸らし、いかにも挙動不審な態度で答える。


「ああ、いえ、その……それは、ちょっと……」


「ちょっと何ですか。言えないようなら、とりあえず警察に……」


 男はスーツの中からスマートフォンを取り出した。女は慌てて言う。


「あの、ちょっと待ってください。あなた、このマンションの住人さんですか」


 女は背後のタワーマンションを両手で指差しながら、そう尋ねた。男は首を横に振る。


「いいや」


「じゃあ、来客の方」


「違いますよ。何なんですか、あなた」


 男が顔を険しくして語気を少し荒げると、女は肩を丸めて息を吐いた。


「よかった。焦ったあ……」


「何が良かったんです。とにかく、警察を呼びますよ」


 男が親指を動かしているスマートフォンのパネルが、眉間に皺を寄せた男の顔を薄っすらと照らしていた。女は再び慌てて、スマートフォンを握っている男の手を掴んで下ろし、声を殺して訴えた。


「あの、だから。違います。探偵です、探偵」


「探偵……」


 怪訝な顔をしながら、女の頭の先から足の先まで改めて見た男は、スマートフォンを背広の中に仕舞いながら言った。


「名刺か何か、お持ちですか」


「あ、はい。ちょっと待って下さい」


 女はジャンパーの上から斜めに掛けていたポシェットの中に手を入れた。必至に名刺入れを探す。手に握っているデジタルカメラが眩い光を発した。男は顔の前に手を立てて、眩しそうに目を細めて言う。


「無いんですか」


「いえ。ああ、すみません。まだ、買ったばかりで、使い方が……ああ、有りました。名刺入れ」


 女は小鳥の形をした入れ物を見せた。翼の部分を開いて、その中から取り出した名刺を男に差し出す。男は受け取った名刺を外灯の下に翳した。


「ふーん。『すずめ探偵事務所』さんですか……。聞いた事が無いですねえ」


 女は、その奇妙な形の名刺入れをポシェットに仕舞いながら言った。


「あ、えっと、まだ、開業したばかりで。何か御用命の際は、いつでもご連絡ください」


 男は名刺をスーツのポケットに仕舞いながら、呆れ顔で言った。


「する訳ないでしょ。こんな真正面の位置から、しかも、何度もフラッシュを焚いて撮影する探偵に」


 女は握っていたカメラを見つめた。


「あ……。ですよね、目立ちますよね」


「当然でしょ。私がここに居ますよと、対象者に知らせているようなものじゃないですか。それに、その恰好。ここは高級タワーマンションですよ。その恰好じゃ、中にも入れてもらえないでしょ」


「ああ……こういうのしか、持ってないもので……」


「一人ですか」


「はい?」


「一人で来ているのですか」


「ええ、まあ。私一人しか居ないので……」


 男は大きく溜め息を漏らすと、顔を傾けて女に尋ねた。


雀藤しゃくとう友紀ゆきさんでしたっけ。つまり、こういう事? 『すずめ探偵事務所』は、君が一人でやっている事務所で、今ここには、君一人しか居ない。支援要員も、外部の応援も、無し」


「あ、はい。まあ……そんなところです」


 女は背中を丸め、小さな声でそう答えた。男は厳しい顔で続ける。


「格闘技は」


「は? あ、いえ、なにも……」


「じゃあ、武器とか持ってないの」


「ぶ、武器ですか? いえ、そんな物は……」


「スタンガンとか、催涙スプレーとか、持ってないの」


「いいえ。別に必要ないかと……」


 男は項垂れた。音を立てて嘆息を漏らす。顔を上げた彼は、呆れ顔で言った。


「あのね、君。張り込みを軽く考えているんじゃないの? 女の君が、しかも若くて、スタイルも抜群の君が、そんな短いスカートでナマ足だして、暗がりに隠れて張り込みですか。痴漢に会ったり、誰かに襲われたりしたら、どうするの。護身術の心得もなさそうだよね、君」


「あ、あの……」


「だいたいね。張り込みは車の中っていうのが、基本でしょ。対象者が車で出てきたら、どうやって追うつもりなんですか。それに、さっきの名刺」


 男は厳しい顔で言う。


「僕が嘘を言っているかもしれないよ。君の調査対象者の関係者かもしれない。ろくに確認もしないで、易々と正体を明かすようじゃ、探偵としては三流もいいとこじゃないですか」


 女は頬を膨らませた。男は説教口調で話を続ける。


「それに、張り込みの準備もしていない。君、食事もトイレも無しで、朝までここに立っているつもり?」


「はあ……」


「撮影するにしたって、もっといい場所があるでしょ。ここからじゃ、エントランスの中の人は皆、ポストとエレベーターの方に顔を向けて立つから、背中しか撮れないでしょうが。撮影するなら、向こうの植え込みの角か、そこの角の隣の家の人と交渉して、敷地の中から撮影させてもらうとか……」


 女は思い切ったように、男の発言の途中から口を挿んだ。


「あのう……すみません。警察の方か何かですか」


 男は眉間に皺を寄せた顔を女の前に突き出して言った。


「探偵ですよ。僕も、探偵。私立探偵の妙蓮寺みょうれんじ大助だいすけです」


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