夫婦と花火 第二話

 フェスの当日、夕方にはタクシーが家の前まで来て、我々をホテルまで運んでくれた。


 会場の高層ホテルに着いた頃、辺りは茜色に染まっていた。チラホラと今日の花火大会に備えてか人々がたむろっている。


 チェックインすると妻は、準備があるから先に控え室で待ってて、と言いホテルの鍵を渡された。


 部屋は十階のスイートルームで、堤防に面した壁は全てガラス張りになっており、きっと花火がとても綺麗に見える事だろう。


 広さもキングサイズのベッドが楽々入るほどで申し分ない、おまけに翔太様のベビーベッドまで用意されていて、妻の抜け目のなさに舌を巻いた。


 翔太はいつもとは打って変わって、ぐっすり眠りこけている。彼を優しくベビーベッドに寝かせる。


 俺は窓際に立ち、ガラス越しに堤防を見下ろした。


 二年前はあそこで妻から妊娠を告げられた。六年前にはあそこで妻にプロポーズした。


 そして、二十年以上前、お互いが小学生の頃、初めて二人であそこに行ったのだ。


 彼女との思い出を振り返ると胸がじんわりと暖かくなった。


 もしかすると、永遠と言うものは・・・


   そんな事を考えていたら、ドアが開き、妻が入ってきた。


 


 「お待たせ、準備完了しました」


   そう言って、彼女は窓際のソファに腰掛け、俺もそれに倣い、彼女の対面に腰を下ろした。


 「遂に、最後まで俺にこのフェスの全容を明かさなかったな」


  「驚いて欲しいもの。ねえ、私たちの入場まであと一時間もあるから少しゲームでもしない?」


   


 


 


 Mr.kiichiro.What kind of music do you like








   妻が流暢な英語で話しかけてくる。


 花火までの待ち時間に『日本語禁止ゲーム』をしようと言うことになった。


 妻は大学の外国語学部を卒業し、バリバリのバイリンガルである。一方、俺はと言うと英語なんて高校生以来まったく触れてきていない。勝ち目など最初からない。


 「アイムファインサンキュー、アンドユー?」


   俺はドヤ顔だワザと適当な英語で返す。すると妻はクスクスと細く小さな肩を震わせて笑う。


 「well・・・Tell me your favorite musician」


   妻は少し考えてからそう言った。


 「アイムフロムジャパン。アイライクスシ」


   俺は真剣な顔をして出鱈目な英語をまた話す。すると、妻は堪えられないと言ったようにふふと笑った。


   「ちょっと、真剣にやってよ」


   「あ、日本語喋った。俺の勝ちだな」


   「もー」


    妻がケホケホと咳き込んだ。血の気が一気に引いていくのを感じる。すぐに妻の肩を抱きしめて、顔を覗き込んだ。


 頬の肉はほとんど無くなり、目も落ち窪んでいる。手を置いた肩も細くて弱々しい。


 妻は俺の顔を見つめ笑った。


  「笑いすぎちゃったじゃない」


  「悪かった。でも、こうやってふざけるのも久しぶりだな」


  「だって、あなた、ここ最近ずーっと難しい顔してたもの」


  「そりゃなるよ。なあ、本当に何もないのか、俺にできることは」


   言葉が不意に口から出た。それを聞いて彼女はキョトンとした顔をした。


 「何言ってるの?あなたは私のしたいこと全部してくれたじゃない」


   「どう言うこと」


  「私ね、ガンになってからやりたかったことをリストにしようと思ったの。例えばさ、ケーキ食べ放題で気持ち悪くなるまで食べるとか、海外に行ってハメを外すとか。でもね、そう言うこと思いつくたびに、あ、これあなたと昔やったなって思い出すの。私にはその思い出だけで十分過ぎるくらいなの。したいことは全部あなたとやっちゃってるの、だから悔いも後悔も全然ない。私を幸せにしてくれてありがとう」


  そう言って、妻はニッコリと微笑みかけた。


  なんだ、そうだったのか、だからやりたい事はないと言ってたのか。答えを聞いて、今までウジウジと悩んでいた自分の小ささを思い、少しだけ笑った。


 「俺もありがとう、幸せにしてくれて。俺の人生、こんなに幸せでいいのかと思えるくらい、幸せだった」


  「あ、でも、最後にひとつだけして欲しいことあるかも」


  「なに?」


 「内緒よ」


「なんだよ」


 二人で見つめ合い、少し照れて笑った。


  「翔太が大人になるところを見れないのが、本当に残念」


  彼女はベビーベッドに目を移し、寝息を立てている翔太を優しく見つめた。


 「安心してくれ、翔太は俺の命に代えても育て上げる」


   「信頼してる。迷惑かけるわね」


  「本当だぞ、もー、二人でするところ、一人ですることになるんだからな」


  「ちょっと、そこは否定しなさいよ」


  俺たちは笑い合った後、ガラス越しに外の風景を見つめた。


 ちょうど、夜と昼の狭間に我々はいる。


 「ねえ、私が死んだらさ、素敵な人を見つけて一緒になって。私のこと忘れちゃうくらい幸せになって」


   彼女は窓の外から目を動かすことなく、そう言った。


 「努力してみるよ」


   「お願い」


    その後、長い長い沈黙が流れた。


 妻も俺もただ外を見つめた。


 部屋の電気をつけていなかったものだから、どんどん部屋は暗くなっていく。


 それに伴って、ガラスは明確に俺たちの姿を写した。


 ソファに座る妻と俺、その姿はこの世界で二人ぼっちきなってしまった少年と少女の様に頼りなかった。


 「なんで?」


   不意に言葉が出てしまった。


 「なんで、俺じゃなかったんだろう。俺が病気になれば良かったのに。一生、お前と翔太を守るって誓ってたのに」


    涙が一筋、頬を伝った。


 一度流れた涙をもう止めることは出来なかった。言うな、と心の声が叫ぶ。だが、それよりも強く、言えと心の中で声が聞こえる。言え、言ってしまえ、後悔を残すな、彼女に嘘の自分じゃなくて本当の自分を見せつけろ。それを彼女も望んでいるはずだ。勇気を出せ。


 「なんで、どうして、愛しているのに、嫌だ。死んでほしくなんかないよ。ずっと一緒にいたいよ。翔太の成長を二人でずっと見たいよ。もっと喧嘩したり、一緒に泣いたり笑ったりしたかったよ。俺にはお前しかいないんだ。嫌だよ、お別れなんて、絶対に嫌だ」


    目から涙が次々に溢れてくる。鼻水も流れ出す。俺は顔を両手で覆ってそれを防ごうとした。しかし、水は指と指の間から漏れ、もう止めることは出来なかった。


 俺は声を上げて泣いた。ずっと我慢してきたからだろう。涙が止まる気配はなかった。


 その時、温かな温もりを背中に感じた。


 妻が俺のことを後ろから抱きしめてくれているのだ。


  「ごめんね」


    一言だけ呟くと、妻は俺の肩に顔を押し付けた。肩に温かさと湿り気が広がっていく。


 彼女も泣いているのだ。


 「俺の方こそ、ごめん」


    俺はそう言うと、身体を捻って妻を正面から抱きしめた。


 二人でさめざめと泣いた。


 「私も死にたくない、ずっとあなたといたい。怖いし辛いし、どうしていいか分からない時がある。でも、泣いたって治らないでしょ?だから、決めたの、二人の前で泣いてる私じゃなくて笑顔の私をいっぱい見せようって、元気な私を覚えていて欲しかったの」


   「俺も、クヨクヨしたところなんて見せたくなかったよ。でも、難しくってさ、ごめんよ、弱い男で」


    二人の声は掠れて声になってなかった。俺は彼女に縋り付く様にして泣いた。彼女も俺に縋る様にしっかりと身体を抱きしめて泣いた。


 彼女が本当にこの世界にいることを確認したかった。だから、しっかりと強く抱きしめて泣いた。


 「最近、あなた、全然心ここにあらずって感じだったから、本当の事が聞けてよかった。ごめんね、私が無理させてたね。私もすっごく無理してたんだよ。本当は泣き叫びたかった。あなたの腕の中で、子供みたいにえーんって泣きたかった。だから、ありがとう、先に泣いてくれて」


   俺たちはお互いの顔を見つめて笑い合った。


 彼女の顔は真っ赤に染まり、目も真っ赤で鼻水も出ていた。俺はそれを何よりも美しいと思った。


 「ひどい顔」


   俺がそう言うと、あなたもよ、と彼女は言った。俺たちは笑った。


 それから、二人で色んなことを話した。


 こんな風に何も気負わずに彼女と話すのはいつぶりだろうか。


 ずっと、心の中にあった錘が無くなり、帆を張った船がただ水面を鮮やかに切りつけ、進み続ける様に、心に迷いは無くなった。


 最初からこうしていれば良かったのに。そう、思うと自然と笑みが溢れた。


 「ねえ、さっき、素敵な人を見つけてって言ったでしょ。あれは半分本当、でも半分は嘘。結構引きずって欲しいかも。それでね、私のこと絶対忘れないで欲しい」


   彼女はイタズラっぽく笑った。


  「俺も嘘ついたよ、努力するなんて言ったけど、無理に決まってるだろ。俺、お前意外と付き合った事ないし、お前以外の人と一緒にいるのなんて想像すらできない」


  「モテないもんね、あなた」


   彼女はクスクスと笑った。


 その通り、俺はモテない。オタク気質だし、根暗な所あるし、あと、少し人とズレてる。


 「そういや、お前モテたよな、学生時代。可愛かったもんな」


    「でしょー、今も綺麗でしょ」


   「お前以上の女の人、俺は見たことない」


   「嫌だ、もう、恥ずかしい」


    そう言うと、彼女は俺の肩をバンバンと叩いた。


 その時だった。


 夜空に白い線がひゅーと音を立てて登っていった。そして、花が咲いた。ただの炎色反応だ。理科の時間に習ったやつだ。でも、そんな花がなぜこれ程までに心を打つのだろうか。


 「綺麗」


    彼女は独り言の様にポツリと呟いた。


 「毎年見てるのにな」


   「そうね、昔からずっと二人で見てるわよね。それなのになんで毎回こうも感動しちゃうんだろう」


    「本当のことを言うと、俺は花火よりも、花火を見つめるお前の顔が好きだった」


    妻と顔を見合わせる。花火に照らされた妻の顔を見て、これまで彼女と過ごした二十年以上の思い出が胸に溢れてきた。


 妻、加藤香織、旧姓、中村香織は俺の幼馴染だった。子供の頃から兄妹みたいに育った。


 中学の頃、どんどん美しくなる彼女に劣等感を覚えて俺は彼女と話せなくなった。


 でも、そんな時も二人を結びつけてくれたのは花火だった。


 社会人になって些細な事で別れてしまい、ずっと彼女の事を引きずり続けていた時も、俺たちを再び結びつけてくれたのは花火だった。


 思い出せば、俺の人生に彼女がずっといてくれた様に、花火もまたずっと隣にいてくれた。


 花火を見ると彼女を色鮮やかに思い出す。子供の頃の彼女も、学生時代の彼女も、そして大人になった時の彼女も。きっと今の彼女も俺は花火を見るたびに思い出すのだろう。


 そう思った時、確信した。きっと過去や未来なんてものは人が勝手に作り上げたもので、常に色んな彼女は存在していて、それは花火を見る事で鮮明に俺の脳内に現れてくれて、きっと、その思い出がある限り、彼女は、少なくとも俺の中で消えて無くなることはないんだ。


 永遠は一瞬で消える炎色反応の中にあったんだ。


 「ひとつ聞いていい?情けなくてずっと聞けなかった事がある」


   俺は彼女を見つめてそう言った。


 「なに?」


    彼女は言った。


 「お前は、いや、あなた本当に魅力的な女性だ。美人だとか、スタイルが良いとか、そういう事じゃなくて、人間として、あなたほど出来た人を俺は見た事がない。こんなダメな俺のことを愛してくれて、ずっと一緒にいてくれる。俺はそれが本当に嬉しかった。でも、ほら、香織くらいいい女だったら、もっといい男見つけられたんじゃないかって、俺なんかよりももっと香織のこと幸せにしてくれる人がいたんじゃないかって、そのだからさ」


  「なに?もっとハッキリ言いなさい」


  「本当に俺で良かったのかなって、怖くて聞けなかった」


   香織は呆れた様にふーと息を吐いた。


 「きいくんはさ、意外と私のこと分かってないよね。と言うか、本当に自分に自信ないよね。もっとしっかりしなさい」


   馬鹿じゃないの、と彼女は笑った。昔はよく彼女にそう言われたっけ。


 「辛い時にいつも私を救ってくれる。覚えてる?小学生の頃、花火大会で私のこと笑わせてくれたこと。中学生の頃、競技場から連れ出してくれたこと。片道のきっぷ代しかないのに福岡まで来てくれたこと」


   彼女の姿があどけない少女の様に見えた。その姿はまるで中学生の頃の彼女だった。


 「それでね、今も、私の心の中のモヤモヤを全部吹き飛ばしてくれた。私もあなた以外の人との人生考えられない。あなたは私にとってのスーパーマン」


   二人で目を見合わせて笑った。それで少し泣いた。


 「さ、そろそろ入場よ。行かなきゃ」


   彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。


 俺はその手を優しく、でも強くしっかりと握りしめた。


 「なあ、約束しないか」


    「なにを?」


   「俺がヨボヨボのおじいちゃんになって、こっくり死んだ時にさ、二人で天国から花火を上から見下ろそう」


   「なに、それ、ロマンチック。でも、そんなおじいちゃんとは私見たくないかも」


   「じゃあ、今くらいの見た目で会いにいくよ。それまで待ってて」


   「うん、ずっと待ってるから、安心して生きて」











    ホテルの大広間の大きな扉の前に二人で立つ。広間からは音楽がなっている。


 「行くよ、あ、じゃあ、お願いしますね」


    そう、妻がホテルのスタッフに言うと、スタッフがうやうやしく両開きのドアを開けた。


 中では立食パーティーが行われていた。そこにいる人は全員見知った人たちだった。


 中学からの友達の坂田や高山もいる。もちろん大学時代の彼女の友人達。


 皆、俺たちの方を見て、わっと声を上げ、拍手で出迎えてくれた。


 「まるで結婚式みたいだ」


   「でしょ」


 そして、驚いたことに、広間の奥にはステージが準備されていて、その上にはドラムセットやベース、ギターが置いてある。


 「おい、まさか」


   俺が唖然として言う。


 「そのまさかだ」


 その声の方を見ると、なんと花木さんが立っていた。


 「花木さん。来てくれてたんですか。だって、妻の招待状の中には」


   「呼んどいたのよ。あなた、花木さんのこと好きでしょ」


 花木さんは昔、俺にバンドとは何かを教えてくれた恩人だ。数年前に会社を自主退社して、今は音楽スタジオでドラムの講師をしている。

 もう久しく会っていなかったので、俺は彼との突然の再会に目を丸くした。

 「スペシャルゲストも呼んでおいたぞ」

花木さんはくいと顎で、俺の後ろを見ろとジェスチャーをした。

 花木さんの後ろを覗き込むと、テレビでよく見た顔がいた。

 カーフェスの高木だ。還暦を超えても尚精力的にバンド活動に励み、今なお、音学業界の帝王と君臨する男だ。

 彼は我々の会話に気がついたのか、ニヤリと笑うとこちらに歩いてきた。

 「これはこれは、麗しの貴婦人と、ロックンロールワンスモアのボーカルじゃないか。今日はよろしく」

そう言うと、手を差し出して握手を求められた。俺は手をゴシゴシとズボンで擦った後、恐縮です。とその手をしっかりと握った。

 「花木からも頼まれてね、ファンの望みなら叶えなきゃね。プロだから」

そう言うと、軽くウィンクをしてくれた。その姿はテレビで見るよりも五倍セクシーで何年も前にあった時よりも更に色気が増していて、俺はクラクラ来てしまった。

 「高木」

花木さんがそう言うと、ああと高木は答えた。

 「そろそろ準備してくるから、彼女主催のフェスをどうか楽しんでね」

そう言うと手を振り、会場を後にして行った。

 「高木さん、かっこいいね」

妻もはぁーとため息を吐きながらうっとりとした表情でそう言った。

 「カッコ良すぎる。さすがだ」

その時、香織〜と言う甘い声と共に香織は女性達に囲まれた。

 それは香織の大学時代の友人達だった。

 香織は高校卒業後、地元に帰ってきて、俺と同じ大学に進学したのだが、そこで俺はバンドの道へ、彼女は英語の道へと進んだ。

 そこで数多くの友人が出来たそうだが、共通の友人と言えるほど仲良くなった人はおらず、俺は集まってきた女性陣の顔も名前も少しあやふやだった。

 女の人ってのは凄まじいものだ。俺以外で輪になるとマシンガンの銃撃戦の様なおしゃべりが始まった。

 俺は所在なげに手をぷらぷらさせる以外特にやる事がなく、翔太のことを考えていた。

 翔太は入場前に俺の母親に託してきた。

 母さんは初孫にメロメロになっており、翔太の面倒を見ることは苦にならないだろうし、子育てに関しては俺たちの大先輩だから心配する必要もないのだが、やはり、自分の息子がどうしているかは気になるものだ。

 俺が悶々としていると、よ、と後ろから声が聞こえた。

 そこにいるのは坂田だった。中学高校の俺の親友で、社会人になってからも年に数度遊ぶ男である。

 「お前、知ってるよな、魔法美少女実写化」

 彼は興奮気味にそう言った。変わっていない、と俺は安堵から少し微笑んでしまった。

 坂田は大学卒業後、すぐに結婚。しかし、度重なる女遊びが災いして、すぐに離婚。学生時代に比べるとすっかり遊び人になってしまったが、根は変わらぬオタク野郎で話すと安心する。

「知ってるけど、お前、まだアニメの追っかけとかしてるのか」

「なんだよー、子供産まれてひよっちまったか?まあ、なんだ、ほら飲もうぜ」

そう言って彼は円卓まで俺を手招いてくれた。

 俺の知らない間にまた招待客を増やしていたのだろう、広間は結構な大きさだったが、そこを埋め尽くさんばかりの人がいた。

 ここも壁が一面ガラス張りになっていて、外の花火が見える。

 「仲村さんのこと、俺、なんて言ったらいいか分かんねーや」

坂田はポツリとつぶやいた。

 「うん」

俺はそれに小さく頷いた。

 「言うて、そこまで話したこともないしな。だが、お前は別。お前とは腐れ縁だからな。正直言うとかなり心配している。だって、お前、中村さんのこと大好きだろ」

「うん」

どうなるのかなんて分からない、でも、今はこの時を楽しみたい。

 そんなことを思っていたらば、目の前に初老の男性が立っていた。

 彼女の父親だ。

 中学の頃、彼女の母親と父親は離婚した。理由はなんとなく想像できる。そして、彼女の母親は離婚後暫くして亡くなった。

 その事がずっと彼女の人生に影を落としていることを俺は知っている。

 学生時代、何度も何度も彼女はその事で泣いて俺に相談してきた。

 もう、お父さんとどうやって話したらいいか分からないの。と彼女は泣きながら話してくれた。

 そして、大学進学を機に父親と別れた彼女はついぞ、父親と会うことはなかった。

 結婚式にすら呼ばなかったほどだ。

 二人の間の確執について、俺は根掘り葉掘り聞くほど野暮ではないので詳細までは分からないが、大きな大きな亀裂が二人の間にあることだけは確かだった。

 「お義父さん」

俺がそう言うと、喜一郎くん。と彼もまた言った。空気を察してくれたのか、坂田は、それじゃと小さく言うと雑踏の中に消え、俺と父親だけが残された。

 「会うのは殆ど初めてじゃないかな」

「そうですね」

「君には感謝しても仕切れない。私は娘に父親らしいことを出来なかった。俺の代わりに君が彼女を支えてくれた」

「いえ」

俺は歯切れ悪くそう言った。

 「しかし、同時に嫉妬している。これも事実だ」

意外な言葉に俺は少し驚いた。嫉妬、なんで俺に。

 「俺は病気になった妻を捨てて香りと一緒に家を出た。それで彼女は死んだ。でも、君は逃げることもなく、ひたすら香織と向き合い続けた。俺に出来なかったことを君はずっとしている。後悔の念が止まないよ」

そう言うと、彼の目から大粒の涙が流れてきた。俺は違う、そうじゃない。消え入りそうな声でそう言うと、彼の両手をしっかりと握りしめた。

 「違う、そうじゃない。お義父さん、あなたがいたから、あなたの行動ひとつひとつがなければ、私と香織は出会ってなかったし、愛し合うこともなかった。あなたとあなたの奥様が僕の、そして香織の幸せを作ったんです。だから、どうか、もう苦しまないで」

彼は俺の手に縋り、泣いた。

 「きいくん」

 気がつけば彼女も隣にいた。

 「お父さん、こんな土壇場にしか呼ばなくてごめんね。私幸せよ。ずっと言えなかったけど、私のお父さんになってくれてありがとう」

お義父さんはボロボロと泣き、膝から崩れ落ちら様にして、その場に座り込み、声を上げて泣いた。

 俺たちは優しく彼の左右の肩に手を置いた。

 妻を見る、彼女は優しく笑っていた。



 「みんな、花火大会フェスに集まってくれてありがとう。今日は思う存分楽しんでね」

彼女はマイクの前で大声でそう高らかに宣言した。

 もう、会場の誰も泣いていない。みんな笑顔で彼女に拍手を送る。

 「では、まず、私と夫が大好きなバンド。『カーフェス』の高木さんとその盟友花木さんによるスペシャル演奏をどうぞ」

そう言うと、スタスタと二人がステージ脇から姿を表した。

 堂々としている。流石の立居振る舞いだ。

 高木さんはギターを背負い、花木さんはドラムセットの前に座る。

 ワンツースリーフォー。花木さんがカウント四つでドラムを目一杯スティックで叩きつける。と同時にギターの轟音が鳴る。

 二人は素人のステージであろうと一切の妥協はなかった。

 タイトで正確で情熱的でセクシーだった。あまりの素晴らしさに、聴衆は皆食事や会話の一切を忘れていた。

 「ありがとう」

汗だくの高木さんが最後に一言言ってライブは終わった。あっという間の三十分だった。

 暫く呆気に取られていた聴衆は一人また一人と我に帰り、まばらな拍手が起き、それはすぐさま大歓声へと変わった。

 俺も拍手をわーっと送っていたらば、隣に翔太を抱いた母さんがいた。

 「晴れやかな顔しちゃって」

母さんはそう言って俺に笑いかけた。

 「母さん、俺が産まれた時、嬉しかった?」

俺は母さんの目を見つめてそう言った。母親としっかりと真っ正面から話すのなんて何年ぶりだろうか。

  「私が産まれた理由はあなたを産むためだった。そう思うくらい嬉しかったわよ」

「俺も翔太が産まれた時、そう思った。きっと、翔太も子供が産まれたらそう思うのかな」

「多分ね」

「なら、うん、俺は大丈夫」

俺はそう言うと、人差し指で眠っている翔太のほっぺたをつんとつついた。どこを触っても柔らかくて可愛い。俺たちの結晶。

 きっと翔太を見る度に俺は彼女を思い出すだろう。ふとそう思った時、もしかすると俺と彼女の永遠は翔太の中にもあるのかも知れない。そんな事を思った。

 「皆んな、カーフェスのライブすごかったわね!!!私感動しちゃった」

妻がまたマイクで話す。

「でもね、今日はもう一人スペシャルゲストを呼んでるの」

あ、と思い出す。そう言えば彼女はカーフェスすら霞む大物を呼んでいると言っていた。

 「それはね、私の夫、加藤喜一郎さんです」

 俺はその言葉の意味がわからず、ぽあっと惚けてしまった。

 が、周りでは万雷の拍手が巻き起こり、皆、俺の背中を押して、広間の奥のステージへと押し出してくる。

 俺は遂に、ステージの下でマイクを持った彼女の前まで押し出されてしまった。

 「これが、私が最後にして欲しかったこと。ね、あの歌をもう一度歌って」

「こんな事しなくても歌ってやったのに」

「嘘、恥ずかしいとか言って絶対歌わなかったわ」

彼女はニヤリと笑い、俺の背中を叩いた。

 俺はステージに上がるしかなかった。

 

 ステージの上からはみんなの顔が見える。

 俺は用意されたアコースティックギターを担ぎながらステージの下の皆んなを見つめた。

 俺と妻の大事な人達。俺たちが生きてきた証明。

 翔太を見つめる。愛している。

 次にステージの下の香りを見つめる。愛している。

 愛している以外、言葉が見つからない。

 なんど言っても足りない。愛している。

 俺はギターをジャカジャカと弾き、歌を歌い出した。

 その時、今日一番大きな花火が上がった。

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