第44話 危険な男 

 午後四時三十分。通学路から離れ、ランドセルをカタカタいわせながら一ノ瀬ワタルはバス停へ向かっていた。

 通学路と違う道を歩いているのは、今日はあかり先生の家ではなく叔母である環の家へ行くためだ。かなり変則的だが、こうやって彼女が休みのときは叔母の家に泊まることが多い。環のことはもちろん好きだが、浅雛あかりと一ノ瀬雅臣との三人の時間が過ごせないと思うと少しだけ寂しくもあった。


 母の従弟である一ノ瀬雅臣は昔からよく自分に構ってくれる優しいお兄さんだった。本家で居心地の悪さを感じている自分の話し相手になってくれたし、時折遊びに連れ出してくれることも多かった。叔母の環は、厳しく冷たい祖父に向かって自分が言えないことを代わりに言ってくれる頼もしい存在だ。だけど、雅臣の恋人である浅雛あかりとの生活は自分が経験したことがないほどに楽しいものだった。

 血の繋がりはないはずなのに、自分のことをよく気にかけてくれるし愛情をたくさん注いでくれる。今までは試験の成績やスポーツの結果ばかりに関心を持たれ、学校での日常を聞いてもらうことも、好きなことにつきあってもらうこともなかったけれど、彼女は他愛のない話でさえもニコニコしながら聞いてくれるのだ。

 一緒にいると毎日が楽しくて、恋愛に対して積極的な姿勢を見せない雅臣が彼女を愛している理由がよくわかるような気がした。

彼らとの生活は、ワタルが欲しくてたまらなかった日常だ。そこまで考えたところで、ワタルは雲一つない空を仰いだ。


(母さんは今頃どこで何をしているんだろう……)


 物心ついたときから、母は本家で肩身の狭い生活をしていた。いつも祖父に怒鳴られ、ことあるごとに離婚した父のことを罵られる。母は泣きも怒りもせず、能面のような顔をしていつも無言を貫いていたが、あの生活を続けるのはやはり苦しかったのだろう。

 最近新しい恋人ができてからは、ともに新生活を送る未来を夢見て笑顔が増えていたはずなのに、まさか忽然といなくなってしまうことになるとは思ってもみなかった。きっといつかはワタルを迎えに来てくれると信じているのだが、もしかするともう自分のことを捨てて恋人と新しい生活を踏み出しているのかもしれない。

 そう想像したとたん、ワタルの心は深い泥沼に沈んでいった。バス停に向かう足が重い。もしかすると、本当は環も自分の存在を面倒に思っているのではないか。血の繋がりがあるからこそ、明らかにしたくない真実というものはある。 


(やっぱり今日はあかりちゃんの家に行こう……)


 彼女の帰宅時間がどれくらい遅くなってもいいから、安心できる場所に戻ろうと踵を返したそのときだった。

 ザリッと砂を踏む音がしてワタルは顔を上げた。まるで通せんぼをするように前に立ちはだかっていたのは見知らぬ男だった。年はそこまで若くなく四十代くらいだろうか。だがコケた頬とくっきり刻まれたシワのせいでもう少し年かさのようにも感じる。

 見るからに怪しい人物の出現にワタルは身を固くした。知らぬふりをしてさっさと通り過ぎようとするが、男が近づいてきて突然ワタルの腕を掴んだ。


「な、なんだよおっさん! 離せよ気持ち悪いな!」

「君、一ノ瀬ワタル君だよね?」


 低い声で囁くように男が問いかける。薄く開いた唇から欠けた歯が見えた。あまりの気持ち悪さに手を振り払うと、男がニヤニヤと下卑た笑いを覗かせる。


「オ、オレはワタルじゃない! おっさん誰だよ、警察呼ぶぞ! オレの家族は皆警察官なんだならな!」

「知っているよ。君は一ノ瀬香の息子だろう? 実はね、おじさんはお母さんの居場所を知っているんだよ。長いこと不在にしているから、お母さんはワタル君にとても会いたがっていたなあ」

「母さん……?」


 振り切って逃げようとしたワタルの足がピタリと止まる。この怪しい男が疾走したという母の恋人なのだろうか。半信半疑だが、少なくともこの男は自分と、そして母の名前を口にした。母の失踪を知っているということは間違いなく関係者だ。ワタルの足がとまったのを見て男が薄く唇を持ち上げる。


「君のお母さんはね、今すごく困っているんだ。よかったら私が案内してあげよう。ねぇワタル君、お母さんに会いたくないかい?」

「会い……たい」

「それならちょうどよかった。今私も香さんのところに行こうと思っていてね。せっかくだから連れて行ってあげようじゃないか。なに、会ったらすぐに帰ればいいんだから」


 ねっとりした言葉とともに男は手を差し伸べた。その手がなぜだか母へ繋がる最後の糸のように思えて、ワタルは唇を噛んだ。

 この男が明らかに怪しい人物だということはわかっている。だけど今は雅臣と環が必死に探していても手がかりひとつ得られない状況なのだ。このチャンスを逃せば母に会うことはもう二度とないかもしれない。


 ──あかりちゃん。オレ、どうすればいいのかな。


 心の中で求めた助けは、誰に届くこともなかった。





 カチリと時計の針が動く音がした。時計を見ると、針は午後五時を指している。いつもは気にならない時計の音さえ耳が拾ってしまうのは、おそらく単調なこの時間を虚無の気持ちで過ごしているからだ。

 職員室内の自分のデスクに座り、あくびを噛み殺しながら私は聞こえる言葉を右から左に受け流していた。


「……というわけで、わが校は生徒たちの教育のために新たな理念を掲げることにした。一に挨拶、二に心、三に心身の健康……」


 校長が腕組みをしながら得意げに演説を続ける。最近、先生たちの統率に必要だからと業務後に夕礼と称した校長先生の説教が取り入れられることになったのだが、これが全く意味のないものなのだから困りものだ。ていうか理念の二つ目と三つ目で心の要素がかぶってるし。

 単に校長先生が演説したいだけでは? という疑惑を抱えながらよそ見をすると、同じく上の空で座っている真木先生の姿が目に入った。天井を見つめながら時折ニヤニヤ笑っているのは、おそらく最近やり始めたばかりの乙女ゲームの攻略ルートを考えている顔だ。そう言えば以前まではヤクザ系の男キャラばかり推していたのに、最近は警察官キャラに推し変したのはどういう心境の変化だろうか。

 あと何分続くのだろうかとデスクに置いたカバンからこっそりとスマートフォンを取り出す。何気なく画面を見ると、SNSの通知を知らせるアイコンが表示されていた。なんとはなしにタップすると会話文が表示される。その文字を読んだとたん、私はスマートフォンを掴んで立ち上がった。


「すみません、私帰ります!」

「こらこら浅雛くん、今は夕礼の時間です。帰るのは夕礼が終わってからにしなさい。教師のそういう態度が生徒の見本になるわけでして、だからこそこの」

「じゃあ早退します!」


 後ろで校長先生が呼び止める声が聞こえたが、聞こえないふりをして私は職員室を飛び出した。



 SNSの通知は環さんからだった。今日はワタル君が泊まりに来るはずなのに、午後五時を過ぎても帰ってくる気配がないらしい。そっちのおうちに行ってない? という連絡だったのだが、その後すぐにGPSの位置情報を確認して私は愕然とした。

 ワタル君に渡しておいたGPS──かつて雅臣さんが私にくれたものだ──のアイコンは自宅とは全然違う場所を指していた。私の家からも環さんからの家からも離れた場所へ、猛スピードで移動している。おそらく車か何かで移動しているのだろう。

 走りながら雅臣さんに電話をかけると、電話口で彼が息を呑む音が聞こえた。


「事情はわかりました。位置情報を俺のアプリにも共有してください。すぐに向かいます。あかりさんは俺が行くまでは安全な場所で待っていてください」


 雅臣さんの忠告を聞かなかったことにして通話を切る。彼には申し訳ないけれど、子供を守る女怪盗は子供のピンチに黙っているわけにはいかないのだ。

 画面の上を猛スピードで動く点を眺めながら私はギリッと歯噛みした。


 GPSが止まったのは工場地区の一角だった。画面の点は建物の中で点滅している。私は位置情報を雅臣さんに転送し、GPSのアイコンが止まってから十五分ほど遅れてその場所に到着した。

 辿りついたのは廃工場だった。錆びて朽ちた鉄筋が転がっており、煤で汚れた壁がなんともおどろおどろしい。ためらうことなく中に入っていくと、誰かが話している声が聞こえた。

 入口の影に身を潜ませながら、そっと顔だけ出して様子を窺う。廃工場の中でワタル君が見知らぬ男に向かって啖呵を切っていた。


「嘘つき! 母さんに会わせてくれるって言ったじゃないか! 母さんはどこにいるんだよ!」

「香さんのところにはちゃんと連れて行ってあげるさ。でもその前に一つやらなければならないことがあるんだ。いい子だから協力してくれるかい?」

「やだよ! 母さんがいないならオレはもう帰る! さっきの場所に戻せよ!」

「おっとそうはいかないな。君はここにいてもらわなければならない。そうしないと身代金が取れないからな」


 身代金という物騒な言葉に背筋がゾワリとする。男の素性はわからないが、香という名前が出てきたところを見るに失踪したお母さんの恋人で間違いないだろう。どことなく焦点のあっていない虚ろな目に例えようのない恐怖を覚えながらも、私は状況を探るためにじっと息を殺す。 

 とうとう痺れを切らしたワタル君が憤慨しながら踵を返した。


「身代金? よくわかんないけど、もういいよ。オレは一人で帰るから! じゃあなおっさん!」

「おっとそう簡単には行かせないよ」


 くるりと背を向けたワタル君に、男が近づいてその腕を掴む。力任せに握られて顔をしかめるワタル君を気にもせずに男はポケットから注射器を取り出した。


「な、なんだよ……それ、注射? 何をする気だよ……」

「なに、ヤンチャ坊主には少し大人しくしてもらおうと思ってね。大丈夫、これは全然痛くないよ。むしろとっても気持ちよくなるんだ。君は今からクラスの誰も経験したことのない感覚を味わえるんだよ」

「や、やだよ! そんなの経験しなくていいから離せよ! オレ家に帰りたい‼ 助けて母さん‼」


 ワタル君が真っ青になって悲鳴をあげる。一瞬雅臣さんの忠告が頭をよぎったが、ワタル君の悲鳴を聞いた瞬間、私の体は反射的に動いていた。

 地面を蹴って飛び出し、男に向かって走り出す。ダダダダッと駆け寄る靴音に男が振り向くが、やはり咄嗟の出来事で反応が一瞬遅れたようだ。その隙を見計らって体当たりすると、男がバランスを崩して派手に地面に倒れ込んだ。


「ワタル君行くよ! 走って!」


 ワタル君の手を引くと、彼は一瞬驚いた様子だったがすぐに私と一緒に走り出してくれた。だけどすぐに背後から靴音が迫ってきて、出口に辿り着く寸前に私は首元を掴まれて地面に組み伏せられた。


「誰だ! なぜ私の邪魔をする! 答えによってはただではおかないぞ!」

「私はワタル君の学校の先生です! ワタル君を返してもらうわ!」


 地面に仰向けに倒れながらキッと目の前の男を睨みつける。男は私に馬乗りになりながら落ち窪んだ目で私をギロリと見下ろした。だけどその目はどこか焦点があっておらず虚ろだ。私のお腹の上で男がブツブツと何事かつぶやいている。


「金金金金……私にはお金が必要なんだ……一ノ瀬の息子をダシにして……金をふんだくって……それで……」

「ワタル君を人質にして一ノ瀬家からお金を巻き上げるつもりだったのね。残念だけど今ここに警察が向かっているわ。大人しく観念なさい!」

「警察? そうか警察か……ならこれが見つかるのも時間の問題か……」


 間近で見る男はただならぬ様子だった。そこまで年齢はいっていないはずなのに頬はこけ、目が落ち窪んで骸骨みたいに見える。男はブツブツと何事かをつぶやきながらポケットから新しい注射器を取り出した。


「ハハハ、君もこれで共犯だな。ついでにコレの正しい使い方も教えてあげよう。いいか、これを打ってからヤルとトリップできるぞ。すごーく気持ちがいいんだ……大丈夫、君のこともすぐに気持ちよくしてあげるから……そして一緒に逮捕されよう」


 にたぁと笑いながら男が私の腕を取る。だけどその針が私の肌に刺さることはなかった。

 突如ドタドタドタドタという大勢の足音がして、一斉に警察官が廃工場の中に突入してきた。真っ先に駆けつけた雅臣さんと江坂さんが二人がかりで私から男を引き剥がし、暴れまわる男を腕で制圧する。


「午後六時二十一分。暴行罪の現行犯で逮捕する」


 雅臣さんが手錠をかけるときにいつもより締め上げる力が強く見えたのは多分気のせいではないだろう。もしかするとトリップするとかいう下品な言葉を聞かれていたのかもしれない。静かな怒りをにじませてやや手荒く男を連行していく雅臣さんを見ながら私はゆっくりと身を起こした。


「ワタル‼」


 ワタル君を呼ぶ声に振り向くと、工場の出入り口から環さんが走ってくるのが見えた。そのままワタル君に駆け寄り、両手でしっかりと抱きしめる。


「知らない人について行っちゃだめっていつも言ってるでしょ! 私がどれだけ心配したと思ってるの!」

「タマ姉、ごめん……でも仕方なかったんだ。あの人、お母さんの居場所を知ってるって言うから」


 ワタル君の言葉に環さんが口をつぐむ。いくら探しても見つからなかったお母さんの手がかりと危険を天秤にかけて危ないほうを選んでしまった気持ちを察したのだろう。

 はぁ、と大きなため息をついて環さんがワタル君と目線を合わせる。


「それでも嘘かもしれないんだから勝手について行っちゃダメ。その件については雅臣がしっかりと調べてくれているんだから。……あかりさん、あなたにも感謝しているわ。怪我はない?」

「大丈夫です。雅臣さんが助けてくれましたから」


 そう言って出入り口から見える無数のパトカーの光に視線を向ける。そんな私を見ながら環さんが苦笑した。


「あの人、珍しくキレてたわね。きっとあの男があなたを見て想像したあれやこれやが頭から吹っ飛ぶくらいキツく取り調べをすると思うわ。ワタルの言うことが本当であればアイツは姉さんのことも知っているはずだから、この一件で何かわかるはずよ」

「ええ、そうですね。あとは警察に任せて私たちは待っていましょう」


 環さんの言葉に頷きながら、私はやっと安堵の息を吐いたのだった。

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