最終章 二人の結末

第31話 覚悟

 どんなに心が苦しくても、日常は待ってくれない。泣きながら明かした次の日も、私は苦しい気持ちを押し殺しながら出勤した。いつも通りに授業を行い、いつも通りに生徒を校門で見送る。職員室に戻り、いつも通りに残業をしようとして、私は力なくうなだれた。

 今日一日何事もなかったかのように振る舞っていたが、やはり精神に限界が来ていたようだ。生徒が帰った途端私の中でぷつんと何かが切れた。プリントを机に広げ、ペンを持ったまま、私はぼんやりと虚空に視線を彷徨わせていた。

 怪盗の正体がばれた以上、もうすぐ雅臣さんが私を警察署まで連行しに来るだろう。罪を侵した自覚はあるのだから捕まるのは仕方がないと思う。だけど、私のせいで雅臣さんを苦しませているのが辛かった。

 一向に進まない無地のプリントを見つめていた時だった。カツカツとヒールの音がして、ガタンと隣の席に誰かが座る。顔をあげると、腕組みをした真木先生が睨みつけるように私を見ていた。


「真木先生……」

「ほら、行くわよ、ご飯。さっさと帰る支度をしなさい」

「え、私、まだもう少しやっていこうかと」

「さっきから1ミリも進んでいない仕事なんてやっても無駄。さっさと行くわよ」


 そう言うと真木先生は私の腕を掴んで立ち上がらせる。急な話に動揺しつつも、私は真木先生につられるがままに職員室を出ていった。



 連れてこられたのは駅前の居酒屋さんだった。昔ながらの大衆居酒屋で、店内には焼き鳥を焼く美味しそうな匂いが充満している。目の前にでんと置かれたビールのジョッキをグイと呷りながら、真木先生が私を見やる。


「で、なんでそんな顔してんのよ。酷い顔ね」

「私……変な顔してますか」

「今まで見たあかり先生の顔の中で今日が一番ブスね」


 ストレートに刺してくる真木先生の言葉に、私はハハ……と力なく笑った。本当だ、多分今の私はきっと可愛くない顔をしている。チラッと目線をあげると、真木先生がビールを飲みながら私の言葉を静かに待っていた。


「……雅臣さんを傷つけてしまったんです、私がずっとやってきた活動のせいで」


 一度言葉を発すると、堰き止めていたものが決壊したかのように言葉が溢れ出す。取り留めのないままに、私は真木先生に自分の気持ちを吐露していった。


「出会った時から優しくて、困ったことがあれば助けてくれたのに、一番酷い形で裏切ってしまったんです。彼のことはすごく好きだけど、もう顔を見せることはできない」

「何したのか詳しくは聞かないけどさ、あかり先生はそれをやって後悔してる?」


 真木先生の言葉に私は顔をあげた。


「多分あかり先生のことだからさ、その『活動』はきっと理由があってやったんでしょ。結果的にそれは彼を傷つけることになっちゃったかもしれないけど、あかり先生がそれを後悔してるのかどうかって話よ」

「後悔……」


 真木先生の言葉を頭の中で反芻する。

 一部の教師の力だけではどうにもできなくて、贔屓になるからと学校側でも対処ができなくて。それでも寂しい思いをする子供達を放っておけなくて始めた怪盗業。家に行くと嬉しそうな顔をしてくれて、帰る時は「また来てくれる?」と聞いてくれる子供達。

 彼らを想ってやってきたことに後悔は――ない。


「私がやってきたことは許されるものではないかもしれません。でも、やってきた行いを後悔したことはないです」

「そ、ならいいじゃん」


 軽く言って真木先生がグビッとジョッキを呷る。


「もしそのことで誰かに迷惑をかけちゃったなら、謝れば良いんだよ。私らだって生徒にいつも言ってるでしょ? ちゃんとごめんなさいをして、反省して、二度としない。そうすれば許してもらえるって」

「そう……ですね。真木先生の言う通りです」

「で、その『活動』はもう終わったの?」

「いえ、あと一回だけ、どうしてもやらなきゃいけないことがあるんです。雅臣さんには、申し訳ないんですけど」

「そ。じゃあ最後までやんなさい。今更一回も二回も同じでしょ。やると決めたんなら、最後までやり切るのが筋ってもんよ」


 真木先生の言葉がスッと胸に染みわたる。そう、私だって生半可な覚悟で怪盗を始めたわけじゃない。一人でも多くの子供を悲しみから救いたい、その一心でやってきたなら最後までやりきらなければ。

 私はテーブルに置いてあるビールジョッキを掴むとぐっと一息に呷った。すっかりぬるくなったビールが喉を通り、アルコールがカッと胸を熱くする。

 ドンッとジョッキをテーブルに置くと、私はお行儀悪く手の甲で口元を拭った。


「真木先生、今度駅前のパンケーキ屋さんご馳走します。トッピング全部のせで」


 静かな熱意をこめてそう言うと、真木先生がふっと口元を緩める。


「コーヒーセットもつけてね」


 その日、私はもう一度だけ怪盗になる覚悟を決めた。







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――――――



 交番の中で書類に向かっていた一ノ瀬は、先程から一文字も進んでいないことに気がついてペンを置いた。ずいぶん長いこと座っていたが、書類は白紙のままだ。ペンを持ちながら、全く別のことに意識が向いていたことを自覚して一ノ瀬はため息をついた。

 自分が無意識のうちに思考を止めていたのは、間違いなく彼女のことだった。女怪盗の正体が彼女と知ったのは二日前。本来であればすぐに署に連れていき、事情聴取を始めなければならないはずなのに、重い腰が上がらずずるずると今日まで先延ばしにしてしまった。

 彼女が逃げるつもりもないであろうこともその気持ちに拍車をかける。住居侵入罪の容疑はかかるが、彼女の場合、本当に罪を侵している可能性は低い。提出された被害届も一件だけだ。自分が黙ってさえいれば、この一件は無かったことにできるのではないかというよこしまな考えが自分の正義を刺激する。

 そこまで考えた所で、一ノ瀬は力なくため息をついた。いや――それはしてはならないことだ。自分なりの信念を持って警察という職業に就いた以上、そこに私情は挟んではならない。罰せられる者は等しく捕まえ、等しく裁かなくてはいけない立場にいるのだ。隠された余罪を暴くためにも、自分は浅雛あかりを連行し、きちんと事情を聞かなければならない。

 そう心の中で覚悟を決めると、一ノ瀬は置いてある警帽を手に取り、目深にかぶって立ち上がった。


「一ノ瀬さんお疲れ様っす!」


 振り向くと、目の前には後輩の江坂が立っていた。ちょうど見回りから帰ってきた所らしい。警帽を脱ぎながら、江坂が手に持っている紙を差し出した。


「はいこれ、交番の前に落ちてましたよ。一ノ瀬さん宛みたいですけど」


 手紙? そんなものを貰う心当たりがない一ノ瀬は訝しみながらもそれを受け取った。小さな封筒には綺麗な文字で「一ノ瀬さんへ」と書いてある。中を開けると、二つに畳まれたメッセージカードが出てきた。


「あ、もしかしてラブレターですか? だめですよ〜彼女に怒られちゃいますよ」

 

 江坂がニヤニヤしながらからかう。だが、一ノ瀬はそれを険しい顔で読み終えるとすぐさま上着の中にしまった。


「江坂、俺は今から見回りに行く。ここをお願いできるか」

「え? いいッスけど、どうしたんですか?」


 きょとんとする江坂の問いには答えずに、一ノ瀬は無言で交番を出ていった。






『本日午後六時、向町三丁目の杉本たくみ君の家に侵入します』


 渡されたメッセージカードにはそう書いてあった。署名には「怪盗ぴよぴよ仮面」の文字が踊る。彼女の真意はわからないが、これは怪盗からの予告状と見ていいだろう。

 時計を見ると、時刻は午後四時四十五分だった。向町三丁目までは十分もあれば到着する。

 いつものように応援を呼ぼうと無線を手に取り、ためらいがちにそれを戻した。もし結果的に逮捕することになったとしても、それは彼女の行動を見極めてからだ。万が一揉め事になったとしても、彼女一人を制圧するくらいわけはない。

 そこまで考えて一ノ瀬は唇を噛んだ。そう、いくら小柄で身軽な彼女とは言え、男女である自分達には決定的な力の差がある。力での押収となれば彼女に勝ち目があるはずがないのだ。市民を守る為に磨いてきた逮捕術を、彼女の為に使いたくはなかった。

 

 苦しい気持ちを堪えながら現場に到着する。指定された場所は、どこでも見かけるような公営の住宅地だった。同じような建物が立ち並ぶ静かな住宅地を歩いていると、カラカラとベランダの窓を開ける音がした。

 音がした方に目を向けると、三階のベランダに黒尽くめの格好をした人影が見えた。茶色のふわふわしたボブヘアーに安物の仮面。正体を明かしたからか、いつものウィッグはもうつけていなかった。仮面をつけているとはいえ、遠目で見ても彼女だとわかる。

 一ノ瀬は該当の棟に静かに近づいていった。見上げると、ベランダの柵に足をかけている彼女と目が合う。

 一瞬の沈黙の後、黒尽くめの人物がヒラリと宙へ躍り出た。次の瞬間にはふわりと階段の踊り場へ着地をする。

 その場で待っていると、彼女は静かに階段を降りて建物から出てきた。真っ直ぐに一ノ瀬の元へ歩き、向かい合せで対峙する。彼女が仮面に手をやり、静かに取った。


「あかりさん……」


 想定していた通りだが、仮面の下から現れた恋人の顔を見て一ノ瀬は言葉を失った。目の前にいる彼女は悲しそうな顔でじっと自分を見ている。そのままそっと目を伏せると、黙ったまま両腕を差し出した。手首を合わせて差し出す姿を見て、一ノ瀬は彼女の意図を知った。


「あかりさん、今回の予告状は……自分を逮捕させる為だったんですね」


 一ノ瀬が言うと、彼女がそっと顔をあげる。


「私、捕まえられるならあなたがいいです」


 そう言うと観念したように目を伏せる。それでも、その表情は悲しそうで、今にも泣きそうに見えた。


 ――あかりさん、あかりさん。俺はあなたを捕まえたくないです。


 本当は全てを投げ出して彼女を力いっぱい抱きしめてやりたかった。それでも自分の立場上、今しがた見た光景を否定することは許されない。理由はどうあれ、住居侵入の現行犯を見てしまったのだから。


 一ノ瀬は覚悟を決め、腰に下げた手錠を手に取った。

 


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