第25話 危機

 私の指先がGPSのボタンを確実に押し込む手応えがあった。だけどまだ安心はできない。警察が来たとしても、桜ちゃんに何かあれば彼女の心を守ることはできないからだ。

 目の前の酒井先生を睨みつけながら頭をフル回転させる。警察が来るまでに、何とかして時間稼ぎをしなければ。彼の意識を桜ちゃんからそらす為に自分は何ができるかを必死で考える。

 弾き出した答えは――私自身を囮にすること。

 私はぐっと拳を握ると目の前の酒井先生を睨みつけた。


「私、この程度の写真なんて拡散されても怖くありません! ここから出たら間違いなくあなたを警察に通報しますから」


 大声で怒鳴ると、桜ちゃんの靴下を脱がせようとしていた酒井先生の手がぴたりと止まる。


「浅雛先生は思ったよりもじゃじゃ馬ですね。いいんですか、写真を拡散されても」

「酒井先生は思ったよりも考えがぬるいんですね。その程度の写真、私からしたら痛くもかゆくもありません!」

「そうですか。ならもう少し刺激的な写真を撮らないといけないみたいですね」


 酒井先生がイライラした口調で吐き捨てる。そして地面に膝をつくと、私の足を掴んで無遠慮に開いた。


「本来は成人女性なんて興味がないんですがね。しかしこうでもしないとあなたの口を封じることができないらしい。悪く思わないでくださいよ」

 

 次の瞬間にはふくらはぎにザラリとした手の感触があり、私は不快感に息を飲んだ。手の感触はそのまま撫でるように上にいき、太ももをを這い回る。覚悟していたこととは言え、この後のことを想像して私はぎゅっと目を瞑った。


 ――助けて、一ノ瀬さん。


 心の中で悲鳴をあげた時だった。

 

 ガラガラガラと扉を勢いよく開く音がして、室内いっぱいに光が入ってくる。眩しさに顔をしかめた私の目の端に、ブルーのシャツが映った。

 と同時に私に馬乗りになっていた酒井先生が引き離され、ふっと体が軽くなる。逆光でよく見えないが、誰かが彼を床に引き倒して拘束しているようだ。顔は見えないけど、それが誰なのか私にはもうわかっていた。

 一ノ瀬さんに続いて他の警察官が続々と室内へ駆け込み、彼を取り囲む。暴れる音。怒声。そしてカシャリと響く小さな音。


「午後六時十一分。暴行の容疑で現行犯逮捕する」


 一ノ瀬さんの声が聞こえた。同時に、大勢の警官に連れられて大声が遠ざかっていく。


「あかりさん! 大丈夫ですか!」


 顔をあげると、一ノ瀬さんが私の側に来て地面に片膝をついていた。ぐっと腕が引かれる感覚があり、後ろ手に縛られた縄が解かれる。自由になった両腕を呆然と眺めていると、一ノ瀬さんが痛ましそうな表情で私の顔を覗き込んだ。


「到着が遅れて申し訳ありません。でも、もう大丈夫ですよ」


 一ノ瀬さんの手が私の腰に回り、助け起こそうとしてくれる。その大きくて温かい手を感じた瞬間、私は腕を伸ばして一ノ瀬さんの首にしがみついた。


「一ノ瀬さん、私怖かった」


 安心したからだろうか。緊張の糸が切れた瞬間、私の目から涙がポロポロと溢れた。一ノ瀬さんにすがりついて、その逞しい胸に体を預ける。一ノ瀬さんが微かに動揺する気配がしたが、構わず子供のようにぎゅうとしがみつくと、彼の両腕が私の体に回されたのを感じた。

 そのままふわっと体が抱き上げられる。横抱きにされてパトカーまで戻る間、私は子供のように泣きじゃくりながらずっと一ノ瀬さんの首にすがりついていた。



 その後は最寄りの警察署に行って取り調べを受けた。桜ちゃんはあの後目覚めたそうだが、何があったのか全く覚えていないようだ。良かった。危ない目には遭ったけど、桜ちゃんに一生の心の傷を負わせることは避けられたみたいだ。

 証言を終えて警察署を出た私を、一ノ瀬さんがパトカーで送ってくれた。江坂という子犬のように人懐こい警察官が運転席に乗り、一ノ瀬さんが助手席に座る。そのまま私はパトカーの後部座席に座りながら、とっくに日が落ちて人工的な明かりに照らされた繁華街をぼんやりと眺めていた。

 ギラギラする眩しい光を見ながら、今ここでパトカーに乗って家に帰れているのが奇跡だな、とおぼろげに思った。今回はたまたまうまくいったけど、もしひとつでも運が悪ければ、自分の運命は最悪の方向に転がっていたかもしれない。


 もしGPSが作動しなかったら。

 もし私の挑発に乗らずに酒井先生が桜ちゃんを手にかけていたら。

 もし警察の到着が遅れていたら。

 桜ちゃんは一生にわたる心の傷を背負い、そして私もまた目にするのも辛い写真を撮られて今後ずっと脅しに使われていた可能性があるのだ。

 そう思った途端、今更ながらに震えが止まらなくなった。身を守るかのように怯える体を両腕で抱きしめ、無事だったのだから大丈夫と自分に言い聞かせるも、圧力をかけるほど無理やり押し込めようとしていた記憶の蓋が開いていく。

 体を這い回る手の不快な感触。一方的な支配。暴力で押さえつけられることの嫌悪感。そして身近にいた人の裏の顔が犯罪者だったという恐怖がじわじわと私の心を蝕んでいって――


「あかりさん!」


 突如名前を呼ばれ、ハッとして顔を上げる。いつの間にかパトカーは停車していた。どうやらとっくにマンションの前に到着していたようだ。パトカーのドアを開けた一ノ瀬さんが、心配そうな顔で私を見ている。

 

「あかりさん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」

「あっ……すみません、何でもないです。ちょっとボーっとしていて」


 慌ててヘラっと笑って誤魔化すが、一ノ瀬さんは痛ましい表情で私を見ていた。その視線から逃れるように目をそらす。人気ひとけのない、明かりの消えた室内が酷く暗く目に映った。


(一人になるのが怖い……)


 パトカーから降りて一ノ瀬さんにお礼を言いながら、私は漠然とそう思った。うつむいてきゅっと両手でスカートを掴む。その瞬間にこらえていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。

 と同時に一ノ瀬さんが腕を伸ばし、私の背中を優しく撫でてくれる。背中に温かい熱がゆっくりと広がった。


「江坂、悪い。頼んでもいいか」

「勿論いいっすよ。一ノ瀬さんにはいつもお世話になってますもん。退勤作業だけしとけばいいっすよね」

「ありがとう、助かる」


 私の頭上でやり取りが行われる。そして一ノ瀬さんは私の手をとり、ゆっくりとパトカーからおろしてくれた。その温かい手のぬくもりを失いたくなくて思わず手に力をこめると、一ノ瀬さんがそっと握り返してくれた。

 部屋の前まで来ると一ノ瀬さんが手を離し、私に向き直る。


「俺もこのままあがります。もし何か……俺にできることがあればいつでも呼んでください」

「そんな、私のことでご迷惑をおかけできません。一ノ瀬さんだって忙しいのに」

「元々今日は非番だったんです。本来であれば午後には勤務が終了しているはず。今日の退勤業務は江坂に代わってもらったので問題はありませんよ」


 そう言って一ノ瀬さんが優しく微笑む。


「人は大きくショックを受けると、本人の自覚がないままに心に傷を負うことがあります。俺はずっと隣にいますから。いつでも駆けつけられます。辛くなったらすぐに呼んでください」

「一ノ瀬さん……ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまってすみません」

「俺がそうしたいんです。あなたは何も悪くない」


 そう言って一ノ瀬さんが背中を押してくれる。その手に促されるようにして私は自分の家のドアを開けた。

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