第15話 見回り

 廊下を明るく照らす日の光と元気な子供達の声。判で押したようにいつもどおりの朝の風景だ。だけど私の胸はいつもと違ってふわふわと落ち着かない気持ちでいっぱいだった。

 もちろん、その理由は昨夜の出来事にある。職員室に向かう廊下をしっかりとした足取りで歩きながらも、私の頭の中は昨日のことでいっぱいだった。


 転びそうになった私を咄嗟に抱きとめてくれた一ノ瀬さん。状況は事故のようなものだったけど、まるで抱き合うかのように見つめ合った時に、今まで以上に彼の存在を全身で感じてしまった。

 普段の彼は落ち着いていて優しい人という印象だったが、思わず手を置いた彼の両肩は思っていたよりもがっちりと厚くて大きかった。力強く抱きとめてくれた腕と、腰に回された大きな手の感触は間違いなく男の人のもので、思い出す度に顔が熱くなる。ふわりと漂った石鹸の香りの中に微かに混じる彼自身の匂いを思い出した瞬間、ドキリと胸が高鳴った。

 同時に手に持っていた出席簿がスルリと落ち、廊下に乾いた音を響かせる。私は慌ててその場に屈み、出席簿に手を伸ばした。


(だめだ。私、すっごく動揺してる……)


 出席簿を拾いながら内心で深いため息をつく。なぜ自分がこんなに落ち着かない気持ちになっているのかはよくわからないが、男の人と一瞬密着したくらいで動揺してしまう自分が情けない。

 私は気持ちを切り替えるかのようにふるふると首を振った。もう良い大人なんだからしっかりしないと、と内心で気合いをいれた瞬間、ふいに肩を叩かれて私は小さく飛び上がった。


「きゃあ! ……て、真木先生ですか。も、もう、驚かさないでくださいよ」 

「ちょっと何よ人をオバケみたいに。あんたこそ何? 考え事? もしかして好きな人でもできた?」

「な、なんでもありません。大したことではないです」

「なにそれ〜怪しいわね」


 真木先生がくるっとカールした髪をかきあげながらジロリとこちらを見る。さすが真木先生、鋭い。でもきっと彼のことが好きというよりかは、男性との交際経験が無さすぎて、突然の密着イベントに少し動揺してしまっただけな気がする。うん、きっとそうだ。だってまだ私は一ノ瀬さんのことをよく知らないんだもの。

 特に何も語ることがないのでヘラっと笑って誤魔化すと、真木先生がふーんと目を細める。でも私が口を開かないのを悟ると、パサッと髪を後ろに流して急に教師の顔になった。


「あ、そういえばあんた聞いてる? 最近このあたりでまた不審者が出たんだって」

「不審者ですか。いえ、知りませんでした。でも最近よく聞きますね。目撃情報が多いのでしょうか」

「そうみたいね。最近、サングラスをつけて長めのコートを着た男がこの辺りをうろついているみたいなのよ。何かをするわけではないんだけど、電柱の所に立ってじっと往来を見つめているんですって。もう六月なんだから今更長いコートはないわよね。変質者かしら」


 言いながら真木先生が両手で自分を抱きしめる。確かに美人の真木先生は服装も派手だ。目立つ容姿をしているから、自分が狙われないかが心配なのだろう。


「近隣住民からの通報は?」

「多分いってると思うんだけど、捕まっていないってことは警察が来る前にどこかに行っちゃうんじゃないかしら。まぁそうでなくてもここらへんはあんまり環境が良くないからねぇ。変な人が多いと言えばそうなんだけど」

「でもこの辺りは子供がいる世帯が多いので保護者も不安ですよね。何事も無ければ良いのですが」

「そう。だから警察も見回りを強化してくれるみたいよ。この小学校にも定期的に立ち寄ってくれるって」


 そう言って情報通の真木先生が得意気に胸をはる。きっとこの件はこの後朝礼で教師たちにも周知が行くのだろうけど、その前に情報を掴む手腕はさすがだ。 

 私が尊敬の眼差しで彼女を見ていると、真木先生が「あ」と声を出した。


「そういえば校門当番、あんただったわよね? そろそろ閉めに行く時間じゃない?」

「え? あっ忘れてました! すみません!」


 言われるがままに腕時計を見て私は小さく叫ぶ。自分の持ち回りを忘れるなんて、今日の私はすっかり上の空でダメダメだ。

 私は持っていた出席簿を半ば押し付けるように真木先生に渡すと、慌てて校門の方へ駆けて行った。



※※※


 パタパタと足音を立てて校門に向かうと、ランドセルを背負った大勢の小学生達が揃って門をくぐり抜ける所だった。チラリと腕時計を確認し、門を閉める時間を確認する。よし、大体の生徒は登校してきたようだけど、あと十分くらいは開けておこう。


「あーあかり先生おはようー」

「おはようございます、よ。きちんと挨拶しましょうね」

「はーい」

「宿題はやってきた?」

「うん、やったー」


 元気よく朝の挨拶をしてくれる生徒達に声をかけながら、私もニコニコと相手をする。

 門をくぐって校舎に向かっていく色とりどりのランドセルを眺めていると、背後から誰かが近付いてくる気配を感じた。同時に「あかりさん?」と自分の名を呼ぶ低い声が聞こえる。ハッとして振り向くと、見慣れた顔がそこにあった。


「一ノ瀬さん!」

「やっぱりあかりさんでしたか。そうか、ここがあかりさんの勤める小学校だったんですね」


 そこにいたのは一ノ瀬さんだった。仕事中なのか、いつもの通りの青い警察官の制服をきっちり身につけた彼が顔を綻ばせる。

 小学校の校門に警察官がいるという状況の理解ができず、パチパチと目を瞬かせる私を見て一ノ瀬さんが軽く会釈をした。


「実は本日から小学校周辺の見回りが強化されまして。署の管轄がこの辺りになりました。本日から毎日、登下校の時間だけ巡回に伺いますね」

「あ、その件だったんですね。わぁすみません、ご挨拶が遅れてしまいました。本日から宜しくお願いします」

 

 小学校の見回りと言うのは、先程真木先生が言っていた巡回の件だろう。この学校に勤める教師として慌てて頭を下げると、一ノ瀬さんも警帽をとって返礼してくれた。 

 その後ろを、ランドセルを背負った小学生達がクスクス笑いながら通り過ぎていく。


「お巡りさんあかり先生の知り合いなの?」

「仲良さそう〜」

「お巡りさんカッコいいね」

「先生の彼氏だったりする?」

「コラ、お仕事で来てくださっているのにそういうこと言わないの」


 まったく、最近の小学生は高学年にもなると、誰それと付き合い始めたとか彼氏がとか一端の大人のような口を効き始めるから困りものだ。

 両手を腰にあててムッと口を尖らせると、今度は黒いランドセルを背負った男の子達がニヤニヤと笑いながら通り過ぎる。

 

「あかり先生まだ彼氏いないもんな!」

「俺の姉ちゃんより遅れてるよ〜」

「このままだとイキオクレになるんだろー?」

「そういえば、あかり先生はきょにゅーだってオレのにいちゃんが言ってたぞ」

「あなた達! 先生に対してそんな口の効き方をするものじゃありません!」


 まったくもう一ノ瀬さんの前でなんてことを言うのよ。最近の子供はなんておませなのか! 誰から聞いたのか、きょにゅーとかイキオクレとか変な言葉ばっかり覚えちゃって、男女の機微なんて知らないお子様のくせに。……まぁ私も知らないけど。

 などと小学生相手に心の中でブーブー文句を垂れていると隣にいる一ノ瀬さんが私を見てフッと微笑んだ。


「あかりさんは子供達に好かれているんですね」

「ええー? そう見えますか? もう、生意気なことばっかり言っちゃって」

「子供達の顔を見ればわかりますよ。ここの生徒は皆明るくて活き活きしている」


 一ノ瀬さんが校舎に入っていく子供達を見ながら優しく言う。目を細めて彼らを見守る温かい眼差しがなんとなく色っぽく見えて、私の胸が小さく音を立てた。慌てて一ノ瀬さんの端正な横顔から目をそらし、キュッと胸の前で両手を握る。


(やだなぁ、私まだ昨日のことを引きずってるのかも。もういい加減に忘れないと)


 あの目で見つめられたら、なんて一瞬思ってしまった自分が恥ずかしい。きっとイケメンと付き合い慣れている真木先生なら一ノ瀬さんとも平然とお話できるのだろう。あまり男性に耐性が無いまま過ごして来てしまったのも困りものだ。

 私は気持ちを切り替えるようにコホンと咳払いをすると、校門に手をかけた。


「見回りご苦労様でした。そろそろ時間ですので校舎に戻りますね」

「ええ、自分も先生としてのあかりさんが見られて良かったです。また下校時に伺いますね」


 そう言って一ノ瀬さんが敬礼をする。私も見様見真似で返礼しながら微笑んだ。


(また下校時に会えるのか。なんかちょっと嬉しいな)


 一ノ瀬さんがくるりと踵を返す。

 私はガラガラと校門を締めながら、大きな背中が雑踏の中に消えていくのをずっと見守っていた。

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