第二十話 石英 後編

 店を出た花梨たちが向かったのは、神社の境内で行われているフリーマーケットだった。

 ここを訪れたのは、石の店――セキレイ亭の出店を目指すに当たって、下見をする、というのが主な目的だ。この催しには槐の知り合いが運営として関わっているらしく、話の中で一度出店してみないか、と誘われたとのこと。柚子のアドバイスに従って、まずは事前に見ておいた方がいいだろう、ということになり、今回は客として来た次第だ。

 せっかくだからと百合を誘ったところ、二人で訪れることになった。茴香はアルバイトで来られず、椿には断られてしまったが、ちゃっかりお土産だけ頼まれている。

 そうしてやって来たフリーマーケットは、見るからににぎわっているようだった。店の数はそれほど多くはないが、定期的に行われているためか会場の雰囲気は和やかだ。

 槐の話によると、世間では石だけを取り扱ったフリーマーケットも行われているらしい。しかし、今回の催しについては、パンやお菓子などの食べものを売っている店もあれば、柚子が作っているような手作りのアクセサリーや小物を扱っているところもあって――と、特に制限はないようだ。

 とはいえ、こういった店の中だと、石の店は少し浮いてしまうような気もするが――まずは試しに、ということなら、規模としてはちょうどいいのかもしれない。花梨にとっても槐たちにとっても、こうしたところに店を出すのは初めてのことなのだから、とにかく、やってみなければわからないこともあるだろう。

 そういった事情もあり、今日のところはあくまでも楽しむために来たと思っていたのだが、あらかじめそのことを話していた百合は、会場に着くなりこう言った。

「今日は偵察ですよね。どういったところを見たらいいでしょうか?」

 偵察、は少し違うような気もするが――そうでなくとも、客である百合は出店のことを気負う必要もない。そう思った花梨は、苦笑しながら首を横に振った。

「そのことは気にしなくても大丈夫だよ。会場の雰囲気を知っておきたかっただけだから。百合ちゃんには、普通に楽しんで欲しいかな。ここに店を出す、って思いながら歩くだけでも、わかることがあるかもしれないし――」

 そのときふと、視線の先を見覚えのある人が横切った。花梨の目は無意識のうちにそれを追ってしまう。

 どこかで会ったことがあるような。しかも、その人は花梨が知らなければならないことに、何か大きな関わりがある――そんな気がする。

 そうした直感に後押しされて、花梨はその人が去った方へ思わず一歩踏み出していた。しかし、一緒にいる百合のことを思い出して、花梨はとっさに黒曜石を取り出す。

「ごめん。黒曜石。百合ちゃんをお願い」

「――花梨?」

 いぶかしげなその声に多少の負い目は感じつつも、花梨は黒曜石の鏃を百合に握らせると、すぐさまかけ出した。ぽかんとしていた百合が、置かれた状況に気づいて戸惑ったような声を上げている。

「え? か、花梨さん?」

 百合たちと別れることを心苦しく思いながらも、花梨はどうしてもその人を追わずにはいられなかった。とはいえ、その人と言葉を交わすつもりなら、百合は連れて行かない方がいいだろう。ただでさえ、こうすることが正しいことなのか、花梨にも確信が持てないのだから。

 だからこそ、黒曜石を手放すことにも不安はあったが、この状況で百合をひとりにしておくわけにもいかない。だとすれば、黒曜石と一緒にいてもらう方が、いくらか安心だ。

 思い思いに店を巡る人たちの間をすり抜けて、花梨は足早に歩いて行く。そうしてたどり着いたのは、にぎやかな会場とはうって変わって静かな広場。

 この辺りには店も並んではいない。どうやら裏方のようで、車がいくつか止まっている他は資材などが積まれているくらいで人影もなかった。

 見失ったかもしれないと不安になりながらも、花梨は辺りを探し始める。しかし、そうしてのぞき込んだ物影には、男がひとり、笑みを浮かべながら待ちかまえていた。まるで、花梨が追ってくることを知っていたかのように。

 ひと目見ただけでは、年の頃がわからない男性だ。老いてもないが、若くもない。ゆるく束ねた髪に、黒縁の眼鏡。黒い外套をまとった彼の名は――

「あなたは……時雨さん、ですよね」

 花梨は彼の姿を見るなり、そうたずねた。

 昨年の秋頃、なずなのもとに現れて幽霊退治を依頼した――桜が言うには――人とは外れた存在。しかし、あらためて彼の姿を前にしても、花梨にはやはり、そうした実感を抱くことはできなかった。ただ、はっきりとはしないまでも、普通とは違う空気をまとっているような――そんな気はする。

 彼は苦笑するでもなく、ただ静かに笑みを浮かべながら、こう返した。

「だから忠告したのだけどね。少しでもつながりがあると、こういうことがあるからいけない」

「すみません。どうしても聞きたいことがあったので」

 花梨がすかさずそう言うと、時雨はおもしろがるように小首をかしげた。

「聞きたいこと、ね。私はかまわないが……今後も、私のような者に関わるつもりなら、気をつけた方がいい。仲間うちではそうして知識や力を頼みにされることを嫌う者もいる。特に人目がある、このような場所ではね。まあ、そうではない者もいるが――」

 時雨はそこで、何かを思い出したかのように言い淀んだ。しかし、すぐに気を取り直したらしく、こう続ける。

「ともかく――私たちは人とは違うが、あくまでも人として生きている。とはいえ、君はもっと私たちのことを怖がらないといけないよ。私たちはやはり……鬼なのだから」

 戒めているようではあるが、時雨の表情はあくまでも楽しげだ。花梨はひとまずうなずいた。

「以後、気をつけます。ただ、槐さんも雨の名を持つあなた方には、悪い感情は持っていないようでしたから」

 いつかのとき、鬼のことを話していた槐が思い浮かべていたのは、昔話などに出てくるような恐ろしい鬼ではなく、彼らのことではないかと思う。だからこそ、彼に話を聞くことはできるだろうと、花梨は判断したのだが――対する時雨は、その言葉には苦笑した。

「ずいぶんと彼のことを信頼しているようだけれどね……そもそも、彼は私たちの本性など知らないよ。言葉さえ通じれば分かり合えるだろうとでも思っているのなら、その認識はあらためた方がいい。それとも――彼もまた、棗に似て怖いもの知らずなのかな」

 最後のひとことは誰に向けたものでもなく、彼のひとりごとだったようだ。時雨は自分の呟きに納得したようにうなずくと、花梨に向かってこう告げた。

「まあ、いいか。さて、何が聞きたいのかな。次の仕事まで時間がある。それまではお付き合いしよう」

「仕事?」

 花梨が首をかしげると、時雨は無言で近くにある立て看板を指差した。フリーマーケットはこちら、という案内とともに、催しものや企画など、いくつかの予定が記されている。

 時雨が差し示しているのは、その中の奇術ショーとある部分だ。花梨が思わず彼のことを見返すと、時雨は平然とこう答えた。

「私は今の世でも、奇術師をしているものでね」

 どうやら、彼がこのフリーマーケットに現れたのは、純粋に人としての仕事のためらしい。非現実だと思っていた存在の現実的な話に、花梨は何だか拍子抜けしてしまう。

 ともあれ、得体の知れない彼に話を聞くなら、この機会を逃してはならない。花梨は単刀直入にこうたずねた。

「なずなさんに幽霊退治を依頼した、あの事件のことなのですが。直接的な関わりはないにせよ、深泥池の噂がきっかけとして話題に上がっていたようなんです。あのときあなたが、はずれ、とおっしゃっていたのは、そのことではないですか? それはつまり――深泥池には、鬼が関わっているのでは……」

 時雨は感心したように、ほう、と声を上げた。

「どこでそんなことを知ったかは知らないけれども、近頃は情報を得るのも容易なものだね。これでは、情報屋も形無しだ」

 花梨は思わず首をかしげた。

 このことを花梨が知ったのは例のレポートからと、あとはインターネット上の情報を軽く調べただけなのだが――花梨がけげんな顔をしていることに気づいたのか、彼はにこりと笑いながらこう言った。

「失礼。仲間うちに、そういうことをしている者がいるというだけだよ。彼ならおしゃべりが大好きだから、嬉々として協力してくれるかもしれない。対価が払えれば、の話だが。ともかく――さて、どこまで話したものか」

 時雨は考え込むようにうつむいたが、ちらりと花梨に目を向けると、こう話し出した。

「君が考えているとおり、深泥池の――というより、土蜘蛛には雨のひとりが関わっている。五条の件は直接関わってはいなかったようだが――まあ、元をたどれば彼女のせい、とは言えるかな」

「どういうことでしょう」

 花梨はすぐさまそう返したが、時雨は花梨のことを見つめるばかりで答えを返しはしない。その代わりに、こんなことを問い返した。

「そうだな。それでは、まず――君は、鬼というものがどういう存在かを知っているかい?」

 あまりにも唐突な問いかけに、花梨は戸惑い、言葉を詰まらせた。その話が深泥池の件と何か関係があるのだろうか。

 とはいえ、相手から話を引き出すためには、この問いに答えないわけにはいかないだろう。どう答えるべきか――迷いながらも花梨はこう返す。

「そうですね……もとは目には見えない、得体の知れないものを指していて、今ではいわゆる異形の化け物のようなものだと理解されている。しかし、その名はまつろわぬ者たちや、異分子が負わされた名でもある――と」

 ほとんどが槐からの受け売りだ。しかし、そんなことを相手が知るはずもなく、時雨はただうなずいた。

「概ね間違ってはいない。そもそも、鬼という言葉が指すものは時代によっても変わっているから、一概にこうだと断定できるものではない。ただ――そうして長い時を経て得た、鬼の本質というものはね。つまるところ、人の形をした人ではないもの、なのだよ」

「人の形をした、人ではないもの?」

 花梨は思わず、そうくり返した。時雨は淡々とこう続ける。

「人は人であるために、人には似ていても、人から外れたものを鬼と呼ぶのだ」

「人が、人であるために……」

 花梨がそう呟くと、時雨はどこからともなく一枚の札を取り出して見せた。花札かと思ったが、見たことのある絵柄とは少し違っている。描かれているのは、番傘を差した人影。柳の札、だろうか。

「そもそも、人は鬼になれるものだ。嫉妬によって自ら鬼になった宇治の橋姫はしひめ。執念のあまり人を食らった安達ヶ原あだちがはらの鬼婆。そうした話は少なくはない。今でも、人に外れた行いをする者を、例えば――殺人鬼、なんて言い方をするだろう?」

 時雨は手にした札を指で弾いた。すると、それは一瞬のうちに赤い鬼の絵柄へと変わる。

 ぽかんとしてしまった花梨に、時雨はにこりと笑いかけた。

「しかし、そうして鬼となったものを、人は人として認めるわけにはいかないものだ。まつろわぬもの、嫉妬に、怨念に、妄執に狂ったもの――恐ろしいもの。それらに取り込まれぬように、人はそこに線を引く。鬼とは、人の中にある暗部。それが自らの中にあるにしろ、他人の中に見いだすにしろ、ね。だから、鬼というものは――正しく恐れなければならないものなのだよ」

 時雨はそういうと、手元の札を忽然と消した。そうしてからになった手を、ゆっくりと開いて見せる。

「さて、なぜこんな話をしたのかというと……私たちは人と言うには人から外れているが、それでいて、鬼と呼ぶには人となじみすぎている。が――彼女に関しては、今でも鬼という呼び名が相応しいと、私は思っていてね」

 そう言うと、時雨はいくらか声を落としてから、こう告げた。

「土蜘蛛と天狗の両者に因縁を持つ鬼――彼女の名は樹雨。百年前に八雲家の者を使ってひと騒動を起こした鬼だ。それを音羽の者が阻止した。因縁はそこから。それを発端にして、彼女は音羽を恨んでいる。今回のことも、それが起因になっているようでね」

 百年前。花梨はその言葉にはっとする。

 確か、黒曜石を始めとする不思議な力を持つ石たちを目覚めさせたのは槐の曾祖父、とのことだった。だとすれば、そのことにも何か関わりがあるのだろうか。

 花梨が考え込んでいる間にも、時雨はこう続ける。

「ただ――彼女の行いは、例えるなら山の頂から小石を落とすようなもの。そうして転がった先で何が起ころうとも、彼女が責を負うことはない。たとえ、その惨状を見た彼女が、そのことをどう思っていようとも」

「どう思っていようとも?」

 思わずそう問い返した花梨に、時雨は珍しく悲しげな笑みを浮かべてみせる。

「今の世に人と外れた存在が人にまぎれて生きているのは、要するに皆、人のことが好きだからだ。しかし、その点について樹雨は少し――歪んでしまっていてね」

 時雨はそう言うと、ふいに左手にある腕時計に目をとめた。仕事の時間が近いのかもしれない。

「ともかく――故あって私は彼女の動向を調べてはいたが、これは人の領分ではない。それだけは理解しておくことだ。君の力で彼女をどうこうすることはできない。君が追うとすれば……恐らく、彼女が転がした小石の方になるだろう」

 その言葉に、花梨は思わず顔をしかめた。百年前から続くという彼らの因縁。鬼という存在。確かに、ただ姉を探したいと思っているだけの花梨にとって、それは重すぎる話だ。

 それでも、花梨はあの店に迷い込んで、槐に――そして石たちに救われている。だからこそ、無関係だと切って捨てられないような、そんな気もしていた。

 ともかく、深泥池の件には、まだ見えていない何かがあるのだろう。しかも、それについてはどうも、花梨にとっては関わることすら危うい存在らしい。そのことだけは、心にとめておく。

「わかりました。いえ――すぐに納得できることではありませんが、人知を越えた何かがあり、それが危険だということだけは覚えておきます」

 時雨はその言葉にうなずいた。

「それでいい。音羽にも土蜘蛛にも、彼女をどうにかすることはできない。しかし、彼女の落とした小石に対処する力くらいはあるだろう」

 そう言って時雨は花梨の顔をじっと見たかと思うと、なぜかふいに苦笑した。

「少し話しすぎてしまった気もするな……私はね、人の世でただおもしろおかしく日々を過ごしたいだけなのだよ。昔であれば、私も時の人を相手にいろいろと無茶をしたものだが――今はもう、そんな時代でもない。樹雨の振るまいは時代にそぐわない。その点については、私も苦々しく思っていてね。とはいえ――」

 時雨はそこで花梨から目を逸らすと、肩をすくめた。

「私は彼女を咎める気などさらさらないよ。彼女に恨まれては面倒だからね。だからこそ、君たちが彼女にひと泡吹かせてくれることを期待しているところもある」

 何とも自分勝手な言い分だ。しかし、これが彼の本音なのだろう。花梨にいろいろと話してくれたことも、ただの親切心ではないらしい。

 それでも、これは花梨自身が望んだことだった。だからこそ、花梨は彼に向かって頭を下げる。

「お話していただき、ありがとうございました。私には、わからないことだらけですから」

 時雨はその言葉にふむとうなると、明後日の方向に目を向けながら、こう言った。

「どうだろうね。君は樹雨に会うことになるのかな。ひとつ忠告をしておくとすれば、君が伴っていた、あの烏石からすいし――」

「……黒曜石のことですか?」

 黒曜石はここにはない。しかし、時雨にはこの会場のどこかにあるということがわかるのだろうか。

「そう。あれが向かう先には、常に注意を払っていた方がいい。あれはそれなりの力を持っているが、だからこそ危ういところもある。きちんと君が御すことだ」

 そう言うと、時雨は花梨から背を向けた。そして、右手を上げて――別れの仕草をしながら、振り返ることなく遠ざかって行く。

「何にせよ、鬼とは関わらない方がいいということだけは忘れずに。関わるにしても、人と同じなどとは思わないことだ。まあ、それを私が忠告するのも、妙な話ではあるのだけれどね」

 それだけを言い残して、彼はその場から立ち去った。


     *   *   *


 そろそろ出てくる頃だろうと思って、桜は例の部屋の前で空木のことを待ちかまえていた。手にしたお盆の上には、すでに熱いお茶を淹れた湯のみがふたつ乗せられている。

 ほどなくして現れた空木に向かって、桜は目線でついて来るように促した。向かう先はいつもの座敷で、招かれた空木は待っていた槐とは言葉を交わすこともなく、早々に座卓を挟んだ向かい側へと座る。そうしているうちにも、桜は給仕を終えて槐のとなりに控えていた。

 湯のみは手をつけられることもなく、ただ白い湯気を立ち上らせている。どこか張り詰めたような空気の中、話を切り出したのは槐の方だった。

「さて。あなたがこの店を訪れたそもそもの理由は、ある人の呪いを解く方法を探していた――とのこと。こちらで、間違いありませんね?」

 空木がうなずくと、槐はこう続けた。

「その人は、鷹山エリカさんではありませんか?」

 行方不明となった花梨の姉。槐がその名を告げたとき、空木は目を見開いたような気がしたが――その表情もすぐに苦笑いへと変わっていた。

「あなたはいったい、こちらのことをどこまで知ってるんです?」

 空木の視線を真っ直ぐに受け止めながらも、槐はこう話し出す。

「私が知っていることは、そう多くはありません。エリカさんはある日突然、書き置きだけを残して姿を消した。その理由については定かではありませんが、いなくなる直前に彼女の身辺では奇妙なできごとが起こっている。木に貫かれるという、不可思議な状況でご友人が亡くなった、と――」

 待った、と空木は槐の話をさえぎった。

「木に貫かれてって……そう主張しているのはエリカさんだけで、その話を知っているのも警察の――それも、一部くらいだと思ってたんですがね。死因としては、原因不明の突然死となっていたはず。そのことを、どうしてあなたが?」

 険しい表情を浮かべる空木に対して、槐は平然としながらも、ふむと呟く。

「その話については初耳ですね。事件についての記事を探しても、該当のものが見当たらないと思っていたのですが――なるほど」

 槐はうつむき、しばし考え込んでいたようだが、ふいに顔を上げたかと思うと、あらためてこう呼びかけた。

「延坂さん」

「空木でいいですよ」

 そう返した空木に向かって、槐は素直にうなずく。

「わかりました。では、空木さん。だとすれば――やはり、あなたの知っているエリカさんは、私どもの探している方で間違いないでしょう。私がこのことを知ったのは、鷹山花梨さん――エリカさんの妹さんにうかがったからです」

「妹さん?」

 その発言には、空木も驚いたような声を上げた。思いがけない答えだったのだろう。戸惑った表情を浮かべながらも、空木はこう問いかける。

「でも、エリカさんのご実家って、長野とかじゃなかったですか?」

「お姉さんを探すために、こちらに進学されたそうです。何かの当てがあるわけでもなく、その奇妙なできごとについても、くわしく知っているわけではないようですが……」

 槐がそう答えると、空木は大きくため息をついた。

「そう、ですか。ご家族ね……こちらとしても、無事くらいは知らせた方がいいだろうとは思ってたんですけど。それについては、本人がひどく嫌がるものだから。まあ、知らせるにしても――おたくの娘さんは無事ですが、呪われているようなので会いに来ないでください――なんて、言えますか?」

 言い訳めいたことを口にしているという自覚はあるのか、空木はどこかばつの悪そうな表情を浮かべている。その言葉には難しい顔をしながらも、槐はこう問いかけた。

「そもそもなぜ、彼女はあなたのもとに?」

 空木はうーんとうなったかと思うと、考え込むように腕を組んだ。

「何から話したらいいですかね……まず、俺が彼女と会ったのは、その人死ひとじにがあった現場です。あまり大きな声では言えませんが、その頃ちょっと、記事のネタに困っていたもので……いや、普段はそんな事件なんかは取り扱わないんですけど――まあ、それはいいとして」

 空木はそこで、わざとらしく咳払いをした。

「その場所に、ちょうどエリカさんも来てたんですよ。ものすごく思い詰めているらしいことは、見てすぐにわかりました。それで、こちらからいろいろと事情を聞いてみたんです。そうしたら」

 空木はそこで、何かをはばかるように声の調子を落とした。

「本人が言うには――自分には近づかない方がいい。自分は呪われている。周りを不幸にする。みんな、自分のせいだって」

 空木は槐の反応をうかがうように、ちらりと視線を向けた。しかし、槐がやはり考え込んでいるらしいことを見てとると、肩をすくめてこう続ける。

「実のところ、こちらもそれ以上の事情について、たいしたことは聞けてないんですよ。ただ、放ってはおけなかったので、実家が寺であることをいいことに、うちに来るよう言いくるめたんです。そのときは呪いなんて、信じてはなかったですし、そうでなくとも、放っておけば――それこそ失踪するか、思い詰めた末に――なんてことも有り得なくはないと思ったものですから。ともかく、いろいろあって――今は離れで暮らしてもらってます」

 その言葉に、桜は思わずほっとする。その話を信じるなら、花梨の姉はどうやら無事ではあるらしい。とはいえ――

「周りを不幸にする、ですか。それがエリカさんの危惧している呪いだ、と。具体的には、どういったことが起こるのでしょう。あなたから見ても、彼女は呪われていると思われますか」

 その問いかけに、空木は顔をしかめながらもこう答えた。

「たとえ身近で悪いことがあったとしても、それを軽々しく、誰のせいだとか言いたくはないんですけどね……ただ、彼女が来てから小さな事故にあったり、母親が入院したりと――いや、大事には至らなかったんですけど――悪いことが立て続けに起こったことは確かです。そうでなくとも、本人がひどく怯えていて。誰にも迷惑はかけたくない、特に、今はご家族には会いたくない、と――」

 空木のそんな話から、桜はふと、かんかん石のことを思い出していた。

 かんかん石の呪いによって傷を負いながらも、家族にはそのことを隠していた花梨。空木の話からすると、花梨の姉もまた、周囲に害が及ぶことを恐れたからこそ自ら姿を消したのだろう。

 姉妹だからだろうか。そういうところは似ているのかもしれない。とはいえ――

 だからこそ、彼女たちのすれ違いはもどかしくも思える。花梨には、この事実をどう伝えるべきだろうか。無事であることを知らせた方がいいとは、思うのだが――

「空木さんは、以前にこうおっしゃっていましたね。木の呪い、と。どうして、そう思われたのですか?」

 木の呪い。空木は解いて欲しい呪いのことを、そう呼んでいたらしい。とはいえ、彼は呪いのことなどよく知らないだろうから、それがどこまで核心を突いたものかはわからないが。

 それは、木にまつわる何らかの怪異なのか。それとも――

 しんとした静けさの中、木、という言葉にはっとした空木は、何かを思い出したように顔をしかめた。槐と桜が見守る中で、空木はためらいつつも、こんなことを話し出す。

「そういえば。あー……ちょっと小耳に挟んだことで、関係しているかどうかはわからないんですけど。その、確か――ケイカボク、がどうとか」

珪化木けいかぼく、ですか」

 槐はすぐさまそう返した。

「知ってるんですか?」

 慌てて問い返す空木に、槐は平然とうなずく。

「ええ。珪化木は、石ですから」

 その答えに、空木はぽかんとした表情を浮かべながら、間の抜けた声を上げた。

「は? 石? 木、なのでは?」

 槐は首を横に振る。

「石です。珪化木あるいは木化石ぼっかせき。英語名はペトリファイドウッド。つまり、木の化石ですね。土砂に埋もれた木が周囲の圧力によりケイ素と酸素を取り込むことで、長い時を経て、元の形のまま二酸化ケイ素に変化したものです。ですから、鉱物としては石英、あるいは蛋白石――オパールに近い場合もあります。この言葉を、どこで?」

 空木はしばし言い淀んだあと、ため息をついたかと思うと、何かを諦めたかのように渋々とこう答えた。

「国栖の葉と名乗る女性が言っていました。自分には手に負えない、とか何とか」

「要するに――この件にも、くもが関わっているということだろう」

 そう言ったのは、この場で顔を合わせていた誰の声でもなかった。

「碧玉」

 槐は声のした方を振り返りながら、その名を呼ぶ。

 突然現れた碧玉の姿に、空木はぎょっとした顔で仰け反った。碧玉は冷ややかな目でそれを見下ろしていたが、空木は意外にも怯むことなく、どこか呆れたような表情で見返している。

 おもしろくもなさそうな顔でふんと一笑して、碧玉は槐へと向き直った。

「それで? どうするつもりだ。槐。また面倒ごとに首を突っ込むつもりじゃないだろうな。深泥池の件といい、いつまでこんなくだらないことにつき合うつもりだ」

「そうは言ってもねえ。このまま放っておくわけにもいかないと、僕は思うよ。そんなこと、碧玉くんにだって、わかっているだろうに」

 と真っ先に意見したのは石英だ。いつのまにやら縁側に座って、つまらなそうに庭をながめている。

 さすがにこれ以上は黙っていられないと、桜も思わず口を開いた。

「そうですよ。花梨さんのお姉さんですよ? くもに関係しているからって、今さら手を引くなんてあり得ないでしょう」

 立て続けに責められて、碧玉はあからさまに苛立っていた。かと思えば、唐突にその指先を空木へと突きつける。

「だったらそいつに調べさせろ。何のために引き入れたんだ」

 碧玉の冷たい視線をうろんな目で受け止めながらも、空木は慣れた様子で平然と話を元に戻した。

「ともかく。エリカさんの呪いをどうにかする、って方針は一致してるってことでいいですかね。それについては、俺からもお願いしたいところなので、異論はありません。俺にできることであれば、何でもしますよ」

 初めて会ったとき、桜は空木のことをうさんくさい人物だ、と思ったのだが――その印象は、彼の内面のすべてではなかったようだ。他人である花梨の姉のために行動しようとする辺り、そう悪い人物ではないのかもしれない。

 桜がそんなことを考えているうちにも、空木は槐に向き直ると、それから――と、思い出したようにこう話した。

「とにかく、妹さんの方には、エリカさんの無事だけでもお知らせいただけますかね。それについては俺が保証しますので。あなたから伝えていただけるなら、呪いのことも納得してもらえるでしょうし」

 空木のそんな申し出に対して、槐は思いがけずこう答えた。

「いえ。実は、ひとつ確認したいことがありまして。ただでさえ、その呪いについては今のところ何もわかっていませんから。伝えるのは、それを見定めてからでもかまわないかと……」

「え? それって、すぐに知らせないってことですか?」

 桜は驚きのあまり、槐にそう詰め寄った。桜が顔をしかめているのを見て、槐は珍しくばつの悪そうな表情を浮かべている。

 とはいえ、桜も槐とは長いつき合い――というか、生まれたときから知っている――のだから、彼の考えるようなことは、何となくではあるがわかっていた。どうせこの期に及んで、呪いをどうにかした上でふたりを引き合わせられないか、とか考えているに違いない。そうやって、勝手に何もかもを背負い込もうとする、厄介なところが槐にはある。

 とはいえ、この件では桜も引くわけにはいかない。槐の思いはともかくとして、花梨が必死の思いで姉の行方を探していたことを、桜はよく知っていたからだ。

 そんな考えもあって、桜が責めるような視線を向けていると、槐は苦笑を浮かべながらこう言った。

「いろいろとわかったこともあるからね。石の呪い、となるとやはり、くもが関係していることは間違いないだろう。だからこそ、あらためて確認できることもあるんじゃないかと思ったんだ」

 桜が口出しするより前に、その言葉に反応したのは空木だった。

「くもってのは、国栖の葉のことですか」

 出端をくじかれて、桜は思わず口を閉ざした。その間に、空木はこう続ける。

「しかし、彼女はその――深泥池の噂、ですか? その件については、この店のせいだと思っていたようですけど。宇治だったか……そこに行ったら封が解かれていたとか、自分には御せないとか、何とか――」

 槐は空木の方に向き直ると、考え込むような顔になる。

「宇治の宝蔵、ですね。では、天狗の爪石は彼女か……しかし、それ以前にも訪れたものがいるようだ、と。珪化木のことも含めて、やはり浅沙さんにはもう一度、確認しなくてはならないようですね」

「その、浅沙ってのは?」

「深泥池の件に関わっていた人物で、彼はもともと、くもの家にいたようです。そして、どうやらある程度は呪術が使えるらしい」

 浅沙のことは何の気なしにたずねたらしい空木だが、槐の答えには、すぐさま表情をくもらせた。

「ん? 待ってください。呪術が扱えるってのは、確か……」

 空木が言い切るより先に、槐は何もかもわかっているかのようにうなずいた。

「ええ。彼はおそらく――」

 ふたりの会話に業を煮やした桜は、槐が言い淀んだのを見て、ここぞとばかりに口を挟んだ。

「待ってくださいよ。槐さん。それで、花梨さんの件はどうなるんですか。話を逸らさないでください」

 花梨のことについては、碧玉も石英もあまり口出しするつもりはないらしい。ならば、桜が言い出さなければ、この件はうやむやになってしまう。

 そんな桜の意気込みに気圧されたのか、槐は少しだけたじろぎながら、こう返した。

「とにかくもう一度、浅沙さんに確認したいんだ。エリカさんが見つかったことを知れば、彼も何かを話してくれるかもしれないからね」

「でも、話してくれるとは限りません。もしも、あの人が口を割らなくても、それが終わったら、ちゃんと知らせると約束してくださいよ」

 桜がそうして念を押すと、槐は苦笑を浮かべながらも、うなずいた。

「もちろん、そうするよ」

 やりとりをながめていた空木は、頃合いを見計らって、こう声をかける。

「妹さんの方は、俺も人となりがわからないんで、その辺りはお任せしますよ。エリカさんの方には――妹さんのこと、今は伝えない方がいいでしょうし。呪いで誰かを傷つけることを、何より怖がっていますから。少なくとも、それをどうにかしない限りは……」

 空木の言葉に、桜は思わず顔をしかめた。

 周囲に不幸をもたらす呪い。せっかく行方がわかったというのに、花梨が本当の意味で安心することができるのは、まだ先のことになりそうだ。桜でさえ、ほんの少し気落ちしている中で、先行きの見えない不安からか、槐もまた黙り込んでいる。

 しかし、そんな状況であっても、空木はどこか能天気な声でこんなことを言い出した。

「ともかく、こちらとしては、少しでも光明が見えたのなら御の字ですよ。あとは、深泥池の噂ですか? いや――そちらはすでに解決したんでしたか。確か、エリカさんも一度そこに行ったことがあるって言ってたような……しかし、いろいろありますね、深泥池。呪いの噂に、神隠しに――」

「神隠し?」

 聞き慣れない言葉に反応して、槐は空木の話をさえぎった。しかし、空木の方は無意識のうちに話したことだったのか、自分でも驚いたように首をかしげている。

「神隠しというか、事件というか――ああ、でも……そうか。あれは直接、深泥池に関係しているわけじゃないですね。そもそも、呪いの噂よりも前のことだったので、関係ないかと思って忘れてました」

「それは、どういった?」

「小学生の女の子が、行方不明になったあと、遺体で見つかったって話で――どうして深泥池と結びついたんだっけな――そうだ。知り合いで、その手の話が大好きな人がいましてね。くわしいんですよ。そのせいで、オカルトの記事なんかたまに書かされるんですけど――それはいいとして。その女の子が住んでいたのが深泥池の近くで、周辺で遊んでいたはずなんですが、遺体が見つかったのは全く別の場所で――」

「もしかして、貴船ですか?」

 槐がまさしく指摘したことを驚きながらも、空木はその問いかけにうなずいた。

「そうです。小学生がひとりで行けるような場所じゃないってことで、誘拐の疑いとかでも捜査したらしいですけど、今のところ犯人は捕まっていないとか。そもそも、無理矢理連れ去られたような形跡もなかったそうですし。迷い込んで、そのまま帰れずにって感じだったみたいです」

「だとすれば、鬼の道……か」

 槐の呟きに、空木は首をかしげている。

「鬼の道? 確か、社長もそんなこと言ってたな。オカルト好きにはわかる話なんですかね? 深泥池の呪いの噂より前は、むしろその神隠しが目当てで肝試しするやからも、けっこういたみたいで。実際に亡くなっている子がいるんだから、おもしろ半分で見に行くようなことじゃないと思うんですけどね」

「いや――その話は、なかなかおもしろい」

 唐突に声を上げたのは石英だった。その場にいた誰もが、彼のことを注目する。

 縁側で座ったまま、石英はにやりとした笑みを浮かべて、空木の方を振り向いた。

「貴船、ね。いいじゃないか。空木。槐がくもから話を聞き出しているうちに、君にはその件を調べてもらうとしよう」

 石英には、何かが見えたのだろうか。それとも――

 鬼の道。桜はその言葉に不安を覚えたが、石英と結託することを選んだらしい空木は、彼の突然の思いつきにも、どこか不敵に笑ってみせた。


     *   *   *


 境内を歩いていた百合の姿を見つけて、花梨は彼女のもとへとかけ寄った。そのうち百合も花梨のことに気づいたらしく、ほっとした表情を浮かべながら立ち止まる。

 百合の前に立つなり、花梨はこう言った。

「ごめんね。知り合いの姿が見えたから、どうしても確認しておきたいことがあって。大丈夫だった?」

「はい。私は大丈夫です」

 百合は力強く答えたが、別の声は何かを言いたげに小さく呟く。

「花梨……」

 黒曜石の声だ。とはいえ、彼が怒るのも無理はないだろう。あとでもう一度、くわしい説明をしておいた方がいいかもしれない。そうでなくとも、先ほど聞いた話の内容については、あらためて確認したいこともある。

 そんなことを考えていると、百合がおずおずと声を上げた。

「あの」

 百合は少しだけ言いにくそうに、こう続ける。

「行方不明のお姉さんの話。聞きました。その……大変ですよね。うちも、ムクがいなくなったときは大変でしたから。私にも何かできればいいんですけど」

「ムク?」

 花梨が問い返すと、百合はすぐにはっとして顔を上げた。そこには愕然とした表情が浮かんでいる。

「その……小さい頃から飼っている犬です……いっしょにしちゃダメですよね。すみません……」

 自分の発言を失言だと思ったのか、百合は悄然とうつむいている。しかし、花梨は首を横に振ると、やさしくこうたずねた。

「ムクは、無事に帰ってきたの?」

 その問いかけに、百合は大きくうなずいた。

「はい。雷の音にびっくりして走って行っちゃっただけですから。大きい犬なんですけど。臆病で……」

 花梨はその答えに、思わず笑みを浮かべていた。

「そっか。なら、よかった」

 そんな言葉にも、ただ気をつかわせただけだと思ったのか、百合は小さく縮こまっている。しかし、花梨は彼女のことを変に気づかったわけではない。本当に、心の底から言葉どおりのことを思っていた。

 大切な存在がいなくなることは、悲しいことだ。それについて、どちらの方が大事だとか、比べることなどできないだろう。百合はむしろ、花梨の状況を自分のことのように考えてくれたのだと思う。そのことが、花梨にとっては何よりもうれしかった。

 行方不明の姉のことは黒曜石に聞いたのかもしれない。本当のところは、この件で百合に心配はかけたくなかったのだが、皆が知っていることなのだから、あえて隠す必要もないだろう。

 ともかく、そうして合流した花梨たちは、あらためてフリーマーケットを見て回った。すでに多くの店を訪れていたらしい百合は、その内容を花梨にあれこれと教えてくれる。

 花梨がいなくなったことで、自分が目的を果たさなければならないとでも思ったのかもしれない。気負わせてしまったことを、花梨はひそかに申し訳なく思う。

 ひと通りの店を見終えた頃、何かを見つけたらしい百合がこう言った。

「人が集まってますね。イベントが始まるみたいです。行ってみましょうか」

 百合が指差した先には確かに仮設の小さな舞台があり、その周囲には人だかりができていた。そういえば、時雨は奇術師として、このフリーマーケットに来たと言っていたような。だとすれば――

 案の定、舞台の傍らには時雨の姿があった。人にまぎれて活動している、という話は本当らしい。今はどうやら、これから行われる演目の準備をしているようだ。

 その様子を人垣越しに見ていると、ふいに時雨と目が合った。同時に、そこにいる人物の正体に気づいたらしい黒曜石が、花梨にだけ聞こえるほどの声で呟く。

「彼は――」

 視線の先では、時雨がなぜか、花梨に向けて意味深な笑みを浮かべている。そう思った、そのとき――

 唐突に大粒の雨が振り出した。ざっという音とともに、独特の雨の匂いが立ち上る。

 百合は驚いて、空を見上げた。

「わ。お天気雨? でも、この辺りは降ってないですよね……」

 空は雲ひとつない晴天だ。それでいて、水滴が落ちてきた場所は――奇妙なことではあるが――ごく一部だけらしい。それも、ちょうど舞台の前の辺り。集まっていた人たちは、突然の雨に驚いて、その場を逃れて行く。これは、まさか――

 花梨が思わず時雨の方を見ると、彼はにこやかな顔で手招きをしてみせた。そうして、舞台の前を指で差し示す。

 そうしたやりとりには気づいていない百合が、視線を舞台の方へ戻してからこう言った。

「もう上がっちゃいましたね……雨。あ。花梨さん。今なら前まで行けますよ」

 開演を待ってその場に並んでいたはずの人たちの姿は、今はもうまばらになっている。百合に手を引かれて、花梨はそこまで歩いて行った。

 足元は少しぬかるんでいるが、通り雨ということで演目は時間どおりに始まるらしい。花梨たちは、思いがけず間近から見られることになったが――やはりこれは、時雨が何かをしたからだろうか。花梨は思わず周辺を見回したが、特に変わったところはないようだった。

 ほどなくして、舞台上では時雨による奇術のショーが始まる。内容はカードやコインを使う、よく見る手品のようだ。

 百合はそれを純粋に楽しんでいたようだが、花梨はどこまでが――桜が以前に言っていた――でたらめで、どこまでが本当の手品なのかと――そればかりが気になって、どうにも楽しめずにいた。知らなければならないことがある一方で、知らずにいた方がいいこともあるのだろう。

 雨上がりの空気の中、目の前で次々に行われる不可思議な術を見ながら、花梨はぼんやりと考え込む。

 いつかの日に告げられた石英の言葉。あるいは今日の時雨の忠告。深泥池の噂には、花梨がまだ知らない何かが隠されている。それを知ることは危険なことなのかもしれない。それでも。

 もしも、そのことが姉に関わっているのであれば、花梨はどうしてもそれを知りたい――いや、知らなければならない。そんな気がしていた。

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