第十二話 碧玉

 店の前に誰かがいた。

 周囲に人影はない。通りにいたのは、花梨を除けばその人だけだった。

 店に入ろうというわけではないのか、格子戸からいくらか離れたところで――しかし、間違いなく店を正面に見据えて、その人は佇んでいる。

 なずなのときとは違ってその立ち姿には隙がなく、どこか近寄りがたい。花梨はその人に声をかけることはもちろん、気づかない振りをして店に近づくことすらためらった。

 年の頃は二十の後半くらいだろうか――女の人だ。店と無関係だとは思われないが、それでいてなぜ、この人は――まるで仇でも見るかのように、槐の店をにらみつけているのだろう。

 そのうち、相手の方は花梨のことに気づいたらしい。ふいに、鋭い視線をこちらに向けた。

 見覚えのない顔。花梨に見られていたことを知れば何か反応するか、そうでなくとも表情を取り繕うくらいはするかと思ったが――彼女はむしろ、よりいっそう憎々しげにその顔を歪ませた。

 嫌な感じがする。どうして、こんなにも刺があるのだろう、と思う間もなく、その人は踵を返した。彼女は振り返ることなく、その場を去っていく。

「あの人……お客様、じゃないよね」

 花梨の呟きに、黒曜石は判じかねたように曖昧な声を上げた。言い知れぬ不安を抱きながら、いつもどおり店の戸を開ける。

「今の女」

 低い、威圧するような声に、花梨は思わず歩みを止めた。

 通り庭の中ほど。まるで立ち塞がるように見知らぬ青年が立っている。ひどく不機嫌そうな表情で、彼はさらにこう続けた。

「何者だ――?」

 深緑の目と髪。一瞬、花梨は翡翠の姿に似ていると思ったが、立ち姿はともかく顔立ちは似ていない。彼は、もしかして――

 花梨は逡巡しながらも、口を開く。

「いえ、私は――その、お客様かと思ったんですが……」

 今の女、というのは、先ほど店の前にいた人のことだろう。しかし、花梨には彼女の正体などわかるはずもない。

 それ以上、どう答えていいかわからずに花梨が戸惑っていると、黒曜石が声を上げた。

「碧玉」

 やはりその名を呼びかけながら、黒曜石は目の前に姿を現す。それを見て、碧玉は忌々しげに顔をしかめた。

「おまえは何も気づかなかったか。黒曜石」

 黒曜石は黙っている。何も気づかなかったのか、とはどういうことだろう。彼はいったい何に気づき――何に怒りをあらわにしているのか。

 碧玉と黒曜石はしばし無言で向き合った。先に視線を逸らせたのは碧玉だ。

「……まあ、いい」

 そう言って、文字どおり姿を消してしまう。

 花梨は呆気にとられていたが、黒曜石に、すまない、と声をかけられて我に返る。そのとき、視線の先で桜がおずおずと顔を出した。

「何を隠れている。桜石」

「いや。だって、碧玉さんが急に出てきたので……」

 黒曜石の呼びかけに、桜はばつが悪そうな顔で言い訳した。とはいえ、確かに碧玉のあの迫力は、さわらぬ神に祟りなし、ではないが、あまり関わりたくないという心情もわかる気がする。それにしても――

「何かあったのかな? さっきのが、碧玉さん、なんでしょう? 怒ってたみたいだけど……」

 花梨が問いかけると、黒曜石と桜は顔を見合わせた。どちらも言いにくそうな表情ではあったが、ため息とともに口を開いたのは黒曜石だ。

「花梨。碧玉のあれは――いつものことだ。特別気分を害していたというわけではない……おそらくは」

「まあ、少しぴりぴりしてた気はしますけど」

 花梨はけげんな顔で目をしばたたかせた。どう見ても怒っているようにしか見えなかったからだ。

 桜は気を取り直して、いらっしゃい花梨さん、といつもの挨拶をする。それから、恐縮した様子でこう切り出した。

「それで。ええと……花梨さんは、もしかして槐さんにご用ですか? 申し訳ないんですけど――」


     *   *   *


 花梨をその場で待たせると、桜は急いで槐のもとへと向かった。

 今頃なら、おそらく身支度をととのえているところだろう。この日の槐は、珍しく外出の予定があるからだ。

 とはいえ、出るまでにはまだ時間があった。少し声をかけるくらいなら、問題はあるまい――そう思って、桜は自室にいた槐に花梨の来訪を伝える。

 それを聞いた槐は、いつもの着物に羽織りを重ねた姿で通り庭まで出て行った。花梨を前にして、槐は頭を下げながらこう告げる。

「これから約束がありまして、今日は店を閉めなくてはならないのです。わざわざ来ていただいたのに、申し訳ありません」

 花梨は慌てたように首を横に振った。

「いえ。こちらこそ、すみません。いつも急に来てしまうので……ただ――」

 かしこまっていた槐が顔を上げたことを確かめてから、花梨あらためてこう切り出す。

「少し、ご相談したいことがあって。近いうちに、またうかがってもいいでしょうか」

 槐はその問いかけにうなずいた。

「ご都合のよろしい日をおっしゃっていただければ、その日は予定を空けておきましょう」

 そもそも、この店が忙しいことなどほとんどない。約束の日時はすんなりと決まった。

 しかし、話はそこで終わらずに、花梨はさらにこうたずねる。

「それから、これは別件なんですが……その、椿ちゃんはいますか? もしよければ、今日のお祭り、一緒にどうかと思いまして」

「お祭り……ああ。今日は時代祭じだいまつりでしたね」

 時代祭。祇園祭、葵祭に並ぶ京都三大祭のひとつだ。

 明治維新から平安時代まで――つまり京が都だった時代――の衣装を着た人や、その時代の偉人に扮した人たちの行列が、京都御所を出て街を回り、平安神宮までを練り歩いていく。明治時代から始まった祭りなので、祇園祭や葵祭に比べると歴史は浅い。

「椿なら奥の座敷にいますよ。私も出るまで、まだ少し時間がありますので――どうぞ」

 槐はそう言うと、花梨の先を行き坪庭まで招き入れた。縁側越しに座椅子で本を読んでいる椿の姿が見えたので、槐はそこから声をかける。

「椿。鷹山さんが、お祭りに誘いにいらっしゃったよ。行ってきてはどうだい?」

 案の定、椿はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。

「あんな地味な祭に……? 屋台もないし。見ても特におもしろくも何もないでしょ。屋台もないし」

 その答えを聞いて残念そうな表情を見せたのは、花梨よりもむしろ、槐の方だった。その顔を前にして、椿は諦めたように大きくため息をつく。

「まあ、いいけど。槐も出かけるんでしょ。また変な客が来ても嫌だし……」

 そう言って、椿はしぶしぶ立ち上がった。花梨はそのやりとりに苦笑を浮かべている。

「楽しんできてください」

 槐のその言葉とともに、桜は祭りへ向かう花梨と椿を見送る。

 そうこうしているうちに、約束の時間が迫っていた。槐はそのことを確かめると、例の場所に――石たちの眠る部屋へと向かう。

 部屋の中央に置かれたサイドテーブル。そこにある寄せ木細工の箱の中から、槐は碧玉を取り出す。ちょっとそこまで――という場合はともかくとして、遠方に外出するとき、槐は大抵、碧玉を持つようにしていた。

「――十字石じゅうじせき

 ふいに重々しく響く声がする。この部屋にある石に呼びかけたこの声は、碧玉のものだ。彼は続けてこう命じた。

「私がいない間は、誰も通すなよ」

「……心得た」

 姿は現さずに、十字石は短くそう答えた。これで、音羽家に縁のある者以外は、誰もこの店に足を踏み入れることはできない。

「桜石」

 次に碧玉が呼びかけたのは、桜の名だった。何ごとかと思ったが――表の気配を察して、桜は慌ててそちらへと向かう。さすがに、約束の相手まで閉め出すわけにはいかない。

 格子戸を開けて、桜は目の前に立っていた人物を迎え入れた。この日この店に訪れた、その客とは――

「道が混んでて、遅くなってしまいました。どうも、すみません」

 延坂のべさか空木うつぎ

 いつだったか突然店にやって来て、呪いについてたずねた客だ。あのあと、再び店にやって来たかと思えば――解いて欲しい呪いがあるのだと、槐に相談を持ちかけたのだった。

 くわしい話は槐にもまだわからない。何か事情があるらしく、とにかく実物を見てから、ということになったからだ。

 空木の話では、その解いて欲しい呪いとやらをこの店まで伴うことは難しいらしい。そのため槐は、直接その呪いがある場所へと赴くことになる――それが、この日の約束だった。

「近くに車を止めていますので。そこまでご足労願いますよ」

 空木は軽い調子でそう言った。槐はその言葉にうなずくと、振り返って桜にこう声をかける。

「それじゃあ。行ってくるよ」

 桜は店で留守番だった。空木とともに行く槐を、桜は姿が見えなくなるまで見送る。そうして、影も形もなくなってからようやく、表の格子戸を閉めた。

「今日はずいぶんおとなしいじゃないか。桜石」

 振り返ると、石英が立っていた。からかうような彼の表情に、桜は口を尖らせる。

「心配なんですよ。あの人、何となく嫌な感じがするんですよね」

「大丈夫だよ。それどころか、これはあとあと布石になる」

 その言葉に、桜は顔をしかめる。

「……何を企んでいるんです」

「僕だけが企んだところで、仕方がないだろう? 共謀の上だよ」

 石英はしれっとそう答えた。しかし、桜が何も言い返さずにいると、呆れたようにため息をつく。

「まあ、何かあったとしても、問題はないさ。碧玉がともにいるのだから」

 珍しく真面目な顔をして、石英はそう請け負った。


     *   *   *


 維新勤王の鼓笛隊の音から始まって、安土桃山時代の列が終わる頃、椿は時代祭の行列にいよいよ飽きた――いや、そもそも興味はなかったらしいので、明らかに限界を迎えたようだった。

 花梨たちは見学の列から離れて、近くの甘味処へ入っていく。椿の機嫌は、それでどうにか持ち直した。

 運ばれてきたあんみつを前に、椿は唐突にこうたずねる。

「わざわざ私を連れてくるなんて、なずなにでも何か言われたの?」

 花梨はどう答えようか迷った挙げ句、結局は笑ってごまかした。その反応に、椿はうろんげな目で花梨を見返してくる。

「こそこそしてたときがあったでしょ。桜といっしょに」

 どうやら、すべてお見通しだったらしい。花梨は白状することにして、なずなに会ったあらましを話した。

 それを聞いた椿は、呆れたようにこう言う。

「そんなことより、お姉さんのことはどうしたの。あなた、そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ」

 花梨は苦笑する。同時に、これを機にと、思い切ってたずねてみた。

「じゃあ、少し聞いてもいいかな。もしかしたら、気に障ることかもしれないけど」

「別にいいけど。何?」

「椿ちゃんって、その、学校には――」

「行ってるように見えるの?」

 怒らせてしまうかもしれないと思ったが、椿はどちらかというと、けげんな顔をした。指摘されたことが不快、というよりは、どうしてわざわざ確認するのか、といった様子だ。

「まあ、最低限のことはしてるから。で、何でそんなことを?」

 あっさりとそう切り返して、椿は平然とした様子であんみつを口に運んでいる。いつもどおりの素っ気なさに安堵して、花梨はその先を話すことにした。

「学校で、呪いとか、そういうものが流行ってないかなって」

 お祭りの日にするような話ではない。しかし、椿には行方不明の姉のことを指摘されたばかりなのだから、それも今さらだろう。

 とはいえ、急な話の展開に、椿はいぶかしげな表情を浮かべた。さすがに呪いの話になるとは思っていなかったらしい。

「そんなもの流行ってたら世も末だと思うけど。まあ、怪談くらいなら流行ってるかもね」

 そう言うと、椿は話の続きを待つかのように、真っ直ぐな視線を花梨へと向けた。それに応えて、花梨はその先を話し始める。

「姉の失踪に関わる話で、呪い殺した祟りだ、って話があったんだけど……そんな話が広まったからには、何か具体的な理由があったんじゃないかって思って。それで、調べてたの。お姉ちゃんの知り合いにも聞いてみたんだけど、それについては――知らないって」

「あなたはそれを、信じてないわけね」

 椿は即座にそう返す。遠慮のない言葉に花梨は肯定することをためらったが、それもすぐに思い直して、はっきりとうなずいた。

「あの人たちは、何かに怯えていたから。それに、茴香がそれとなく友人に聞いてくれた話だと、確かにそういう噂があったって、話してる子がいるらしくて……」

「噂?」

「呪いを引き受けてくれる場所がある、って噂」

 椿はふうん、と気のない返事をする。しかし椿の場合、態度だけではその本心はわからない。今も何気なく窓の外に視線を投げながら、彼女は何かしら思考を巡らせているようだった。

 椿はふいに、こんなことを言い出す。

「世間で流行ってる噂話なんかは、うちでは縁遠いでしょうね。槐もそういうことには疎そうだし」

 呪いのことは、槐にも相談するつもりだった。しかし、確かに今までに会った怪異と現代の噂話とでは、だいぶ毛色が違う気もする。そう考えると、このことで槐に頼るのは難しいかもしれない。

 花梨は思わず考え込んだ。それを見た椿は誰にともなく、ひとりごとのようにこう呟いた。

「呪い、ねえ。とりあえず思いつくのは、藁人形に釘を打つやつ、とか? 丑の刻参りの由来だか何だかは、貴船神社きふねじんじゃが有名なんでしょ。そういう意味では、京都が発祥なのかもね。よく関連づけられる宇治の橋姫の方は――呪いというより、生きて鬼になる話だっけ」

 椿はあんみつの寒天をスプーンでつつきながら、話を続ける。

「どちらにせよ、あれって確か……草木も眠る丑三つ時に、白装束で火のついたロウソクを立てた鉄輪をかぶって――とか、とにかく、そんなとんでもない格好で藁人形に釘を打ち込むって話でしょ。そんなことできるなら、私はむしろ見てみたいけど」

「くわしいね……椿ちゃん」

 花梨は遠慮がちに、そう言った。

 今の椿は、どことなく石や怪異のことを話す槐と似ていた。無意識のことだったのか、椿は、はっとすると、少しだけばつの悪そうな表情を浮かべる。

「あの家、書庫みたいな部屋があって。狭いけど。そういう本ばかり置いてあるから。それ以外なら、石の本とかだし」

 言い訳のように、椿はそう並べ立てる。そうしているうちに何かを思い出したのか、ため息をつきながら顔をしかめた。

「針鉄鉱がたまに入り浸ってて邪魔だけど。隙があれば本を読んでるから。あの石。石なのに。意味がわからない」

 椿はそう言って、口を尖らせている。

 針鉄鉱――といえば、戻橋での橋占の意味を解いた石だ。博識なようだったが、気難しそうでもあった。残念ながら椿にとっては、同じ読書仲間、という認識にはならないらしい。

 いつの間にか、花梨たちのいる甘味処にも客の姿が増えていた。そろそろ時代祭の行列も通り過ぎた頃だろうか。呪いの話をしていたことが嘘のように、周囲には晴れやかな祭りの空気が流れていた。


     *   *   *


 妙に道が混んでいると思ったら、どうやら祭りの日だったらしい。

 交通規制が行われていたのだろう。おかげで通るはずだった道を大きく迂回することになった。祭りのことなど頭からすっかり抜けていた空木は、自分のうかつさに思わずため息をつく。

 ただでさえ時間が厳しいのに、間に合うだろうか。もし遅れでもしたら――

 そのときは、そのときか。空木は開き直って、助手席に座っている着物の男へ、ちらりと目を向けた。

 祭りの日によく知らない男と二人でいるというのも悲しい話だが、空木とて好きこのんでこの状況を作り出したわけではない。こちらの都合をいろいろと考えた結果、この方法が一番確実だったというだけだ。

 とある呪いを、この店主に見てもらうためには。

 しかし、この気まずい沈黙はどうにかならないかとも思う。かといって、必要なことを話し終えてしまった今、気楽に世間話をする気にはなれなかった。

 それでも、空木は何度か話題を振ろうと思ったのだが――これがどうにもうまくいかない。適当にお茶を濁すことが得意な空木には、珍しいことだ。

 どうやら自分は柄にもなく緊張しているらしい。空木はようやく、そのことに気づく。

 車はどうにか市街地を抜けて、山道へと入って行った。山道とはいってもきちんと舗装された道路だが、周囲には木が生い茂っているばかりで何もない。

 都といえども北の果てなど、こんなものだ。

 しばらくは道なりに車を走らせて行く。あるのは山と、谷間を流れる川と、山間に時折姿を現す集落だけ。

 変わらない風景と無言の空間に、そろそろ店主も――確か、槐という名だったか――耐えられなくなったのか、ふいにこんなことを言い出した。

「この辺りには、あまり来たことがないんですが、静かでいいところですね」

 静かは静かだが、いいところかどうかはその人の価値観による。この辺りにはたいして見る場所もなく、観光地までの通り道――しかも素通りするような――くらいでしかない。

 今さら自分の故郷を卑下するわけでもないので、空木は淡々と返した。

「そうですかね。本当に何もない田舎ですけど」

 そのとき車窓から見えていたのは、山の斜面に並ぶ杉の木だ。いつも目にしているせいか、空木からしてみれば何のおもしろみもない景色だと思う。こういう場所は、この辺りではわりと多い。

 ふと、前方の道端で何かが動いた気がした。しかし、それが何かを確かめる間もなく、車はその場所を通り過ぎていく。

 人ではないだろう。人だとしても小さな子どもくらいの大きさだった。ちょうど辺りは民家もないような場所だったので、こんな道を子どもが歩いているとも思えない。猿だろうか。

 山の中なのだから、野生の動物と出くわすことは稀にある。群れでいるなら、また出てこないとも限らないので、空木はあらためて周囲に注意を向けた。

 そういえば、しばらく対向車とすれ違っていない。人影のない道ではあるが、いつもであれば車はそれなりに走っている。山間とはいってもバスくらい通っているし、前方にも後続にも車が見えないなんてことは、そうあることではなかった。

 少し妙だな、と思っていると、視界の中にまた、ちらちらと動くものが現れる。やはり猿が人里の方へ下りてきているのだろうか。いや――

 違う。これは、猿ではない。

 行き先を塞いでいるものに驚いて、空木は思わず車の速度を落とした。

 道の先に何かがいる。それこそ猿くらいの大きさの見たこともない生き物たちが――まるで車を先導するかのように、進行方向へと練り歩いていた。しかも、どうやらそれらは、ぞろぞろと列を成しているらしい。

 その何かは、明らかに異形の化け物だった。やたら角張っていて、それでいて薄っぺらい体躯をひらひらさせながら、おどけたように先へと進んで行く。

 空木は車を止めるか、引き返そうとした――が、折悪く適当な場所が見つからない。そうこうしているうちに、車はそれに追いついてしまった。

 まさか行列に突っ込むわけにもいかないので、うしろをついて行く形になる。幸いなことに――と言っていいかはわからないが、今のところ、その異形のものたちは、こちらの車には興味を示していないようだ。

 何にせよ、おかしな状況であることに変わりはない。しかし、そのとき混乱する空木の傍らから聞こえてきたのは、妙に落ち着いた声だった。

「これは……まるで百鬼夜行ひゃっきやぎょうのようですね」

 前方にある化け物の行列を、槐はそう表した。その声音が少し楽しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。

 百鬼夜行というと、鬼だか妖怪だかが列を成す怪異のことだったか。言葉自体は空木も知っている。しかし、そんなものがこの現代にあっていいわけがない――と、空木が物申すその前に、槐は焦る風でもなくこう続けた。

「だとすれば、対抗する呪文があるのですが……確か、『拾芥抄しゅうがいしょう』だったか――」

 何か訳のわからないことを言って、槐はしばし考え込んだ。どうにか平常心を保ち運転している空木のとなりで、何をしようというのか。ただでさえ異常な状況に、空木は気が気ではない。

「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」

 そのうち、槐はもはや意味すらわからない言葉を口にし始めた。空木はどう反応していいかわからない。

 とはいえ、よくよく考えれば彼は呪いを解ける――かもしれないと嘯く人物だ。だとすれば、百鬼夜行だか何だか知らないが、この化け物どもを退治することもできるのかもしれない。

 と、思ったのだが、槐が呪文とやらを言い終えてしばらく経っても、百鬼夜行は相変わらず前方にいた。

 白けた空気の中、槐はなぜか照れたように笑う。

「これで退散できれば、よかったのですが……そもそも、百鬼夜行は字のごとく夜に会うものですから、やはり違うものなのでしょうか。おもしろいですね」

「全くもって、おもしろくなどないですが」

 ――この状況で、何を言っているんだ、この人は。

 空木の中で、化け物に対する恐ろしさよりも、むしろ苛立ちの方が大きくなっていく。

 とはいえ、気づけば後方にも、ぞろぞろと化け物どもが現れ始めていた。どうやら取り囲まれてしまったようだ。もはやどこにも逃げ場はない。

 これからどうなるのだろう。そのうち、化け物たちに襲われるのだろうか。あるいは、どこかに連れて行かれるのか。それとも――

「百鬼夜行は死をもたらすと考えられていたため、これがあるとされる日に貴族は外出を控えたそうです。しかし、百鬼夜行に会い、そして難を逃れたという話はいくつかありまして、『今昔物語集』によると、若い頃の安倍晴明が師である賀茂忠行かものただゆきの供をしているときにそれと行き合い、師の術によって身を隠し助かった、とのことです」

「その話、今、必要ですかね……?」

 槐の唐突な語りに、空木はどうにかそう返す。

 何を言うかと思えば――古典の授業じゃあるまいし、『今昔物語集』など出されても、どうしようもない。空木はもはや苛立ちを通り越して、呆れのような気持ちを相手に抱き始めていた。

 槐は苦笑して、こう続ける。

「いえ。同じように姿を隠すことはできないか、と思ったのですが。どうかな、碧玉」

 ――へきぎょく?

 槐は言葉の最後の方を、まるで誰かに呼びかけるように口にした。

 この状況で、いったい何をしようというのか。

 空木が問いただすより前に、槐は――お気をつけください、と言って行く手を指し示した。注意が疎かになっていたことに気づいて集中すると、ふいに視界が霧に煙り始める。それはまるで化け物どもを遠ざけるかのように、百鬼夜行の列を覆い隠していった。

 周囲が白いもやで閉ざされて、あたかも雲の中で車を走らせているかのようになる。しかし、不思議と危険は感じなかった。走り慣れた道とはいえ、こうも視界が悪い中、こんな感覚になるのは奇妙と言うよりほかない。

 とにかく、これであの化け物から逃れられるのかと、空木も少しは期待したのだが――

 どこからか、カリカリと音がしていることに気づいて、空木は思わずそちらに意識を向けた。それが何の音か気づいた途端、空木は思わず叫び声を上げる。

 さすがの槐も、焦ったようにこちらへ身を乗り出した。

「どうかしましたか。何か――」

「音が! あいつら爪で引っかいてるとかじゃないだろうな! 傷でもついたらどうするんだ!」

 聞こえていたのは、車体に何か固いものが擦れるような音だった。それも、何度も何度も――

 槐は、はあ、といまいちことの重大さがわかっていないような反応を示す。

「車の傷、ですか?」

 そう言って、槐はいぶかしげに首をかしげている。

 どうやら大事だとは思われていないようだが、空木にとって、これは見過ごせない問題だった。実家から拝借している車を、こんな訳のわからないことで傷だらけにした、なんてことになれば――

 悪夢だ。空木にとっては怪異よりも恐ろしい。

 そうでなくとも、この音がするということは、化け物が車に取りついているということだろう。結局、姿が隠れただけで逃れてなどいない。そう考えれば、槐がどうしてそんなに平静でいられるのか、空木にはわからなかった。

「いやいや。一大事じゃないですか。この車が襲われてるってことでしょう! それに、車に傷なんてつけたら、兄貴に何て言われるか!」

「それは大変ですね」

 けげんな顔で、槐はそう返す。その言葉には、全く心がこもっていない。

 とはいえ、空木も少しずつ冷静になり始めていた。確かに、この状況で命の心配よりも先に車の心配をしてしまったのは、端から見れば滑稽かもしれない。相手もよくわからない呪文を唱えていたのだから、どっちもどっちだとは思うが――

 そのとき、ふいにどこからか声がした。

「いつまでそんな馬鹿を言い合っているつもりだ」

 怒声のような、妙に響く低い声。発した者は明らかに苛立っているか、あるいは怒っているようだった。それにしても、これはいったい。

 ――誰の声だ?

 疑問に思う間もなく、突然、周囲が閃光と轟音に包まれた。思考が吹っ飛ぶほどの衝撃に、空木は思わず身がすくませる。

 ――雷?

 雷鳴は一度きりのこと。それ以降は車を引っかくような音も止み、余韻が静まるにつれて周囲の雲も晴れていく。

 そうして現れたのは、空木にとっては見慣れた――何もない山中の風景だった。そこに、化け物の姿はない。

「やり過ぎじゃないかな。碧玉」

 苦笑しながら、槐はとなりで小さく呟いた。

 危機は去った――のだろうか。

 ちょうどそのとき、走って来た対向車とすれ違った。通りすがりの、いたって普通の車だ。本当に何ごともなかったかのように、あっさりと日常の中に戻ってきたらしい。

 ほっとしたのも束の間、空木はふと、車の調子がおかしいことに気づく。傷のこともあるので、仕方なく路肩に止めると、さっきまで何の問題もなく走っていたはずの車が、その場で力尽きたように動かなくなってしまった。

 空木は呆然とするよりほかない。

 原因は何だろう。化け物のせいか。それとも、あの雷か。車から降りて確かめてもみたが、少なくとも外装には傷ひとつ見当たらない。

 どうしました、とけげんな顔をしている槐を横目に、空木はどうにか車を動かそうと苦心してみた――が、そう簡単にどうにかなる問題でもなかった。しばらくは槐も黙って見守っていたが、すぐには直らないと思ったのか、ひとこと断ってから車を降りてしまう。今の空木には、その行動にいちいち構っている余裕はない。

 ほどなくして、空木はようやく、もはや自分の力ではどうにもならない、と悟ることになった。そうして諦めの境地へ至った頃、どこかへ行っていたらしい槐が再び姿を現す。

 戻って来て早々、空木は槐にこう告げた。

「車が故障してしまったみたいでして。すみませんが、お手上げです」

 槐はそうですか、とうなずき返してから、空木の表情をうかがうと、来た道を指し示しながら何かを差し出した。

「あちらで、こんなものを見つけました」

 槐が手にしていたのは、干からびた芋虫のようなもの――いや、よく見ると、無機物のようだった。鈍い光沢の薄い板のようなものが、細長く連なっている。

「何です、これ」

蛭石ひるいしです」

 空木の問いかけに、槐はそう答える。

 その言葉に、空木は思わず顔をしかめた。ヒルというと――血を吸うナメクジのような、あのヒルのことだろうか。

 空木がけげんな顔で見返すと、槐はこう続けた。

「元は鱗が重なったような鉱物なのですが、加熱すると伸びるのです。それがヒルに似ているので蛭石と呼ばれています。雲母うんもが変化するなどして、このような性質を持つようになるのですが……」

 空木は、はあ、と気のない返事をした。それ以外に、反応のしようがない。どうにも、この店主とは反りが合わないようだ。

 しかし、どうやら彼の本題はこのことではなかったらしい。槐は何やらあらたまると、その蛭石を見ながらこう切り出した。

「つかぬことをおたずねしますが――」

 そう言って彼は、真っ直ぐな視線を空木に向ける。

「こういった怪異は、身に覚えがありますか? 今まで、同じような体験をされたことは?」

 彼の言う、こういった怪異、というのは、さっきの百鬼夜行のようなことだろうか。そんなもの、あるわけがない。

「こんなとんちきな経験、生まれて初めてですよ」

 空木がそう答えると、槐は重々しくうなずいた。

「そうですか。では、この石による呪いは、私を狙ったものかもしれません。申し訳ありません。あなたを巻き込んでしまったようです」

 そう言って、槐は深々と頭を下げる。

 空木には何が何だかわからない。そもそもの話、彼にはたずねたいことが山ほどあるのだが――いろいろなことがありすぎて、今は考えがまとまらなかった。とりあえず今回のことは、あれがもたらしたことではないようだが――

 空木はあらためて槐の表情をうかがった。

 呪いと関わるということは、おそらく簡単なことではないのだろう――と空木は勝手に想像する。人を呪わば穴二つ、だったか。何にせよ、先ほどのあの力を思えば、どうやらこの御仁は本物ではあるようだ。

 ――この石による呪い、か。

 槐の言葉を思い出しながら、空木は彼の手にした蛭石とやらを見る。これ自体には、特に禍々しいものは感じない。それに比べれば――

 空木はあるものを思い出して、無意識のうちに呟いた。

「石、かあ。石ねえ。じゃあ、木の呪いはダメですかね」

 槐はそれを聞いて、いぶかしげにこうたずねた。

「キ……キというのは、樹木ですか? それとも……」

「ああ。それです。ツリーで合ってます」

 何の考えもなく口にしたことだったので、空木は虚をつかれたようにそう返した。その答えに、槐は難しい顔で考え込む。

 とにかく、空木はひどく疲れていた。時間も大幅に遅れている。車をここに放っていくわけにもいかないので、今日の予定はもはやどうにもならないだろう。

 空木は仕方なく、槐にこう提案した。

「すみませんが、今日のところは中止ってことにしていただけませんかね。車もどうにかしないといけないですし。こっちにも都合がありまして」

 何か引っかかるものがあるのか、槐は浮かない表情をしながらも結局はうなずいた。

「そう、ですね。また日をあらためて、おうかがいしましょう」

 槐はそう答えると、ふと何かを思い出したように小さく声を上げた。

「そうでした。あなたには、こちらをお渡ししようと思っていたのですが……受け取っていただけますか?」

 そう言って、槐はふところから何かを取り出す。

 差し出されたものを、空木はひとまず素直に受け取った。渡されたのは、手のひらほどの小さな布袋。

「何ですか? これ」

「お守りです。今回はこちらのせいで災難に会われたようなものですし、次に会ったときにお返しいただければかまいませんので」

 空木はどうしたものかと思ったが、百鬼夜行を消した去った雷の凄まじさを思い出して、一応は受け取ることにした。何かしらの加護はあるかもしれない。

 お守りをしまい込んだ空木は、さて――と呟き、あらためて周囲を見回した。

 辺りは何もない山道。近くに民家もなく、空木は車をどうにかしなければならない。となれば――

「あー……こんなところまで連れて来ておいて、あれなんですが、お帰りは――」

「かまいませんよ。この道は、大原へ向かう道ですよね?」

 槐はあっさりとうなずいた。空木はほっとして、うなずき返す。

「そうです。バスが通ってます。本数は多くないですけど。ここからなら――バス亭までは下った方が早いですかね」

 そう言って、空木は下りの山道を指し示す。そこにはもはや奇妙な影はなく、ただ車が行き交っているだけの、なんの変哲もない山間の道だった。


     *   *   *


 白線をたどるようにして、細く区切られた崖道を下っていた。

 京都市内とはいっても、この辺りは山中だ。観光地からも遠く、わざわざ散策しようという者もいないのか、人ひとりが余裕を持って進めるほどの歩道すらなかった。

 すぐ近くを車が追い越して行く。歩き慣れない道ということもあって、速度のある車や大型の車が通ると少しだけひやりとした。急ぐわけでもなし、槐は道の端をゆっくりと歩くことにする。

 山道としては少し味気ない景色――崩落を防ぐために固められた斜面を横目に、槐は時折、遠方の山並みに目を向けた。曲がりくねった道の先に、バス亭はまだ見えない。思い出したかのように、たまに民家が姿を現すくらいだ。

 辺りは静かだった。静かなところは嫌いではないが、変化の乏しい風景の中にあれば、どうしても、とりとめのないことを考えてしまう。槐はぼんやりと先ほど見たものを思い返していた。

 蛭石から生じた化け物の列。あれも石を依り代にしたものだった。だとすれば、今回のこともまた、音羽家に伝わっていたという呪術によるものなのだろう。

 それがいったい、どこまでさかのぼることができるのか、槐はよく知らない。槐にとって、それはあくまでも曾祖父からの縁となるものだからだ。

 あの家に残された石を除けば、すべての呪いを終わらせたのだと、曾祖父は手記に残している。しかし、こうして術を扱う者がいるからには、それは間違いだったということだろう。

 その可能性については、今まで考えなかったわけではない。それが自身に向けられることも、あり得ることだとは思っていた。

 しかし、実際にその呪術を前にして、槐がまず強く感じたのは、恐ろしさよりもむしろ違和感の方だ。

 術を行使した者の意図が読めない。何よりも、それが問題だった。こちらの石が目当てなのか、命を狙っているのか、それとも――

 何者かによる音羽の呪術を、槐が直接目にしたのはこれで二度目。蛭石の百鬼夜行と天狗の爪石による以津真天。それ以外の燕石と異常巻きアンモナイトに関しては、話を聞いただけに過ぎない。そして、その二つについては、どちらも黒曜石を託した者――鷹山花梨が関わっていた。

 それらが立て続けに起こったのも、彼女が店に訪れてからだ。音羽家の外で密かに続いていたらしいその呪術と、彼女の存在にはやはり何らかの関連があるのだろうか。

 しかし、彼女が店に助けを求めたのは――たとえ、あの家の石が多少は関与していたのだとしても――あくまでも偶然だ。店とのつながりはその程度のもの、とはいえ――

 例えば、その呪術を行使する者から見れば、どうだろう。彼女と音羽家のつながりを知って、不審を抱いたのだとしたら。あるいは、相手もどう出るべきかを判断しかねているのかもしれない。

 この呪術を行っている者が、槐の考えている者たちだとすれば――

 曾祖父の残した手記を信じるなら、音羽の呪術を扱える可能性のある者は二つ。

 まずは、雨、と呼ばれる鬼の一族。しかし、彼らの場合は音羽の呪術を知っている、というよりも、どちらかというと、知らないことは何もない、と言った方が正しい。

 基本的に彼らは秩序を乱すことを嫌い、その特異性をひた隠しにして社会に溶け込んでいる。仮に何らかの目的のために力が必要なのだとしても、おそらく彼らなら、呪術だろうが魔術だろうが、その他の強力な秘術のことも知っているだろう。あえて音羽の呪術にこだわることはない。

 だとすれば、やはり――

 何にせよ、家には椿がいる。それだけでなく、外に出してはいけない存在が封じられてもいた。相手がこちらにまで手を伸ばすつもりなのだとしたら、何らかの対策を講じないわけにはいかないだろう。

 助けを求められる相手となると、真っ先に思い浮かぶのは――

「榧さんかまさきさんか……どちらかだけでも、あの店にいてもらった方がいいだろうか」

 槐は思わず、そう口にした。それは問いかけではなく、何気ない呟きのつもりだったが、同行している彼がそれを聞き逃すはずもない。

「榧か柾……? 沙羅にはどう話すつもりだ。槐」

 碧玉は問い詰めるようにそう返す。

 姫川夫妻――叔母と叔父の名だけを出したことを、うかつだったかもしれない、と思っていたところだったので、槐は思わず黙り込んだ。

 碧玉はかまわず、こう続ける。

「やつの力は役に立つ。というより、琥珀はともかく、透閃石とうせんせきがあれではな……」

 琥珀と透閃石と――特別な力を持ち、音羽家を守ってきた石たち。彼らの力が助けになることは確かだろう。相手の意図が読めない今の状況では、なおのこと。しかし、それでも――

 槐が物思いに沈んだまま返事もしないでいると、碧玉はあからさまにため息をついた。その声には呆れのような、苛立ちのような――どちらにせよ、刺のある何かがにじみ出ている。

「心配をかけたくない、とでも思っているのかもしれんが、知らせない方が、いらぬ心配をかける場合もあるぞ。槐」

 その言葉に、槐はなおさら返答に困ることになった。碧玉の言い分は的を射ている。だからこそ、いいかげんな答えを返せば、余計に叱られるだろう。

 槐が言い淀んでいるうちに、碧玉はどうやら業を煮やしたらしい。

「好きにしろ。これ以上、私は何も言わんからな」

 諦めたのか、それとも本当に怒らせてしまったのか、碧玉は吐き捨てるようにそう言った。申し訳ないと思いつつも、槐は苦笑する。

 どこか遠くの空から、トンビの鳴き声が聞こえてくる。それに耳を傾けながら、しばらくは無言で歩いて行った。

 張り出した崖に建つ廃屋を通り過ぎた頃、槐はようやく口を開く。

「碧玉」

 槐の呼びかけに、碧玉は渋々応じた。

「……何だ」

「ところで、ここはどの辺りだろうね?」

 その問いかけに、碧玉は何も答えなかった。

 空木に教えてもらったバス亭は、まだ見えない。


     *   *   *


「槐さん?」

 店の近くまで帰って来たところで、椿を連れた花梨は、ちょうど槐と行き合った。どうやら向こうも外出から戻って来たところらしい。

 呼びかけに応じて振り返った槐は、花梨たちが追いつくまでその場で立ち止まる。小走りでかけ寄ると、彼は穏やかな笑みを浮かべてこう言った。

「おかえりなさい。どうでしたか。お祭りは」

 その問いかけには、先に椿が肩をすくめながら――相変わらず地味だった、と答えてしまう。花梨としては時代ごとの装束など、なかなか興味深く思っていたのだが、確かに見てわかりやすいような派手さはなかったかもしれない。

 そんなことより――と、椿は珍しく槐に詰め寄った。

「呪いを解いて欲しい、とか言う話だったでしょ。どうだったの」

 呪いを解く――槐はどうやら、そのために外出していたらしい。そんなことも引き受けているのか――と、花梨はあらためて、あの店の風変わりなことを実感する。

 とはいえ、石たちの力があれば、それも容易なのかもしれない。と思ったのだが、その問いかけに、槐は思いがけず表情を曇らせた。

「少し問題があってね。途中で引き返してしまったんだよ」

「何それ」

 顔をしかめて、椿が呟く。問題、という言葉が引っかかって、花梨は思わず声を上げた。

「そういえば」

 槐と椿、二人の視線が向けられて、花梨は少しだけたじろいだ。的外れかもしれないと思いつつも、それでも伝えておいた方がいいだろう、と考え直して、花梨はそれを話すことにする。店に入る前にあったできごとを。

「今日、店に入るときに、女の人が立っていたんですが――何というか、とても怖い顔でお店の方を見ていて……」

 言い添えるように、黒曜石の声も聞こえてくる。

「そのことは碧玉も知っている。そうだろう?」

 その呼びかけからすると、彼もこの場にいるのだろうか。花梨の疑問に答えるように、槐はうなずいた。

「そうですか。あとでくわしく聞いておきましょう。それから――鷹山さんは、碧玉と会われたようですね。でしたら、この機会にご紹介しておきましょうか」

 そう言って、槐は根付けのようなものを取り出した。

 紐の先にあるのは磨かれた深い緑の石。三日月のように湾曲した楕円に穴が空けられている。その形は勾玉――のようだが、翡翠がよく見る形だったのに対して、こちらの方はくぼみの部分に突起があった。

「碧玉の勾玉――ですが、勾玉としては少し特殊なものです。このような形のものは、ケモノのカタチと書いて獣形じゅうけい勾玉と呼ばれています」

 獣の形。確かに、そう見ると何となく足の生えた獣のように――見えなくもない。

「碧玉は鉱物としては主に石英で、微細な結晶が集合したものです。そのうち不純物の割合が高く、不透明なものを碧玉と呼んでいます。英語名はジャスパー。不純物の種類によって、さまざまな色や模様を持つのが特徴ですね。彼の場合は緑泥石りょくでいせき――クローライトが混じっているために、深い緑の色をしています。島根県花仙山かせんざんのものが有名で、これは特に出雲石いずもいしとも呼ばれています」

 ひととおり槐が話し終えても、碧玉自身はひとことも言葉を発しない。花梨もどう声をかけていいかわからずに――碧玉の勾玉へとあらためて目を向けてから、槐に向かってただうなずき返した。

 槐もまた――おそらく、その碧玉の頑なさに――少しだけ苦笑して、碧玉の勾玉をふところにしまい込む。

「碧玉が気づいていたなら、その方がまた店に来られたなら、わかると思います。こちらでも気にしておきましょう。呪いの件も――手は打っていますので、どうかご心配なく」

 槐はそう言って、いつものように笑みを浮かべている。その表情からすると、本当に何の心配もないように思われた。

 少なくとも、そのときの花梨の目にはそう映っていた。

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