第十一話 黄玉 前編

「いやあ。ありがとう。悪かったね。急に来てもらって。助かったよ」

 花梨に会うなり、店長は申し訳なさそうにそう言った。

 場所はいつものアルバイト先。連絡を受けて予定外のシフトに入ることになった花梨が、店先に顔を出したときだった。

「いえ、ちょうど空いていましたから。それにしても、何かあったんでしょうか。その――」

 軽く事情を聞いてはいたが、くわしいことまでは知らされていない。何でも、来るはずだった人員が、急に来られなくなったとのこと。それというのも――

「浅沙くん、ね。最近あまり入ってくれないし、もしかして、他に割りのいいバイトでも見つけたのかなあ」

 言われてみれば、近頃は同じ日に入ることも少なくなっていて、花梨の方でも彼とはほとんど顔を合わせていなかった。

「何か聞いてる? 鷹山さん」

 たずねられて、いいえ、と首を横に振る。それから、最後に話をしたのはいつだっただろう、とあらためて思い返した。

 祇園祭のときに話をしたことは覚えている。そのあともシフトが重なることはあったが、ほとんど言葉を交わしていない。そこからすれ違うようになり、まったく姿を見なくなってからも、それなりの時が経っていた。

 貼り出されたシフト表を見ていても、確かに彼が来る日は徐々に減っていた気がする。

「困るんだよなあ。年末年始に入れるって言うから採用したのに」

 そんな店長のぼやきを聞きながら、花梨はバックヤードへと向かった。

 西条浅沙。今の花梨には、もし彼がこの場にいたなら、たずねてみたいことがあった。しかし、そう考え始めてからこちら、その機会には恵まれていない。

 実際には、シフトの時間を狙えば会うことはできたのだろう。しかし、問い詰めるほどのことではないと思って、後回しにしていたのだが――

 ふいに、妙な胸さわぎがした。このことを、このままにしてはいけない――そんな予感が。

 彼にたずねてみたいこと。それはささいな疑問だった。ささいではあるが、姉に関係することでもある。壁に貼られたシフト表をながめながら、花梨はしばし考え込んだ。


 アルバイトを終えた花梨は、通い慣れた道をたどり槐の店へと向かった。店長が律儀にちょっとしたお礼のお菓子を用意してくれたので、せっかくだから椿と一緒にお茶でもできないかと思ったからだ。

 店の周辺は、他の通りに比べれば人通りが少ない。しかし、今日は珍しく人影があった。

 着物姿の女性だ。店の前をなぜか行ったり来たりしている。まるで店に入ることをためらっているかのように。

 この人とは、以前にも会ったことがある気がする。彼女は、確か――

「何をしている? なずな」

 黒曜石の声。なずなと呼ばれた女性は、はっとして花梨の方を振り向いた。

「黒曜石……?」

 そう呟くと、彼女はいたずらが見つかった子どものようにばつの悪そうな顔をする。しかし、花梨の視線に気づくと、すぐにその表情を取り繕った。

「そういえば、今はあなたが持っていたわね。鷹山さん、とお呼びしていいかしら」

 彼女は花梨のことを覚えていたようだ。花梨の方も、やはり見た顔だったか、と納得する。

 槐の店を知ったばかりの頃、おつかいを頼まれたその相手だ。桜石のことを知っていたから、そうではないかとは思っていたが、彼女はやはり、黒曜石のことも知っているらしい。

 ならば、ここにいるのは店に用があるからだろう。と花梨は思ったのだが――

「店に入られないのですか?」

「あなたは、これからこちらに?」

 答えはなく、すぐにそう問い返された。花梨はいぶかしく思いつつも、素直にうなずく。

 なずなはそれを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

「だったら、あの……桜くんに伝えてくれないかしら」

「桜くん? 槐さんに、ではなく?」

 思わずそう言うと、なずなは困ったような表情になる。

「槐の兄さまには――」

 そこまで言いかけて、彼女はひとつ、軽く咳払いをする。

「槐さんには、むしろ、その……」

 なぜかそう言い替えて、彼女はその先を言い淀んだ。槐には伝えたくないのだろうか。花梨はそう解釈する。何やら事情があるらしい。

「わかりました。どうお伝えしたらいいでしょうか」

 花梨がそう言うと、なずなは少しだけ黙り込んだ。しばし考えた末に、彼女はこう告げる。

「そうね……通り雨が参りました、と」


「本当にそう言ったんですか? なずなさんが?」

 場所はいつもの座敷。槐が席を外した頃合いを見計らって、花梨は桜になずなの言葉を伝えていた。それを聞いた桜は思わずといった風にそう返したが、はっとしたかと思うと、慌てたように声の調子を落とす。

「しかも、槐さんには伝えないで欲しい、ですか……」

 桜は小声でそう言うと、顔をしかめて考え込んだ。

 あの伝言は、思いがけず重要なことを伝えるものだったらしい。桜の沈黙に、意見を挟んだのは黒曜石だ。

「なずなの言い分はともかく、槐には伝えた方がいいと思うが」

 しかし、桜はその提案に難色を示した。

「どうでしょう。なずなさんの性格は、よくわかってますから。あまり無理強いするとへそを曲げるし、かといって放っておけば、ひとりで無茶するに決まってますよ」

 桜はそう言うと、ちらりとどこかに視線を投げてから――槐のいる方だろう――こう呟く。

「まあ、槐さんも似たようなところはありますけど。仕方ないですね……」

 桜はそう言ってため息をつく。

 事情のわからない花梨には、言づけを伝える以上にできることはない――と思っていたのだが、桜はふいに花梨の方へと向き直ると、こう問いかけた。

「花梨さん。このあとお時間いいですか?」

 花梨が首をかしげると、桜はこう続ける。

「なずなさんに会いに行こうと思うんです。直接話を聞いた方が早いですし。くわしいことがわからないと、何とも言えないですから」

 会いに行く。しかし、桜だけではこの店を離れることはできない。つまり、花梨に連れ出して欲しいと言うことだろう。

 花梨はうなずいた。不安そうな声を上げたのは黒曜石だ。

「いいのだろうか? 槐に黙って勝手なことを……」

 その言葉に、桜は軽く肩をすくめている。

「かといって、このままにはしておけないでしょう?」

 さて、と呟きながら、桜は立ち上がる。何をするかと思えば、廊下に向かって大声でこう呼びかけた。

「槐さん。槐さーん」

「――どうしたんだい?」

 少し間を置いて、槐が顔を出す。桜はすかさずこう言った。

「槐さん。久々に外に出たいんですが、花梨さんと一緒にお出かけしてもいいですか?」

「ああ。かまないよ。行っておいで」

 いぶかしむ様子もなく、あっさりと許可が下りる。槐に、よろしくお願いします、と頭を下げられて、花梨も慌てて、わかりました、とうなずいた。

「これでよし、と」

 槐が戻っていったことを確認してから、桜はそう言った。

 とはいえ、伝言をしていったなずなとは、店の前で別れたばかりだ。これからすぐに会いに行く、となれば――

「急に行っても大丈夫かな? その――なずなさんと、すれ違いになるんじゃ……」

 花梨がそう言うと、桜は、ふむ、とうなずいた。

「念のため、黄玉おうぎょくさんを連れて行きますか。なずなさんには内緒ですよ。花梨さん」

 桜に続いて、黒曜石がこう言う。

「確かに黄玉なら、なずなの居場所はわかるだろうが……」

 そういうものなのか。それにしても、なぜ内緒にしなければならないのだろう。花梨は内心で首をかしげる。

 桜は黒曜石にこう応えた。

「なずなさんのことなら、誰も文句は言わないですよ。碧玉さんには事情を話しておきます。黄玉さんが断るはずもないですし――」

 そのときふいに、この場に青年が姿を現した。彼のことは、以前にも見たことがある。淡い黄色の髪をした、左腕のない隻腕の青年だ。

「ああ、もう。急に現れないでください。黄玉さん」

 桜は顔をしかめて、その青年のことをそう呼んだ。

 黄玉は無言で部屋の隅に立っている。

「今回は、とりあえず黙ってついて来てもらいますよ。いいですか?」

 桜がそう問いかけると、黄玉はうなずいた。

「……かまわない。私も、なずなのことは気がかりだ。ともに行けるなら、それでいい」

 それだけ言って、黄玉は姿を消した。


 黄玉。どちらかというと、英語名のトパーズの方になじみがあるだろうか。十一月の誕生石ということもあり、その石のことはよく知っていた。思い描いたイメージはその名のとおりのあざやかな黄色。

 しかし、槐の店にあったその石は、ほんのりと淡く透明な黄色だった。大きな柱状の結晶には縦の方向に筋がある。宝石、と呼んでも差し支えない美しさだ。

 そう言えば以前、ハンドメイド作家の柚子が、この黄玉には割れた跡がある、というようなことを言っていた気がする。そう思って大きな結晶を注意深く見てみたが、その部分は花梨の目ではわからなかった。

「黄玉さん。その――よろしくお願いします」

 何と言っていいかわからずに、そう声をかける。ああ、とだけ反応あったので、花梨は慎重に黄玉を手に取った。もちろん、桜石も一緒に。

 槐にひとこと声をかけて、店を出ていく。桜は人の姿を現したまま歩きながらいろいろと話もしたが、黄玉はついに姿を現さなかった。桜の言った、黙ってついて来てもらう、という言葉どおりに無言を貫くつもりらしい。

 なずなの家には一度訪れたことがあったので、迷うことなくたどり着く。こちらの心配をよそに、彼女はすでに帰宅していた。

 突然の訪問には、なずなも驚いたようだ。しかし、すぐにほっとしたような顔になり、花梨と桜を快く迎え入れた。先に座敷へ通されて、しばしの間待っていると、そのうち湯のみの乗った盆を手にしたなずながやって来る。

「ここに来たのは、あのときお伝えした件よね? ごめんなさい。こんなに早く来てくれるとは思わなくって。気をつかわせてしまったのではないかしら」

 重要なことらしい伝言をしたわりに、なずなはおっとりした調子でそう言った。桜は苦笑する。

「気になる内容でしたから。それで、その……ここに来たんですよね――雨が」

 桜が単刀直入にそう言うと、なずなは、ええ、とうなずいた。桜と花梨は、座卓を挟んでなずなと向かい合う。

 自身が淹れた茶を花梨にすすめながら、なずなはその事情を話し始めた。

「私の力を借りたいのだそうよ。私は、あの雨の頼みを断るわけにはいかないの。借りがあるもの」

「そうだとしても、槐さんに何も伝えないのはどうかと思いますよ」

「槐の兄さまには頼りたくないの」

 少し頬を膨らませながら、なずなはすかさずそう言った。桜は、はあ、と気の抜けた返事をする。

「まあ、不安がないわけではないのよ。私ひとりの力では、心許ないこともわかっているわ。だから、つい店の前まで行ってしまったのだけれど……」

 なずなはそこで、大きくため息をついた。

「ああ……沙羅さんたら、また海外に行ってしまったのよね。今すぐにでも帰って来てくれないかしら……」

「結局、沙羅さんには頼るんじゃないですか」

「それとこれとは話が別よ」

 呆れたような桜の言葉に、なずなは口を尖らせる。

「えっと、その。私も事情を聞いてもいいでしょうか。差し支えなければ」

 この場にいながら話に置いていかれそうになっていた花梨は、おそるおそるそう言った。桜となずなは、そろって花梨の方を見てから、顔を見合わせる。

「そういえば、花梨さんにはそもそも、なずなさんのこともくわしく話してませんでした」

「あら。そうだったかしら。ごめんなさいね」

 なずなはそう言うと、あらためて花梨に向き直った。

「私はね。槐さんとは兄妹なのよ。血はつながっていないけれども。当然、石のことも知っているわ」

「なずなさんはあの家を出てからも、何だかんだ怪異に巻き込まれますよね」

 桜の言葉に、なずなは頬に手を当てて、嫌だわ、と呟く。何が嫌なのかはわからないが、おそらく深い意味はないだろう。

「で、今回の件ですけど――」

 桜はそう言って、話を戻した。

「これは、知らない人には説明が難しいですね。どう思います。なずなさん」

「そうねえ。あの人たちのことは、実際に目の当たりにしないことには……そうでなくとも、見た目はただの人にしか見えないもの」

 桜は考え込むように、腕を組んだ。

「何て言うか、存在がでたらめなんですよ。あの人たち」

「あら。あなたがそれを言うのね。桜くん」

 桜はそもそも桜石という名の石だ。今ではもうその存在に慣れてしまったが、常識的に考えて、でたらめと言えばでたらめだろう。

 少し考える素振りをしてから、桜は花梨に向かって、こう話し始める。

「雨、というのは、特殊な能力や技能、知識を持った一族――でしょうか。そんな感じです」

 その説明は、花梨が雨という言葉に抱いていた印象とは違うものだった。花梨が首をかしげるのを見て、桜は苦笑する。

「自称ではないですけどね。普段は現代社会に溶け込んでいて、その存在を知る者に対してだけ、雨の名前を符牒に使うんです。だから、彼らのことは単に、雨、と呼ばれています」

 ――

 どこかで聞いた気がする。いつのことだっただろう。確か、音羽家に伝わる呪術のことを知っている、とか――

「まあ、その特殊な能力が、かなりでたらめというか、何と言うか」

「それはうちも大概だけれど」

 なずなはそう口を挟んだ。彼女の言う、うち、は、当然、あの店の石たちのことを言っているのだろう。

 桜は肩をすくめている。

「そういう意味では、どうして店の方に来なかったんでしょうね。力を借りるなら、うちでもいいはずですし。何を頼むつもりなのかは知りませんけど」

「碧玉が通さなかったんじゃないかしら。そんな気がするわ。彼、あの人たちのことは嫌っているから」

 なずながそう言うと、桜は、なるほど、とうなずいた。

「それで……借りがある、ということは、来たのは当然、時雨しぐれさんですよね」

 桜は、そこでまた考え込む。

「あの人も、どちらかというと厄介ごとを持ち込んでくる方ですよ。正直、悪意か善意かわからないだけ、石英さんよりたちが悪い」

 その言葉に反応したのは黒曜石だ。

「石英と並べるのか。彼が聞けば怒るだろう」

 でしょうね、と桜は同意した。ここでの話なら聞かれることはないと高をくくっているのか、あくまでも軽い調子だ。

「それで、頼みごと、というのは?」

 桜の問いに、なずなはおずおずとこう答えた。

「くわしい内容は、まだ……そのときは、私も用があったから。後日、会う約束をしているわ」

「あくまでも、引き受けるつもりなんですね……それならせめて、そのときくらい黄玉さんと一緒に行ってはどうです?」

 桜がそう言うと、なずなは目を見開いた。

「どうしてそこで黄玉が出てくるの」

「どうしてって……」

 桜はその先に何かを言いかけたが、結局は何も言わずにため息をつく。

「じゃあ……僕がついて行くのはどうです」

「あら。頼もしいわ。でも、あなただけでは、あの店を出られないでしょう?」

 そのとき、黒曜石はふいにこう呼んだ。

「花梨」

 唐突に名を呼ばれて、花梨は驚く。皆の注目が集まる中で、黒曜石はこう続けた。

「君もなずなに同行してくれないだろうか。私も少し心配だ」

 あの店から石を持ち出すことが問題なら、確かに花梨にも協力できるだろう。ある程度の事情を知ってしまったのだから、今さら無関係とも言いがたい。そうでなくとも、花梨はその提案を快く引き受けるつもりだった。

「いいよ。黒曜石の頼みなんて珍しいから」

 花梨がそう答えると、黒曜石に、すまない、と返される。そのやりとりに、桜も、ほっとしたような笑みを浮かべた。

 ただひとり、なずなだけが困ったような表情になる。

「あら、まあ。申し訳ないわ。私……」

「断るのはなしですよ。なずなさん。槐さんに話さないと決めたのは、あなたでしょう? ならば、これに関しては受け入れてもらいます」

 桜にそう釘を刺されて、なずなは渋々それを受け入れた。




 そうして約束の日はやって来る。

 天気は秋晴れ。桜石と――そして、黄玉を持ち出して、花梨は店をあとにした。黄玉を伴ったその理由は、桜いわく、万が一のため、とのこと。

「なずなさんの力が必要だというなら、黄玉さんの力は役に立つでしょうから」

 と、花梨にはよくわからなかったが、そういうことらしい。外出については、今度もまた散歩へ行く、ということで槐には伝えていた。黄玉を連れて行くことは、やはりなずなにも内緒にするようだ。

 花梨と桜はなずなと合流して、その――雨と呼ばれている人が待っているところへと向かう。

 待ち合わせ場所は鴨川の西、五条大橋のたもとだった。五条というと、清水寺きよみずでらへ向かう人の流れは多いが、橋の方へ行く人の姿はそれほどでもない。花梨たちは人の波から別れて、橋を渡り始めた。

 この時期は秋の風が涼しく心地よい。しかし、橋の上だとそれはことさら強く冷たく感じられた。夏と秋の間――どっちつかずの季節は京都を少し物寂しい景色にしている。

 橋を渡りきると、すぐに黒い人影が見えてきた。待ち合わせの相手だろうか。近づいていくと、その姿が徐々にはっきりとしてくる。

 黒という印象の多くは、彼のまとった外套によるものだったらしい。ゆるく束ねた髪も黒く、さらには黒縁の眼鏡をかけている。

 ただ、見た目は至って普通の若い男性だ。奇妙なところは何もない――はずだったが、花梨はひと目見るなり、言いようのない違和感を覚えた。何がどう、というわけではないが何かが人とは違う。そんな感覚。

 ――この人が、雨?

 花梨たちのことに気づいたのか、男はふいに振り向いた。そして、真っ先に花梨の姿に反応を示す。

「おや。初めて見る顔だ」

「うちのお客様です」

 桜がそう言って花梨の前に立つと、相手はおもしろがるような表情で首をかしげた。

「お客、ね。まあまあ勘はいいようだけれど。彼女には、私たちのことをどう説明したんだい?」

「そのことが今、何か関係ありまして?」

 凛とした声でそう返したのは、なずなだった。その変化に、花梨は少し驚く。今の彼女は、花梨や桜と話していたときのおっとりとした雰囲気とは違い、毅然として相手の前に立っていた。

 なずなの問いかけに、相手は肩をすくめている。

「わざわざ連れて来たのは、何か意味があるのかと思いましてね。私たちがどういう存在かわかっているなら、そういった判断はなかなかできないだろうから」

 言葉だけだと、それは脅しめいたことを言っているようにも思えた。しかし、彼の口調はあくまでも楽しげだ。本気で言っているわけではない――のかもしれない。

 桜となずなにそろって鋭い視線を向けられて、彼はわざとらしくため息をつく。

「まあ、いいか。では、あらためて――初めまして。お嬢さん。私は時雨。彼らにはおそらく、雨、とでも呼ばれていただろう。しかし、私たちを表すには、もっといい呼び名がある。実際に、一部からはそう呼ばれてもいる。鬼、とね」

 ――鬼?

 花梨は自分が名乗ることも忘れて、ぽかんと口を開けた。鬼。鬼とは――そもそも何だろう。

 槐は言っていた。鬼というものは、おぬが語源とされているとおり、もとより目には見えない得体の知れないものを指していた。そして、まつろわぬ者たちや、異分子が負わされた名でもある、と――

 しかし、槐はそれとは別に、実在するものとして鬼を認識しているようでもあった。

 桜いわく、でたらめな力を持っているという者たち。石たちが持っているような不思議な力を、人そのものが持っているようなものだろうか。ならば、確かにそれは人ならざる者――鬼、なのかもしれない。

 花梨の反応を、時雨という名の鬼はいかにも楽しそうに見つめている。そんな彼に対して、桜はあからさまに顔をしかめた。

「そう呼ばれて喜んでいるのは、あなたくらいのものですけどね」

 桜のその言葉に、時雨は素直にうなずく。

「それも仕方ないことではある。私たちを鬼と呼ぶ者のほとんどは、自分たちと異なる者を排除したいがためにそうするのだから。常識外の存在が、己の領域にまぎれ込むことが我慢ならないらしい。私たちは、こんなにも社会に溶け込んでいるというのに」

 時雨はあくまでも笑っている。

「だから何だと言うのです。そんなことより――本題に入っていただけませんか」

 彼の語りをばっさりと切り捨てたのは、なずなだ。しかし、相手はそれに怯むことなくうなずくと、あっさりとこう答えた。

「そうですね。あなたに頼みたいこと、というのは――河原院かわらのいんの幽霊退治です」

 思いがけないことだったのか、平静を装っていたなずなの表情がわずかに曇る。隠しきれなかった困惑をにじませて、彼女は苦々しげにこう返した。

「頼む相手を間違っていらっしゃるのではありませんか。私に幽霊退治などできません」

 その言葉を、時雨は軽く笑い飛ばした。

「それはわかっていますよ。ただ、その幽霊はあるものを探しているようですから。それさえ見つかれば、成仏します。失せ物探しは、あなたの特技でしょう?」

 失せ物探し。

 花梨は思わず、なずなの方を見やった。彼女は考え込んだまま、じっと相手を見返している。

 しばしの沈黙のあと、なずなは重々しくうなずいた。

「わかりました。そうおっしゃるなら、引き受けましょう。あなたには借りがありますから」

 その答えに、時雨は満足そうにうなずき返す。

「それはよかった。しかし、あのときのことなら、そう気負う必要はありませんよ。こちらは借りとも思ってはいませんから」

 時雨はそこで意味深な笑みを浮かべた。笑み、というか、今までのおもしろがるようなものとは違う、何か含みを持たせた表情。

 なずなを横目に見ながら、彼はこう続ける。

「こういうことは、持ちつ持たれつ。もしも、石が割れるようなことがあったとしても――また直して差し上げますよ。あのときのように、ね」

 その言葉に、なずなは悲しそうな表情を浮かべた。


 幽霊が現れるという場所を教わってから、花梨たちは時雨とその場で別れた。

 相手は端から同行するつもりなどなかったようだ。しかし、そのわりには、くわしいこともほとんど話してもらっていない。退治して欲しいという幽霊も、それが探しているものについても、彼はただ、行けばわかる、と言うだけだった。

 目的地に向かう途中、なずなは花梨にこうたずねる。

「あなたは、黄玉の姿を見たことはある?」

 見たことがあるどころか、実は今この場に持ち出している――ということは黙っておいて、花梨はただうなずいた。なずなはため息をつく。

「彼の姿……片腕を失っていたでしょう? 気づいたかしら。石の方にも修繕の跡があるの。柱の形をしている結晶の、その縦長の向きとは垂直の方向に――割れた跡が」

 やはり、そうだったらしい。しかし、それが本当にあったかどうかは、花梨の目ではわからなかった。

 そのことを表情から察したのか、なずなはさらにこう続ける。

「黄玉――トパーズはもともと、劈開へきかいのせいで、割れやすい鉱物ではあるの。劈開というのは鉱物の結晶構造状、特定の方向に割れやすい性質のことよ。傷つきにくいとされている鉱物でも、この劈開があると、壊れにくさという点では弱くなる。黄玉は一方向に完全。その方向に割れるときには、きれいに割れるわ。うまく修繕してあれば、知らない人にはそうとはわからないかもしれない」

 なずなは淡々と話を続ける。桜は複雑そうな顔でそれを聞いていた。

「そういう意味では、確かにあの鬼はうまく修繕してくれた。見た目だけじゃない。黄玉が自我を失わなかった――そのことは何よりだった。あのときは、たとえ直したとしても、彼の心まで無事であるかどうかは、誰にもわからなかったもの。石が割れたことも、それを修繕したのも、黄玉が初めてだったから」

 なずなはあえて、鬼という呼び名を使った。

 黒曜石も桜も、もちろん黄玉も――彼らは石を拠りどころにした存在だ。それが損なわれることは、やはり死にも等しいことなのだろう。そして、それを直したというのが、先ほどの時雨という名の鬼。

 しかし、そもそもなぜ、黄玉は割れてしまったのだろうか。その疑問に答えるように、なずなはこう続けた。

「あれはね、私のせいなの。私が無茶をしてしまったから。そのせいで、彼はあの姿になってしまった。本来ならどの石であれ、落としたくらいで彼らは割れたりしない。それほどの負荷を、私は彼に強いてしまった……」

 なずなの告白に、桜は慌てたように声を上げる。

「なずなさん。黄玉さんはそのこと、気にしてないですよ。むしろ、なずなさんが顔を見せなくなったことの方が――」

「わかっているわ。あの家の人たちは――もちろん石たちも、みんなやさしい。でもね、だからこそつらいの」

 なずなは、桜の言葉をさえぎるようにそう言った。桜はそれ以上何も言えずに口をつぐむ。

 いつかのとき、黄玉が姿を現していたことを花梨は思い出した。あれはきっと、なずなのことを待っていたのだろう。

 なずなは大きくため息をつく。

「あの家で今までずっと大切にされてきた石を、私のせいで損なってしまった。黄玉の姿を見るたびに、取り返しのつかないことをしてしまったということを思い知る。だから私は……」

 なずなはその先を言い淀むと、しばし黙り込んだ。

 彼女が店に入ることをためらっていたのは、黄玉のことを避けていたからなのだろう。槐を頼りたくないというのも、負い目があるからなのかもしれない。

 それを知っているから、黄玉もなずなのことをずっと気にかけている。そうして、いつか彼女の悲しい気持ちが晴れるときを待っているに違いない。

 過去のことを思い出していたのか、なずなはふいにひとりごとを呟いた。

「それでも、あのときの私は、そうするより他なかった。私はどうしても、槐の兄さまに――」

 そこまで言ってから、はっとして口を閉じる。そして、花梨に向き直ると、なずなは気づかわしげにこう言った。

「ごめんなさい。何でもないわ――何にせよ、あなたを巻き込んでしまったことに変わりはないから、ちゃんと話しておいた方がいいかと思って。あんなことを言われたとあってはね……でも、聞いて楽しい話でもなかったわ。ごめんなさい」

 なずなはそう言うと、気持ちを切り替えるように辺りを見回した。そして、戸惑ったような声でこう呟く。

「それにしても、河原院の幽霊退治、ねえ……」

 いつの間にか、なずなはおっとりとした口調に戻っている。その変化に戸惑いつつも、花梨は口を開いた。

「河原院って、確かこの辺りにあったという邸宅のことですよね」

 五条大橋のたもとから、花梨たちは木屋町きやまち通りを南へ進んでいる。花梨の言葉に、なずなはうなずいた。

「ええ。河原院は平安時代初期の左大臣――源融みなもとのとおるの邸宅よ。かなり広かったみたい。ただ、今に残っているのは、石碑くらいじゃなかったかしら。あとは、渉成園しょうせいえんがその一部だったらしいけど……」

 石碑はとうに通り過ぎていて、辺りにはごく普通の民家などが並んでいた。なずなは何かを思い出そうとするように、視線を宙にさ迷わせている。

「確か、源融が亡くなったあと、その邸宅に融の幽霊が出るというお話があったわね。『今昔物語集』だったかしら。まあ、とにかく言われた場所に行ってみましょう。もしかしたら、その幽霊に会えるのかもしれないわ」

 どこかそわそわしているなずなに、桜はこう指摘する。

「何だか、その幽霊に会いたいみたいな口振りですね。なずなさん」

 なずなは頬を膨らませた。

「そんなことないわよ。もう。その幽霊とやらに会わないことには、何を探せばいいのかもわからないもの。でも、まあ……ほら。源融って『源氏物語』の――光源氏の元になった人でしょう。そう考えると、少しは気になるかもしれないわ」

「何をのん気なこと言ってるんですか……」

 桜は呆れたように、そう言った。

 しばらく歩いていると、やがて指示された場所へとたどり着く。そこにある家屋を目にした途端、なずなは呆然と呟いた。

「河原院……? この古い空き家が?」

 あからさまにがっかりしている。本当に河原院を期待していたわけではないだろうが、それでも確かに、それは豪勢な邸宅とは似ても似つかぬところだった。

 そこに建っていたのは、歴史があるとも趣があるとも言えない、古びたと表現するのがもっとも相応しいだろう一軒家。築五十年――いや、それ以上かもしれない。

 表札はなかった。生活の気配も一切感じられない。ただ、庭にある金木犀の木が、かすかに香る花を咲かせている。

 表の門は閉じられていないので、中に入るには問題なさそうだ。愕然としていたなずなだが、ここが目的地であることを確かめると、ためらいなく足を踏み入れた。引き戸を開け――鍵もかかっていないようだ――おじゃまします、とひとこと添えてから、家の中へと上がり込む。

 気後れしていた花梨たちが慌ててついて行くと、すぐに茶の間の前に立つなずなの後ろ姿に行き当たった。その視線の先にあったのは、佇む何者かの人影。

 部屋の中心でほうけていた誰かは、なずなたちのことに気づくと、ぼんやりした瞳をこちらに向けた。幽霊と呼べるほど漠然としたものではない。目の前にいるのは、どう見てもその辺りを歩いていてもおかしくないような普通の青年だった。

 ――この人が河原院の幽霊?

 青年は曖昧だった焦点を結ぶと、ふいに花梨たちに向かって言葉を発した。

「誰だ? 人の家に勝手に上がり込んで……どういうつもりだ?」

 何かがおかしい。この人は何者だろう。間違っても平安時代の幽霊――源融などではない。それどころか――

 花梨が戸惑っているのと同じように、相手も困惑している様子が見てとれた。そのうち、青年は何かに思い至ったかのように、その顔を怒りの表情に変える。

「何か……あったのか? あいつはどこだ。知っているんだろう――あいつをどこへやった!」

 青年は必死の形相でなずなに詰め寄った。伸ばした手は、つかみかかろうとでもしたものだろうか。しかし、なずなは恐れることもなく、わずかに顔をしかめただけで軽く身をかわす。

 むしろ、焦りを見せたのは桜の方だ。

 桜はなずなとの間に割って入ると、青年を鋭くにらみつけた。その途端、相手は何か恐ろしいものでも見たかのように表情を歪ませる。そうして、うめき声とともに膝をつくと、そのまま畳の上に倒れ込んでしまった。

 動かなくなった青年を見下ろして、桜が声を上げる。

「何が幽霊ですか。この人は――生きた人ですよ!」

 いったい、何が起こったのだろう。花梨は桜に視線で問いかけるが、彼はただ、ばつの悪そうな表情を浮かべるだけ。

 花梨は用心しながら青年に近づいていった。よく見ると、ゆっくりと息をしていることがわかる。しかし、どうやら意識はないようだ。

「気を失ってますね……」

 花梨がそう呟くと、なずなも青年の傍らにしゃがみ込み、その体を軽く揺すりだした。

「あら、本当。桜くんたら。いくらなんでもやり過ぎよ」

 やはり桜が何かをしたのだろう。考えてみれば、石たちにはそれぞれ変わった力があるのだから、桜にもそれがあったとしてもおかしくはない。

 とはいえ、桜は自分のとった行動に思いのほか動揺しているようだ。むしろ自分以外の二人が動じていないことに、呆れたようにこう呟く。

「二人とも、どうしてそんな冷静なんです……」

 目覚める気配のない青年をどうにかすることを諦めて、なずなは困り顔でため息をついた。

「幽霊呼ばわりはどうかと思うけど、雨が言っていたのは、たぶんこの人のことよねえ。どうしましょう。何を探せばいいか、この人が知ってるはずなのに」

「ちょっと、すぐには起きてくれなさそうですね」

 花梨がうなずくと、桜は焦ったように花梨となずな――交互に顔を見比べた。

「あれ? 何か、その……僕のせいですか?」

 それに答えたのは黒曜石だ。

「いや。桜石がいてくれてよかった。生きた人が相手では、私の力だと命を奪いかねない。とっさの判断だ。仕方がないだろう」

「そう言ってくれるのは黒曜石さんだけですよ……」

 桜の呟きは、少なくともなずなの耳に届くことはなかったようだ。彼女は倒れた青年を前にひとしきり考え込んだあと、ふいに立ち上がった。

「仕方がないわねえ。ちょっと、家の中を見てくるわ。ここで待っていてちょうだい」

 そう告げると、なずなはさっさとこの場を去ってしまう。止める間もない。桜は慌てて追いかけようとするが、青年のことも気にかかるようで、板挟みになったまま戸惑いの声を上げる。

「え? ひとりじゃ危ないですよ。なずなさん。他にも誰かいるかもしれないじゃないですか」

 花梨はなずなが向かった方と正体の知れない青年を見比べてから、桜を視線で押し止めた。

「私が行ってくる。桜くんは、この人を見張ってて」

 そう言い残して、花梨はなずなのあとを追う。

 なずなはどうやら、早々に二階へ向かったようだ。階段を上ると、すぐそこに彼女の姿を見つけた。ゆっくりと首を巡らせながら、がらんとした部屋中をくまなく見て回っている。何かを探しているのだろうか。

 花梨が声をかけようとすると、黒曜石に止められた。

「待て。花梨」

 花梨は驚いてその場に立ち止まったが、なずなはこちらの動きに気づく様子もない。

 黒曜石はこう続けた。

「なずなはおそらく、見ているのだろう。この家の記憶を」

 ――記憶を、見る?

 花梨はなずなの凛とした横顔を見た。彼女の目は、淡々と――畳を、柱を、天井を捉えている。庭から流れてくる金木犀の香りの中で、なずなは静かに、彼女にしか見えないものを追っていた。

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