第十話 忍石 前編

 椿は今日もひとり、座敷で本を読んでいた。

 お気に入りの座椅子を持ち込んで、椿はよくこの場所にいる。適度に陽の光が入るし、風の通りもいいので、快適に過ごすのには申し分ない。店の客が訪れない限り、椿は大抵ここにいた。

 できることなら、客も含めて誰もここには連れて来ないで欲しい、と椿は常に思っている。とはいえ、店の方は目も当てられない惨状なのだから、そうもいかないのだろう。わかってはいるが、ここで静かに過ごしたい椿には迷惑極まりないことだった。

 そもそも椿は本の虫ではないし、外に出ることを嫌っているわけでもない。むしろ、どちらかというと外を歩くことの方が好きなのだが、この時間にひとりでいると周囲に見咎められることもある。それが面倒なだけだった。学校にも行かずにふらふらしているのだから、仕方のないことかもしれないが。

 椿は人ごみが――いや、人というものが嫌いだ。関わらないなら、それに越したことはない。

 そんな理由で、椿は今日もひとり本を読んでいた。本を読むのは、当てもなく街を散策するのに似ている。そうして何ごともなく静かに過ごせるなら、それでいいだろう。

 文字を追いながら、そんなことを考えていた矢先――ふいに襖の動く気配がした。

 椿は顔を上げて、廊下の方へと視線を向ける。わずかに開いた隙間から、こちらに視線を送っているのは桜だ。何かを言いたいらしいが、言いにくいことなのか、じっとこちらの様子をうかがっている。

「何」

 と言って椿がにらみつけると、桜は渋々こう言った。

「それが、お客様みたいなんですよね」

 だから何だというのだろう。この部屋から去れということだろうか――と考えてから、椿はふと槐が外出していることを思い出した。

 いつもの客なら椿がいても問題ないだろうし、石が目当ての客なら大抵はあらかじめ約束しているはず。だとすれば――

 嫌な予感がして、椿はため息とともに目の前の本を閉じた。

「私にどうしろっていうの」

「たぶん、例のあれに呼ばれたんだと思うんですよ。このまま帰してしまうのは、まずいかと」

 椿は思わず顔をしかめた。

 例のあれだの、人の姿をとって現れる石だの、この家は本当に面倒ごとが多い。とはいえ、その面倒ごとは、椿にとってもっと面倒だったものと引き換えとなったものだから、そう簡単に無視できるものでもなかった。

 本を置いて、椿は立ち上がる。どうすべきかを決めた訳ではない。しかし、ここで不平を言ったところで意味はないだろう。ならば、とにかくその客とやらを見てみようか。それとも――

 考えた末に、椿は客のところへ行くことはやめにした。そちらはひとまず桜に押しつけて、向かったのは石たちのねぐらとなっている、あの部屋だ。

 町屋に不釣り合いなその洋間は、いつものように暗がりに沈んでいた。そこには誰の姿もなかったが、わだかまった影には何かが潜んでいるような――実際、この場にいると言えばいるのだが――妙な気配だけがある。

 椿は真っ先に、碧玉の本体が残されていることを確認した。碧玉を伴っていないなら、槐は遠方に出たわけではないだろう。すぐに帰ってくるだろうし、それまで客のことはこの石にでも任せてしまおうか――と、そこまで思って、果たしてこれにそんなことができるだろうか、と思い直した。

 椿は碧玉が苦手だ。嫌うほどまともに会話をした覚えもないが、居丈高に話すことを知っているので、何となく気後れする。その振るまいは、椿の知る限り誰に対しても変わらない。

 そう考えると、そんなものに客の相手ができるとも思えなかった。愛想のない翡翠にも、それはおそらく無理だろう。石英は論外。話にならない。だとすれば――

「……灰長石かいちょうせき

「何かな、椿のお嬢ちゃん」

 お嬢ちゃん、と言う呼び方には若干の抵抗を覚えたが、この状況で指摘するほどのことでもない。椿は聞かなかったことにして、目の前に現れた人の姿をしているそれに、こうたずねた。

「客だそうよ。あなた、相手できるの」

「おや。槐の坊ちゃんはお出かけか。まあ、店主の代わりなら慣れている。任せてもらってかまわないよ」

 ――坊っちゃん、て……

 相手もいい年なのだから、その呼び方はどうかと思う。しかし、椿はそれについても無視することにした。内心では呆れながらも、あらためて目の前の姿に向き直る。

 赤茶色の髪の青年は、灰長石という石の化身だ。よく見ると、その目には銅色の光が散っていて、不思議な輝きをしている。

 どうも石たちの中では古株らしく、それが理由かはわからないが、見た目のわりにどこか年寄りくさい。翡翠の話では、石たちが自我を得た時期に、それほど隔たりがあるわけではないということだったが。

 何にせよ、少なくとも碧玉よりは話しやすい相手だった。他の石たちも彼のことは古参として扱うので、何かあったときに話が通りやすい。

 いつだったか、まだ椿がこの家に慣れていない頃、勝手に石を持ち出そうとしたときにそれをやんわりと止めたのもこの石だった。それ以来、槐のいないときに何かあれば、この石に断りを入れるのが無難だと椿は思っている。

「それで、お客はどんなお人だい?」

 灰長石の問いかけに、椿は肩をすくめた。

「さあ。まだ会ってない。桜は、あれに呼ばれた客だ、とか言っていたけど」

 灰長石は訳知り顔で、ふむとうなずいた。

「あれに呼ばれた客なら、そう難しいことじゃない。客自身が、自分に必要なものを、勝手に選んでいくだろう」

 相変わらず、よくわからない理屈だ。ここではそういったことが自然と受け入れられているが、椿はいまだに、こういう常識はずれなことには慣れなかった。これから先、慣れる気もしない。

 椿ですらそうなのだから、どんな怪異も不思議も知らずに生きてきた者たちにとって、ここはきっと魔窟のようなものだろう。それとも、そう感じるのは、自分がまだこの家にとって異物に過ぎないからだろうか。そんなことを、椿は思う。

 この家の非常識と親しくするつもりもないが、爪はじきにされるのも釈然としない。いつもだったらくわしくたずねようと思わないのだが、そのときの椿はそれがどうしても気になった。

 だから、灰長石にこう問いかける。

「その――あれとやら、槐ですらよくわかってなさそうなのに、あなたはよく知っているのね」

 その言葉に、灰長石は何がおかしいのか声を上げて笑った。

「ここにいる石で、あれを知らないものはいないよ。お嬢ちゃん。まあ、槐の坊っちゃんは、あれの本性など知るはずもないがね。残念ながら――か、あるいは幸いなことに、か――今はあれと言葉を交わす手段がないのだから」

 灰長石の答えに、椿は思わず顔をしかめた。

 言葉を交わすことができる、のか――あの、ご丁寧になぜかこの家の神棚に祀ってある、あの石とも。

 石。やはり石だ。しかし、それは何の変哲もない石だった。少なくとも、椿の目にはそうとしか思われない。まだこの部屋にある石たちの方が珍しい。

 槐が言うには、それは――怪異に困っている人をやたらと呼び寄せる、のだそうだ。話を聞く限りでは、それに関しては槐もよくわかっていないらしい。

 だからというわけではないが、今の今まで椿はそれをただのいわくつきの石だと思っていた。この部屋にあるものではないから自我はないものだと、そんな風に決めてつけていた。しかし、灰長石の言葉を信じるなら、事情は少し違うらしい。

 椿はさらにたずねる。

「そもそも、あの石が口をきくなんて、知らなかったんだけど。どうして、それとは話ができないの? 槐も姿は見たことない?」

 灰長石は快活に笑う。

「お嬢ちゃんが言っているのは、この姿のことだろう? それなら、あれにはそもそも、そんなものはないよ」

 わけがわからなかった。椿が顔をしかめると、どこか別の場所から声がかかる。

「あまりお嬢さんを困らせるのではないよ。灰長石」

「困らせているつもりはないんだがなあ。玻璃長石はりちょうせき

 灰長石は笑いながら、その声に応えている。椿はそのやりとりに、深くため息をついた。

 こうして思わぬところから口出しされることも、ここではよくある。よくあることなのだから、いちいち苛立っていてはきりがないが、少なくともこのときの椿は水を差されたような気がした。おかげで、それ以上のことをたずねる気が失せてしまう。

 そんな椿の心の内には気づかずに、灰長石は人の良さそうな笑みをこちらに向ける。

「さて、お客をあまり待たせてもいけない。連れて来てくれるかな、お嬢ちゃん。こちらで、良いようにするとしよう」

 そこで椿はようやく、今の状況を思い出した。

 灰長石の言うとおり。こんなことはさっさと終わらせて、いつもの場所に戻る方がいいだろう。

 椿はそう考えて、今日の客――何らかの問題を抱えているらしい、その客の元へと向かった。


「翡翠。あなたは、あの石と話をしたことがあるの」

 部屋を出て通り庭へ向かう途中、椿は何気なくそうたずねた。翡翠からは短く、ある、とだけ返ってくる。

「だったら、神棚なんかに置かないで、あの部屋に並べておけばいいのに」

「あの石は、我々とは力のよすがが違う。我々とは似て非なるもの」

 特に深い考えがあっての呟きではなかったが、翡翠は思いがけずそう答えた。無口な彼にしては、珍しい。せっかくだからと、椿はもう少し踏み込んでみる。

「どうしてそんなものが、この家に厄介ごとを呼び込んでくるの」

「あの石の自我が、そういう者たちを助けるために生まれたからだ」

 ふうん、と椿は気のない返事をする。そもそもの話、椿は翡翠がどうやって自我を得たのかもよく知らない。

「椿。くわしく知りたいなら、かやが帰って来たときに、琥珀こはくにたずねるといい。あれのことは、彼の方がよく知っている」

 翡翠の言葉に、椿はため息をついた。

「別に、そのことを強いて知りたいわけじゃないけど。この家には、まだ私の知らない隠しごとがあるみたいだから」

 椿はそう言って、肩をすくめた。嫌みを含ませたことが伝わったのか、翡翠はほんの少し声の調子を落とす。

「椿のことを、ないがしろにしているわけではない。皆、まだ時ではないと思っているだけ」

「そういうことにしておく」

 坪庭と通り庭の境では桜が待っていた。椿の姿を見つけると、ほっとしたようにこちらに向き直る。

 それを見て、椿はふと思った。

「というか、あなたが連れて行けばいいだけじゃないの。あの部屋に」

「僕はダメですって。槐さんの許可もなしに、そんなことできませんよ。いろいろと、あるんです」

 そう言って首を横に振る桜を、椿は冷ややかな目で見返した。

 家事でも何でもだいたいのことはこなす桜だが、他の石とのことになると、たまにこういう反応を示す。どうも、あの部屋にある石の中に折り合いの悪いものがいるらしい。そんなこと、椿の知ったことではないのだが。

 椿はため息をつくと、桜を押しのけて通り庭をのぞき込む。とにかく、こんな面倒ごとは早く終わらせたかった。

 明るい坪庭の方から見ると、土間の通路はいかにも暗い。しかし、その暗がりは視線の先にいる者の姿を隠すほどのものではなかった。

 そこにいたのは制服姿の少女だ。高校生だろうか。こんなところで待たされていることに苛立つ様子もなく、こだわりもなさそうに、たたぼうっと周囲を見回している。

 ――どう声をかけようか。

 椿はとっさに言葉が浮かばず、立ち止まった。客の相手などまともにしたことがないのだから当然なのだが、それでもこんなときには少しもどかしく思う。

 迷った末に、椿はいつもどおりに接することにした。

「この店に、何か用?」

 佇む少女の目の前に歩み寄り、そう問いかける。が、意図せず突き放したような言い方になってしまった。やはり、慣れないことなどするものではない。

 しかし、相手はそれを気にした様子もなく、むしろ別のことに驚いたようだった。

「……女の子?」

 いぶかしげに首をかしげて、そう小さく呟く。その反応も無理はないだろう。待たされた挙げ句に現れたのが、自分よりも年下の子どもだったのだから。

 それでも、相手の方はさして不審がる様子もなく、すぐに気を取り直した。

「お店、見るだけでも大丈夫かな?」

 少女は親しげにそう問いかける。

「そこの戸をくぐり抜けた者なら、基本的にここは来る者拒まず、だから」

 椿は愛想笑いも浮かべずに、ただそう言った。

 それを聞いて、少女は表の格子戸を振り返る。何の変哲もない引き戸だ。しかし、この店に害のある者だと判断されれば、ここから入ることは容易ではない。もちろん、この少女はそんなことを知るはずもないが。

 どうぞ、と声をかけて、椿が奥の方を差し示すと、少女は何の疑いもなくそちらへ足を踏み入れた。椿は彼女の前は歩かずに、すれ違ってから後ろをついて行く。

 坪庭には桜がいる。少女は彼に導かれるまま座敷を通り過ぎ、あの部屋へと向かった。

「ところで、ここは何屋さん?」

 少女の問いかけに、椿は短く、石、とだけ返した。心の内では――そんなこともわからずに、よくこんなところへ入れるものだ、と思いながら。

 部屋への扉は桜が開ける。その先では、灰長石が静かに佇み待っていた。いつも槐がそうするように。しかし、灰長石は決して槐には似ていない。

 灰長石はどこかおもしろがっているような、そんな表情をしている。とはいえ、何も知らずに見れば、まさかこれが人ではないなどとは思わないだろう。

「ようこそ。お嬢ちゃん。さて、お嬢ちゃんは何をご所望かな」

「何って言うか……どうしても気になって。それで入って来ちゃったんですけど」

「かまわないよ。お嬢ちゃん、やはりあれに呼ばれたね」

 冗談っぽく言ってはいるが、聞いている方は気が気ではない。灰長石に任せてさっさと去ろうと思っていたのに、どうにも心配になって、椿は戸口にとどまった。

 少女は招き入れられた部屋の中心で、呆然と壁を見上げている。いつの間にか桜がいなくなっているが、給仕にでも行ったのだろう。

「ここって、こんな――」

 少女はそう言いながら、周囲を見回した。棚に並べられた、石たちを。

「ギャラリーみたいなところだったんですね」

「こういうところには、よく来るのかい?」

 灰長石はそうたずねた。こんなところが他にいくらもあるものだろうか、と椿は内心でいぶかしむ。

「個展とか、小さな店の企画展みたいのには、たまに。それに似てるかな。でも、こんな店は初めてかも。町屋を改造したんですか?」

「ここはちょっと……そういうのとは違うと思うけど」

 目を輝かせている少女に居たたまれなくなって、椿は思わずそう指摘してしまう。

「ところで、お嬢ちゃんはどこからいらしたのかな?」

 灰長石の問いかけに対して、少女は遠方の地名を口にした。京都には修学旅行で訪れたらしい。見かけない制服だから、そんなことだろうとは思っていた。とはいえ――

「ひとりかい? お友だちは?」

 少女は答えをはぐらかした。どうも規則を破ってひとりで行動していたようだ。

 椿は呆れたが、知らない少女相手に苦言を呈するつもりもない。それは灰長石とて同じだろう。特に気にする風もなく、こう続ける。

「そうかい。何にせよ、遠くからよくおいでになった。歓迎するよ。旅人というものは、福とわざわいをもたらす存在だ。だからこそ、もてなさなければね」

 灰長石の言葉に、少女は顔をしかめた。

「福も正直、大げさ過ぎてあれだけど、さすがに禍は嫌なんですけど……」

 その言葉に、灰長石は声を上げて笑う。

「だがまあ、初めて会うお人というのは、どんな人だかわからないものだろう? 福か禍か――だったら、そういう心持ちで接するに越したことはない」

「それが京都流のおもてなし?」

 少女の言葉に、灰長石は首を横に振る。

「いやいや。私の流儀だよ。しかし、京都というのは、おもしろい土地だ。おもしろいが、いろいろある分、面倒なしがらみもある。だから――」

 灰長石はそこで一旦区切ると、少女を真っ直ぐに見定めた。そして、こう続ける。

「ここではね、その禍を避けるためのお守りを貸している」

 黙って見守っていた椿は、そこでようやく、それが本題へ入るためのやりとりだったことに気づいた。とはいえ、やはりよくわからない理屈ではあるが。

 少女の方も、突然のことに軽く首をかしげている。

「お守りを貸す――お店なんですか? 売る、ではなく?」

「槐の坊っちゃんは、大事にしてもらえるなら、それで構わないと思ってそうだが。とりあえずは、ね」

 灰長石はわずかに寂しげな表情を浮かべたが、それはすぐに消え去った。人のよさそうな笑みに戻り、少女にこう問いかける。

「さて。何か気になる石はないかな? この中に、お嬢ちゃんの助けになる石があるはずだ」

 この状況に順応していた少女も、さすがにそこで――はいそうですか、と石を選び始めるようなことはしなかった。うろんげな目になって、こうたずねる。

「――それ、お金は?」

「お気持ちだよ。神社でのお参りと一緒だ」

 そんな理屈が通るのだろうか。椿は首をかしげたが、少女はそれを受け入れた。雰囲気にのまれているのか、それとも――

 何はともあれ、少女は部屋の壁まで歩み寄り、首をひねりながら棚をながめ始めた。当初こそおそるおそるという様子だったが、いろいろな鉱物を目にしたことで、そのうち夢中になっていったようだ。

 しばらくしてから、少女はふと、とある石の前で立ち止まった。

「これって葉っぱの化石ですか?」

 そう言って指差した石には、確かに表面に葉が貼りついたような模様があった。黒く、枝分かれした細かな葉。あるいは、その形は樹影にも似ている。

 灰長石は首を横に振った。

「いや。この石は泥なんかが積もって固まった岩に、金属の溶液が染み込んでこんな黒い模様になったものだよ。その模様がシダ植物のシノブの葉に似ているから、忍石しのぶいしと呼ばれている」

 灰長石がすすめるので、少女はそれを手に取った。彼女は興味深そうに、その石をのぞき込んでいる。

「それがお嬢ちゃんの気になる石かな? 忍石か。なら、何の問題もないだろう」

「問題のある石もあるんですか?」

 少女の問いかけに、灰長石は苦笑した。

「まあ、お嬢ちゃんがそれを求めるなら止めることはないが、鶏冠石けいかんせきや、硫砒鉄鉱りゅうひてっこうなら――ひとこと注意は必要だろうからね」

「どうして?」

「……ヒ素の鉱物だから」

 椿は思わずそう答えた。灰長石はうなずいたが、少女の方はいまいち理解が及ばなかったようだ。

「えっと……それって、毒ってこと?」

 灰長石は軽く笑う。

「扱いさえ間違えなければ、危ないものではないよ。ともかく、お嬢ちゃんの選ぶ石は忍石で構わないかな? よければ、お嬢ちゃんにはそれをお貸ししよう」

 灰長石は軽い調子でそう言ったが、少女の方は表情を曇らせる。

「でも、自由行動、明日までなんですよね。どうしよう。借りたとしても、返せなかったら?」

「しばらくは預かってくれてもかまわないよ。落ち着いたら、こちらに送ってくれるでもいい。もしも、どこかに捨てたとしても――こちらの方で探し出すからご心配なく。実際に、そうしたこともあったな。あのときは、大変だった」

 少女は困惑の表情を浮かべた。わざわざ探すという言葉に、若干引いている。無理もない。

 それでも少女は忍石に惹かれるものがあったらしい。彼女はその石を借りることを決めた。

 桜がお茶を持ってきたので、そこでひと息つく。少女は鉱物のことに興味を持ったらしく、熱心にいろいろとたずねていた。それには、灰長石が答えていく。

 そう長い時間ではなかったが、少女はそのひとときに満足して店を去っていった。忍石を持って。

「――よい旅を」

 そう言って、灰長石は少女を見送った。


「さて――どう思う。碧玉の旦那。先ほどのお客のことだが」

 ようやく終わったと椿が安堵していたところで、灰長石はそう問いかけた。返ってきたのは、姿なき声。

「本人やその周囲に何かがある、というわけではないようだったが。あの様子では、巻き込まれているという自覚もないだろう」

「いや」

 そう言って、ふいに姿を現したのは翡翠だ。そもそも顔を出すこと自体珍しいのだが、それでいて今の表情は妙に険しい。

「あの少女にはしるしがあった。あれは――よくないものだ」

 どういうことだろう。そういう勘の働かない椿では、この会話には入っていけない。そう思っている間に、碧玉が話を振ったのは――

「石英」

「ん? 僕に意見を求めるのかい? まあ、忍石が一緒なんだから大丈夫だよ。少なくとも、あの子はね」

 石英もまた、姿を現さずにそう答える。

「含みを持たせた言い方しますね……」

 空になった湯のみをさげていた桜が、呆れたようにそう呟いた。

「まあ、あのお嬢ちゃんが選んだのだから、忍石に任せるとしようか。私たちにできることは、これくらいだ。それでよろしいかな、椿のお嬢ちゃん」

 灰長石から急に声をかけられて、椿は反応に困った。しかし、椿とて、あの少女にこれ以上関わるつもりはない。椿がうなずくと、灰長石も翡翠も納得したように姿を消す。

 椿自身は何をしていたわけでもないのだが、これでようやく終わったものらしい。ただ、翡翠の浮かべた表情だけが、いつまでも気がかりとして残っていた。


     *   *   *


 店を出て、京都の通りを歩いていた。

 予定にないことで時間をとられてしまったが、そういう偶然こそ、散策する上でのおもしろさというものだろう。見知らぬ街をさまよい、思わぬ人や店と出会う。そんな道行きは、やはりひとりの方が気楽でいい。

 もともと、ひとり歩きは好きだった。とはいえ、修学旅行の班行動に当てられた時間をひとりで行動することは、決して良いことではない。そのこと自体は自覚している。

 ただ、あの店の人だって――京都には面倒なしがらみがある、というようなことを言っていた。それはこの土地に限ったことではないと思う。例えば、学校というものだってそうだ。

 今、自分がこうして行動しているのも、その結果だった。別に孤立しているとか、そういうことではない。同じ班のクラスメイトには協力してもらっているし、そうしなれば、さすがにこれほどの勝手はできないだろう。

 しがらみの中で、自分の望みのとおりに楽しめる方法があるなら、多少は無茶をしたとしても、それでいいのではないだろうか。不安がなかったわけではないが、満足なひとときを過ごしたことで、あらためてこうしてよかったと思えていた。

 今はとにかく気分がいい。気がかりがあるとすれば、少し雲行きがあやしいことくらいだ。そんなことを考えながら、次の目的地までの道を歩いていたときのこと。

 人通りの少ない道。頭上に広がる曇り空を、ふいに黒い影が横切った。それだけなら見過ごしたかもしれないが、何かが気になって、思わずその姿を目で追っていく。

 おそらくは鳥の影だろう。しかし、羽音が妙に大きい。カラスだろうか。それともトンビか――

 そう思って振り返った視線の先で、その鳥が木の枝に下り立つのが見えた。それを目にしたときすぐに、とても嫌なものだ、と直感する。

 それは、恐ろしく大きな鳥だった。間違ってもカラスやトンビではない。そして、何より異様だったのは、その頭部が人の顔のように見えたことだ。

 ――こちらを、見ている。

 恐怖のあまり、身がすくんだ。同時に、悲鳴を上げて走り出したい衝動にかられる。しかし――

「動かないで」

 どこからか声がしたかと思うと、抱きすくめられたような感覚に包まれた。普通なら、ぎょっとするところだが、そのときはなぜだかひどく安心する。

 声は背後から聞こえてくるようだ。

「私の葉陰に君のことを隠してあげよう。じっとして、やり過ごすんだ」

 ――やり過ごす?

 では、自分はあの鳥に狙われているのだろうか。

 あらためて化け物に視線を向けたとき、目が合ったと思ってぎょっとした。しかし、それは気のせいだったらしい。よく見ると、鳥はその首を周囲へと巡らせている。

 こちらのことは、気づいていないようだ。だが、その動きは何かを探しているようにも思えた。

 このままじっとしていれば、逃れられるのだろうか。自分を助けてくれるという、この声は誰なのだろう。不安に押しつぶされそうになりながらも、息を殺してじっと待つ。

 目を逸らせばこちらへ襲ってくるような気がして、化け物からはうかつに視線を動かせない。確かに鳥ではあるのに、人のように見える顔。しきりに首を動かしているのが、よりいっそう不気味だ。

 こんな姿の生き物など、今まで生きてきた中で一度も見たことがない。それでも、それを見つめているうちに、記憶の中に何か引っかかるものがあった。しかも、そう昔のことではない。

 何だろう。こんな奇妙な鳥、一度見れば決して忘れないと思うのだが。

 思い出そうとして、目の前の姿を注視していると、くちばしがわずかに動いていることに気づく。それはときおり、普通の鳥ではありえないような鋭い歯をのぞかせていた。

 ――何か、言ってる?

 耳を澄ませると聞こえてくる、低くうなるような音。鳴き声かとも思ったが、人の言葉のようにも聞こえた。短い単語をくり返し、何度も何度も呟いている……

 しばらくすると、その鳥はしばし動きを止めた。探すことを諦めたのだろうか。ふいに翼を広げ、はばたいたかと思うと、そのまま上空へと飛び立つ。その影はたちまち遠のき、雲にまぎれて消えていった。

 ほっとして、思わず息をつく。と同時に、背後から再び声がした。

「思っていたよりも、厄介なものに目をつけられたかもしれないね。君は」

 振り返ったが、そこには誰の姿もなかった。周囲にも人影はない。

 困惑のあまり呆然と立ち尽くしていると、ふいに連絡用に持っていた端末から音楽が流れ出した。クラスメイトからの着信だ。すぐに応答して、相手の話に耳をかたむける。

 どうも、何か問題が起きたらしい。すぐに集合場所に来て欲しいとのこと。

 嫌な予感がする。あの化け物は、たまたま自分と行き合っただけだろうか。それとも――

 何が起こっているのだろう。とにかく、宿に戻らなくては。踵を返したときに、どこからかまた声が聞こえてきた。

「もし、まだ何か困ったことがあるのなら、またあの店に行ってごらん」

 あの店。禍を避けるための、お守りを借りた――

 そのことを思い出し、しまい込んでいた忍石を取り出す。そして、思わず握りしめた。不安な気持ちを消し去るために。

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