第13話 最城大学Ⅲ

ようやく達紀が足を止めた時、紗奈の息はすっかり上がっていた。


「あの、一体何なんですか」


 紗奈が息を切らしながら聞くと、達紀は少し不服そうに言った。


「本当に俺の事覚えてない?」


「えっと……」


 本気で考えれば、何か思い出せそうな気がする。そう思った紗奈だったが、あいにく記憶は戻って来ない。

 すると達紀が、少し首を傾げて言った。


「じゃあ律は? 律の事は覚えてるでしょう」


「律……って、一ノ瀬さんですか?」


「そうそう」


 達紀は少し遠くを見つめて言った。


「まあ、9年前だしね。忘れててもおかしく無いけど……。でも、紗奈ちゃんは覚えてるんじゃ無いかな」


 思い当たる事が一つあった。しかしそれは、同時に紗奈を混乱に陥れる。


「えっ、でも、一ノ瀬さんは違うって」


 紗奈が言うと、達紀は真面目に言った。


「違わないんだよ。『一ノ瀬さん』が、紗奈ちゃんにとっての『律さん』で合ってる」

 

 ──9年前、助けてくれたあの人。「律さん」が「一ノ瀬さん」?

 

 初めて律希と出会ったあの時、あんなにはっきり否定されたのに。

 そんな事があるだろうか。


 信じられない、と思うと同時に、紗奈はある事を思い出す。


「あっ、達紀さん!」


 紗奈が叫ぶと、達紀はびくっとした。


「ど、どうした?」


「思い出しました。そう言えば、達紀さんでした!」


 紗奈は思い出した。川に落ちた紗奈を助けてくれたのは、律さんだけでは無かったのを。律さんの隣で、紗奈に「大丈夫?」と聞いてくれたのは達紀だった。


「お、思い出したんだ? 良かったー。律を忘れるならともかく、俺だけ忘れるってのはやっぱ無いよな」


 そう語りながらしきりに頷く達紀に、紗奈は混乱状態のまま質問攻めをする。


「えっ、じゃあどういうことですか? 律さんは一ノ瀬さんって……じゃあ何で一ノ瀬さんは覚えてないって言ったんですか? それに……」


 達紀はそんな紗奈の両肩を押さえて、「落ち着いて」と言った。


「いや、まあ混乱させたのは俺だけどさ。それはごめん。でも、今から話してあげるから大人しく聞いてて」


 紗奈が黙ると、達紀は深く息を吐いた。


「簡潔に言うと、紗奈ちゃんと会った日らへんの2週間分? その時の記憶が律には無いんだよ」


「えっ……?」


 紗奈が首を傾げると、達紀はのんびりした口調で説明した。


「理由はまあ、俺にはよく分からん。でも、その2週間は、あいつにとっては存在しない時間らしいんだ。

 だから、混乱させないように、その間の話はしないのが……俺らの中での暗黙の了解的な? 昔馴染みの仲間の中では、そう言う事になってるんだよ」


 紗奈が達紀の話を理解するのには、かなり時間が必要だった。その前に、達紀が口を開く。


「紗奈ちゃんが会いたかった、律さんは今いない」


「……」


 話の内容は分かったが、達紀の言葉は残酷な響きを持って紗奈の心に沈む。


「じゃあ、結局お礼は言えず仕舞いって事ですか」


 そう言って、紗奈は少し下を向き、溜息をついた。


「そう言う事なら分かりました。その話は一ノ瀬さんの前では無しって事ですね」


 達紀が申し訳無さそうに頷くと、紗奈は首を振って言う。


「いえ、それがはっきりして良かった。

 あの、達紀さん、あの時はありがとうございました」


「あー、俺は居ただけで何もしてなかったけどね。あの時、紗奈ちゃんに気付いたのは律だったんだよ。

 だからまあ、紗奈ちゃんが律しか覚えて無いのは当然だな」

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