第二章ー5 『普通ならば起こらなかった昼間のこと』

⚫『普通ならば起こらなかった昼間のこと』


 夜の町で南雲そらに出会ったあとも、勉強する日々が続いていく。

 ──そろそろ、マンネリが出てくる頃でしょ。真嶋君は三日坊主にならなかった。これは意志の力ね、素晴らしいことよ。けれど最後まで意志の力で引っ張るのは無理がある。メンタルが揺らぐ時はどうしてもあるから。

 勉強は続けているが、確かに当初の緊張は薄れてきた気もする。

 ──大事なのは勉強を『習慣』に落とし込むこと。『歯を磨くように』勉強する、ということね。そのために『環境』を作る。

 ──一番は物理的に勉強しかできないようにする。言い替えれば、勉強をしなくなる要因をすべて排除することね。わかりやすい例で言えば、自分の部屋に入る時はスマホの電源を切って部屋の外に置いておく、みたいなことね。

 ──人間はね、『それ』が近くにあればあるほど、そして始めるのが簡単であればあるほど、『それ』をやってしまうの。逆に言えば『習慣』にしたいことは極限まで近づける、つまり勉強道具を肌身離さず持って簡単に始められるようにする。これが継続のコツね。

 ──総じて『集中力が高い人』は、『集中できる環境を作るのがうまい人』と言い替え可能よ。勉強に取り組むのが苦手な人だって、スマホを持ち歩くのをやめて、ポケットに英単語帳しかなければ、ヒマな時間に勝手に読んでしまうはず。

 つきもりと話すようになって実感する。頭のいい人は、持って生まれたものに、勤勉さをかけ合わせ、圧倒的な力をつけている。

 ならば持って生まれたものの差を示すためには、勤勉さで負けるわけにはいかなかった。

 ──まずは三週間、二十一日の壁を越える。そして六十日、二カ月の壁を越える。ここまで来れば、じま君は勉強したくてたまらない中毒者になっているはずよ。フフフ。

「……ふふ」

 楽しそうに語る月森の姿を思い出して、笑みをこぼしてしまった。

 昼休み中の、教室だというのに。

 若干集中力が切れているのを感じ、しようたかばんからチラシを取り出す。この間、ぐもからもらったものである。

『東大・難関大合格を目指す!』チラシにはでかでかとそう書いてある。

 南雲の父親は塾講師であり、実は最近独立して、難関大志望者向けの個人塾をオープンさせたらしい。

「もし興味があったら見学だけでも来てよ!」というお誘いだった。南雲が東大に詳しかったのも、父親の影響のようだ。

 なんでも塾はまだ駆け出しなので、宣伝と実績作りを兼ねた『難関大志望者は塾の代金無料キャンペーン』を張っているらしい。

 その塾は個別指導も行うが、自習室としての利用もできる、という話を聞いて月森が一つアイデアを出した。

「塾に通っていれば、夜の外出理由にもなるんじゃない?」

 確かに、と思った。『青少年を深夜に外出させてはならない』青少年保護育成条例だが、調べてみると『夜学、夜勤、塾等で外出する必要がある場合は例外』と書かれていた。

 自習のできる塾に通っていれば、夜遅く誰かにとがめられた際のいいわけに使える。

 実際、土日含めて年中勉強できる自習室があるのも悪くない話だ。

「なんのチラシ見てんの?」

 あ、と言う間もなくひょいとチラシを奪われた。

 こんなことをするのは、当然だ。

「塾かぁ。ついにしようたちゃんも通い始めるの?」

「……考えてるところ。もういいだろ」

 奪い返そうとしても、ひらりとかわされてしまう。

「わたしのお母さんも最近うるさいんだよ。次の大会が終わったらもう『部活忙しいから』のいいわけも使えないし……。あ、これ新しくできたハイレベルのところでしょ、東大合格者出すとか書いてるし。……そんなとこ通うつもりなの?」

「た、たまたまチラシをもらって……」

「ふーん。ここら辺で、ハイレベル塾って需要あるのかな?」

「その塾はやめておいた方がいいぜ」

 急に話に入ってきたのはすがわらだった。麻里といるとよく絡まれるが、態度の大きさになんとなく萎縮してしまう。

「おー、菅原君。なんか知ってんの?」と麻里が笑顔で反応する。

「そこの塾、立ち上げたやつは元々『合ゼミ』にいたんだよ。オレ、合ゼミだから。あと塾長と仲がいいからそういう話も聞けてさ」

 みや合格ゼミナール。略して『合ゼミ』は、地域ナンバーワンと名高い大手進学塾だった。授業料が高く、意識の高い生徒が多い。合ゼミに通うのはエリート、という印象があった。

「でもそいつ、全然実力がないらしいんだよ。なのに独立って笑われてて」

「へー、すごい裏情報だね!」

「こういうの、すでに通っている奴しか知らねえから。ま、なんかあったら聞いてくれよ」

 麻里が愛想よくおだてるので、菅原も得意げだ。

「だいたいセンスねえだろ、とりあえず東大と言っとけばいい、って感じとか。逆にだせぇよ。なあ、真面目君もそう思わないか?」

 機嫌がいいのか菅原は正太にも話を振ってきた。「ああ」とか「うう」みたいな適当な返事しかできなかった。

「そういや、そのチラシの塾やってる奴が無能な理由、思い出したわ。これも笑えるんだよ。学習塾経営者のクセに、自分とこの子どもは高校中退して、中卒らしいんだ」

 菅原はその子が誰かを知らずに、無遠慮に言っている。

「自分の子どもの教育に失敗している奴が、他の生徒を預かれんのかよ」

 その瞬間、夜の友だちの顔がよぎらなかったと言えば、うそになる。

「別に子どもが中卒なことと、その塾のしは関係ないよね」

 ──自分で言っておいて、自分が一番驚いたかもしれない。

 人畜無害、平穏無事をモットーにするはずの自分が、なぜこんな反論を?

 菅原は一瞬ほうけた顔をして、すぐ険しい顔つきになる。

「……は?」

「ちょ、ちょっとしようたちゃん! いきなり正論ギャグ? 面白いなー、相変わらず!」

 が必死に空気を取り繕う。

 そんなことを言うつもりはなかったのだ。ただちょっといらついたけど、普段の自分なら絶対に口には出さない。でも今は? まるで、夜の自分みたいな──。

「……真面目君は本当にいい子ちゃんなんだなぁ」

 すがわらが最後に吐き捨てた『真面目』の部分には、粘っこい感情がまとわりついていた。


⚫『流れ弾、宣戦布告』


 数日後。

 正太は、ぐもの父親が経営する塾を放課後に訪れることにした。

 塾は一階に整骨院が入ったビルの二階にあった。

 今日行くことを、連絡先を交換した南雲にも一応伝えた。すると南雲が塾長である父親を紹介してくれるという話になり、塾の前で待ち合わせになった。

 ということで、道端で南雲を待っている。

 塾通いには、夜間外出の理由を作るという打算もある。

 ただどんな形であれ南雲と接点があるのは、つきもりにとってもいいことだと思った。

 彼女に夜付き合える友だちが、きっと必要だ。夜にしか時間がない南雲は、お互いにぴったりだ。

 自分を東大志望だと認知する人が増えるのは気になったが、もう南雲から伝わっていそうなので今さらである。

 と、その時だ。誰かが正太を目がけて一直線に歩いてくる。勘違いかと思ったが確実に正太を目当てにしている。でも見覚えがない人だ。

 その人物は黒い帽子を目深にかぶり、グレーのパーカーのファスナーを限界まで上げて、口元も隠していた。黒いジーンズを穿き、きやしやな体つきから女性だとはわかるが……誰だ?

「よっ!」

「……え?」話しかけられて正太は戸惑う。

「ちょっとなにさ、『誰ですかあなた』みたいなリアクション。あたしだよ、あたし」

 言いながら、全身モノトーンの女性が帽子のつばを上に持ち上げる。

「……南雲?」

 よく見るとピンクブラウンの髪がのぞいていた。

「誰だと思ったの!? 待ち合わせしてたよね!?」

「そ、そうだけどこの前会った時と印象が違うから……」

 以前は色々こぼれそうなほど露出度が高かった。鮮烈な印象の真っ赤なシュシュも見えない。

「ああ、このかつこうはまあ……昼の仮の姿だと思って……」

「仮、なの?」

「ま、まあまあ……とりあえず入ろう、ね!」

 ぐもは答えを濁して、しようたを後ろから押す。

「お父さんには『東大志望者』って説明しているから、話も早いと思うよー!」

 南雲の声は弾んでいる。前より暗い……というか大人しい格好をしているが、テンションまで服装に合わせて変わるわけではないらしい。

 ただ女子に密着されるのが恥ずかしくて、正太は「自分で歩くよ」と体をよじる。するとなにを思ったか南雲は「照れてる~?」とわざとらしく腕にしがみついてくる。

 ──そんな風に道端でわちゃわちゃしているから、余計に目についたのだと思う。

「あっれ、もしかして真面目君?」

 聞き覚えのある、男の声だ。

 しかも、それは。

「隣は……じゃねえよな。なんかよく一緒にいるイメージあるから、お前ら」

 この間、妙な絡み方をしてしまった、すがわらだった。

『菅原君ってプライド高そうだから、めないよう注意してよ! 一緒じゃないとわたしもフォローできないんだよ!』とに注意されたのもあり、なるべく避けていたのに。まさか校外で出会ってしまうなんて。

 よくつるんでいる他クラスの男女と一緒だ。遊びに行くか、塾に行く途中なんだろう。

 すがわらぐもの顔もじろじろ見ていた。南雲はまた目深に帽子をかぶっている。

 余計なことになりませんようにと祈るしようたの念が通じたのか、菅原が立ち去ろうとする。

「ふん、じゃあな…………あれ?」

 菅原の視線が、ちらりと建物の方に向き、二階の看板で止まる。

 塾名を見て一瞬首をかしげてから、「ぷっ」と吹き出した。

「え、せっかくオレが忠告してやったのに、お前、ここ通ってんの?」

 い。菅原が悪評をふいちようしていた塾だと、気づかれた。

「どうしたんだよ、菅原」と一緒にいた男子が言う。

「あれだよ、すげーダメな講師がハイレベル掲げたありえない塾始めたって話。ここだ」

 菅原は仲間内でも話のネタにしていたらしい。

 話を南雲に聞かせたくなくて、その場を離れようとしたのだが、なぜかその南雲に腕をぐいと引っ張られた。

「つーかわざわざハイレベル掲げている塾に行こうとするって……まさか難関大学を目指してないよな?」

「……まあ」正太は肯定も否定もせずにやり過ごそうとした。ところが。

「目指してたら、悪い?」

 なぜか、南雲が反論をしていた。

「……えーと、誰? 真面目君の彼女……とか言わないよな?」

 黒と灰色に身を包み、顔もほとんど隠している南雲に、菅原も警戒した様子だ。

「全然、違うけど? ただの通りすがりの、塾の関係者」

 南雲は完全にケンカ腰だ。腹を立てるのはわかるが。

「人が目指すものを笑う権利、あんたにあるの?」

「……でもコイツ、学校でオレ以下の成績だからさぁ。オレ以上の偏差値の大学は無理だろうって、親切なアドバイスだよ。なぁ?」

 菅原は連れ合いに同意を求めて笑う。

「へー、『今は』そうなんだー。ま、あんたみたいなあっさり限界決めちゃってるやつ、絶対に伸びしろないし、すぐ抜かれちゃうんだろうねー」

「お前、マジでなんなの?」

 菅原も連れがいる手前、引き下がれないんだろう。

「だから塾の関係者だって言ってんじゃん」

「ただの関係者の割に随分うるせえな」

「人の目標を笑う奴って我慢ならなくてさー」

 南雲がへいたんな、しかしはっきりと怒りをにじませた声で言う。

「あと勝手に塾の悪口を言ってきたのは、そっちが最初だろ」

「はっ、そんなもん客の口コミだろ? 嫌なんだったら、ちゃんと合格者って実績で示せよ。あとは真面目君の成績を爆上げさせるとか?」

じまのこと言ってる? 少なくともあんたはすぐに越えるよ。なんなら次のテストで」

 二人の口論がヒートアップする。なぜかしようたも巻き込んで。その時。

「……ねえ、もしかして、ぐもさん……?」

 すがわらと一緒にいた女子が、南雲を指さす。思い出した、と言いたげに。

「南雲さんだよね、髪とかかなり変わってるけど……!」

 指摘されて、南雲がたじろぐ。

「ん? コイツのこと、知ってんのか?」

「あれだよ、一年の時に退学になった子いたでしょ?」

「ああ……いたな。コイツが……」

「待てよ、それってさ」もう一人の男子が口を開く。「カンニング騒動で退学になったんじゃなかったか?」

 ──カンニング騒動。

 別クラスだから、うわさレベルでしか知らない。でも言われてみれば、聞き覚えがあった。退学になった原因は、カンニングだと──。

「ってことは、同い年……でも退学しているから……中卒?」

 南雲は正太の腕をつかんだままだ。だから嫌でも伝わってしまう、震えと、動揺が。

「で、塾の関係者ってもしかして……お前が、ここの塾を立ち上げたやつの……娘」

 そこまでピースがそろえば、菅原も気づくか。

「ハッ、ハハハ。なんだよ」

 菅原は嘲笑した。

「学歴コンプこじらせてるからつっかかってくる、可哀かわいそうな奴だったんだな」

 正太の腕をつかんでいた南雲の力はどんどんと弱まって、今はなんとか正太の制服に軽く引っかかっているだけだ。もうはたから見るだけでもわかるんじゃないかと思えるほど南雲の震えが強くなる。顔は見えない。でも泣いているんじゃないかと思った。

 対して菅原は勝ち誇っている。

「じゃあ、あんまり言うのもイジメになりそうだなぁ。せいぜい頑張れよ。真面目君も、うまいカンニングのやり方でも教えてもらえればいいな、この塾で」

 去り際にそう言い残したのも、自分の勝ちを誇示するためだったんだろう。正太たちをこき下ろすことで、自分を完全に上の立場に置いた。

 菅原が離れていく。

 南雲はおそらくひしがれている。触れられたくなかった傷を、えぐられた。

 気づけば、自分はほとんどしやべりもしなくなっていた。

 当事者なのに傍観していた。

 でも結果として、それで正解だったのだ。菅原も納得し、今後絡まれることもない。

 自分じゃ、すがわらに偉そうにも言えない。それが自分の立ち位置を踏まえた、分相応だ。

 たとえ相手にムカつくことを言われても、傷つくようなことをされても、甘んじて受け入れるしかない──。

「次の中間テスト、僕が勝つから。もちろんカンニングなんてせずに、実力で」

 気づくと口にしていた。変に早口に、そして大声になってしまった。

 ぴくりと隣のぐもが反応するのがわかった。

 菅原が足を止め、振り返る。

「……オレに言ったのか?」

 ──なぜわざわざ、分不相応に波風を立てることを言ったのだ?

 余計な言葉だ。悲しむ南雲を慰めるのはあとでだってできた。もっと別の方法だって冷静になればきっとあった。どうしてだ。こんなリスクを負うなんて、自分が思う生き方じゃないのに。誰の、なんのせいでこうなっている? 知らねえよ。

「うん、僕が勝ったら、塾の悪口を言ったこと、取り消してほしい」

 菅原は笑わずに、しようたにらみつけていた。

「なら、お互いになんか賭けないと面白くねえな。真面目君が負けたら……土下座でもしてもらおうかな?」

 ぎゅっと服をつかむ南雲の力を感じながら、正太はうなずいた。

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