第一章ー6 『進路』

⚫『進路』


「おーい、いるやつらだけでいいから聞いてくれ。朝に言い忘れたことがあった」

 ぶしようひげの担任が休み時間の教室に顔を出した。

「進路希望調査票、書けた奴は早めに出してくれー」

「なんで今言ってんの、たにやん?」とクラスから声が上がる。

「うちのクラスの回収率が悪かったんだよ!」

 どっと教室で笑いが起こった。

「まだ志望校決められてないんですけどー」

「どこでもいいから書いとけ。成績見て調整するから」

「じゃ、とりま東大とか」

「本当に目指すならな。課題を鬼のように出してやる」

「ひっ、やっぱなしで!」

「マジな話、俺も言われたら困るわ。ははは」

 そう、田舎の平凡な中堅公立校の自分たちにとって、東大とは冗談の種のようなものだ。

 同じ受験生でも、東大を目指すようなレベルの受験生とは、根本的に違うんだ。

「おーい、聞いてるー?」

「……ん?」

 しばらくぼうっとしていたのか、気づいたらが手をぶんぶん振っていた。

「いつにも増して心ここにあらずじゃん、寝不足?」

「そんなことは……。というかっていつも心ここにあらずだっけ?」

「眼光ギラギラでは少なくともないよね!」

 昨日の夜、夢でなければ月森と出会った。

「そういえばしようたちゃんは調査票もう出したの?」

 夜に二人だとやけに広く感じた教室が、今は普段どおりの狭苦しい空間になっている。

「いや、まだ。アベマリは?」

「公立! 国公立行けって親がうるさいからね」

 教室内では、他の皆も口々に進路の話をしていた。

「やっぱ公立かなぁ」「諦めて私立にしろよ」「あー、俺どうしよう!?」

 学内の順位でほとんど行ける大学が決まってくる。それくらいに毎年同じ進学実績になるのが我が校──県立ふじはや高校だった。

 クラスで三位以内、学年五クラス全体で言うとトップ十五位までなら、県立大学。もしくは教育大学。これが共に偏差値六十弱。

 クラス四位~六位、おおむね学年トップ三十位以内なら公立大学。これが偏差値五十五程度。

 このように上位層は概ね国公立に進む。ただ経済的に余裕のある家庭は、私立の学院大学(偏差値六十弱)を狙うこともある。

 それ以下は偏差値もピンキリになり、あっちこっちの私立大学へ行く。

 で、例外的に学年で一人の超秀才が旧帝大である東北大学に合格することもある。

 これが我が校でお決まりの進学実績だった。

しようたちゃんも一緒に公立に行けたらいいね! あ、それとも県立狙うんだっけ?」

 正太は学内順位的には公立レベルである。しかしチャレンジ目標として県立を目指す道もゼロではない。背伸びをしても、そこがギリギリのラインだろう。

と真面目君は公立?」

 と、急に話に割って入られる。すがわらという男子だった。茶髪で、背が高い。声も大きく態度もでかいから、なんの役職というわけでもないが、皆が顔色をうかがうボスポジションについていた。運動もできて、学業の成績もよいとなると、自然とそうなるのもわかる。

「まあね。って言っても、現実的には私立かなとも思ってるんだけど……。菅原君は?」

 二年の時にと同じクラスだったらしい。麻里と一緒にいるとよく声をかけられる。

「オレは学院大だな」

「え、学院大はすごいね、菅原君!」

「まあ、塾通いのおかげもあって」

 菅原は有名進学塾に通っていると聞く。自らよくその話をしていた。

「塾……わたしも別のところにしようか悩んでたんだよね。今通ってる塾は大学受験専門ってわけじゃないから。本格的に考えないとね、塾に行ってない正太ちゃんも」

「真面目君は塾に通ってないのか。意外に」

「僕は分相応なところに行ければいいと、思っているから」

「分相応で公立とか県立行けんの?」麻里が肘でつついてくる。

「もし進学塾を探すならオレの通ってるところ紹介してやってもいいぜ?」

 麻里が「ありがとー!」と言うと、菅原は満足げに「おう」とうなずく。

 その時突然、教室中を満たす話し声のボリュームが小さくなる。

 なにが起こったのかは、すぐ察せられた。

 つきもりあかりが教室に入ってきたのだ。

「お、『深窓の眠り姫』。起きてるの見られるのレアだー」

 麻里が小声でささやく。

 その隣で菅原が小さく舌打ちをしている。なんとなく……面白くなさそうな顔をしている。日中ほぼ居眠りしているのにテストで学年一位をかっさらう存在を、快く思っていない生徒も中にはいた。

 ただほどんどの人間は、遠巻きに彼女を眺めるだけである。

 白すぎる肌に、色素の薄い長髪で、月明かりの下でなくともどこか吸血鬼じみた神秘的な雰囲気を醸している。昼間の今はやっぱりピアスをしていなかった。

 彼女が歩く空間に生まれるせいひつな空気に圧倒されてか、誰も話しかけはしない。

 まるでつきもりと他のクラスメイトとでは、それぞれが隔てられた別世界にいるようだ。

 月森の長く細い足が教室の隙間を縫っていく。

 半眼の瞳に、他の生徒の姿は映っていないだろう。

 月森はまっすぐ席に着き、すぐに突っ伏して眠る。すると教室の話し声のトーンが元に戻る。ここまでが、三年一組のルーチンである。だが今日は。

 自席に座って突っ伏す、その直前だった。

 口角がほんの少しだけ上がる。

 一瞬だけ見えたそれは、間違いなく微笑だ。

「……笑った?」がつぶやく。

 麻里が驚くのも無理はない。目撃した全員共通の感情なんだろう。他にも何人か、月森の方を見ながらぽかんとしていた。

 彼女が表情を変える、ましてや笑うなど、いつもの教室ではありえない光景だった。

「絵になるなぁ……ってしようたちゃん見つめすぎ! 前のめりて!」

 麻里にばしっと肩をたたかれる。

「え……いや」気づかぬうちにじっと見つめていたらしい。正太は軽く首を振る。

 なんだか見ているだけで思わず吸い込まれそうになるのだ。

「月森さんはどこ志望なんだろ? なんて、いつも寝てるから聞けないよね」

 そう、彼女はまともに起きている時がない。だから昼間は話すことすらできない。

「……調子乗ってるよな」

 誰に向けてでもなく、独り言のようにすがわらがつぶやいていた。

 そんな見方をされてしまうのも、昼間の月森だけを見れば仕方ない面はある。

 でも今自分は、その裏に隠された理由を知っているから──だから、どうするんだ?

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