第9話(或いは第0話)


 あの時の私はどうかしていた。いや、もしかするとあの瞬間だけでなく、私はずっと前から狂っていたのかもしれない。


 小さい頃の私は、文字通り虫も殺せない少女だった。ある日、近所の原っぱで兄がいたずらに虫を殺しているのを泣いて止めようとしたことがあった。


 もちろん、非力な妹である私は腕力で兄に敵うはずもなく、叩かれてより一層声を上げて泣くことになる。その絶叫の中、アリやダンゴムシなどの小さな命たちは、あらがいようのない理不尽な暴力に曝され、儚い命を散らしていった。


 その時はただ虫が可哀想だと思った。一寸の虫にも五分の魂という言葉を字面通りに受け取った私は虫だけでなく、路傍ろぼうに咲く花や顕微鏡を見なければ分からない微生物にも魂は宿ると考えていた。


 そして、容易く奪われるそれらの魂にとって兄は、絶対的な存在であっただろう。


 程なくして、その原っぱは都市開発のあおりを受け、建物が建つことになった。


 囲い板の隙間から見たのは、兄とは比べものにならない暴力だった。


 シャベルカーで草花は根刮ぎ掘り返され、虫や小動物の住処にはコンクリートが流し込まれる。そこには確かに一つの世界が存在していたのに、丸ごと綺麗に絶滅させられたのだ。


 那由多なゆたの数の魂が失われ、人間が屍の上に築き上げたのは、皮肉なことに病院だった。


 幸いな事に私は身体が丈夫で、病気とは無縁の生活をおくっていたが、インフルエンザの予防接種でその病院を訪れたことがある。


 リノリウム張りの床に明るい照明。塵一つ無い清潔な院内。反吐が出る。きっとここでは、多くの人々の命が救われるのだろう。比較すること自体がはばかられる程の数の犠牲の上に助かった命だという自覚も無く、皆が病を直し日常へと帰っていくのだ。


 人間の命とは、私が愛おしいと思った存在の犠牲に値する物なのだろうか。その時、初めて人間の命の価値に疑問を持った。


 人間は簡単に他者を殺す。あの病院を利用した私も、きっと共犯者なのだろう。


 私はその事実に酷く罪悪感を抱いていた。その事を兄や母に話して、ずいぶん笑われたものだ。


 なるほど。私の感覚は変らしい。普通は生物を殺しても罪悪感を抱かないものなのだろうか。


 それから私の実験が始まった。小さな生き物を捕らえては殺し、自分が罪悪感を抱くかの実験。


 不思議なことに、繰り返すと人は慣れるものだ。それがどんなに残酷な事でも。私は罪悪感が薄れる度に、これが正しい感情なのだと言い聞かせてきた。


 時は流れ、私はトウコと出会う。


 今まで人間に敵愾心てきがいしんしか抱いてこなかった私は、不思議と彼女を愛おしいと思った。


 もちろんそれは、恋や性的な意味合いではない。例えるなら、近所に現れる野良猫を慈しむような、温かく嫌らしさのない純粋な想いだ。


 けれども、そんな野良猫を傷つける悪ガキも居た。それが前田さんだった。


 前田さんはトウコに対し、あらゆる手段を使って嫌がらせをしていた。物を盗む、壊す、叩く、下品な言葉を突きつける、男どもをけしかける。


 この事実は私にとって、都合の良いものだった。なぜなら、私が前田さんを傷つける大義名分ができたから。


 前田さんが独りで教室に入ってきたとき、彼女は怪訝な顔で私を見た。


 当然といえば当然だ。自分の毛嫌いしている相手といつも連んでいる奴と二人きりになったのだから。


 彼女が律儀にも教室の扉を閉めた瞬間、私の中の好奇心が堰を切る。


 私は虫や小動物を殺しても、罪悪感をほとんど感じなくなっていた。


 ならば、人を殺しても心を動かされないのではないか。


 もちろん、分別のつく年齢なのだから人を殺してはいけないことぐらい理解できる。


 けれども、相手はトウコを追い詰める前田さんだ。遠慮する必要がどこにある。


 私は感情の赴くままにナイフを振った。前田さんは何が起こったのか理解する間もなく、私の毒牙にかかる。


 初めは何か叫んでいただろうか。高揚する私はそんな事に構わず、何度も刃物を突きさしては抜く。そのたびに、体液を通じて前田さんの温もりが伝う。


 トリックも驚きも何もない、ただただ繰り返す作業による殺人。後の事を考えるならば、少しでも工作しておけばよかった。


 やがて前田さんの動きが止る。無残な姿で倒れる彼女を眺め、私は自分に言い聞かせる。これは自分がやった事の結果だと。もう前田さんは元に戻ることは無いのだと。


 あはは、可笑しい。あれほど深く、人を殺したら罪悪感を感じるのか考えていたのに、結果は呆気ないものだ。


 私はいくら目の前の光景を眺めていても、罪悪感を抱くことはなかった。その代わりに不安に思うのは、逮捕されるかどうかと、もし捕まった後の事ばっかり。


 結局私は自分の事しか考えられなくなっていた。これが正しい感情であり、人間ならば誰もが同じように感じるはず。


 そう、私はようやく人間らしくなれたんだ。

 

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