3-4:

 自校開催とはいえ、城附オープンは歴とした公式戦だ。係員には持ち場があり、円滑な運営のため勝手な休息は御法度といえる。

 いつもの遥菜ならぐっとこらえて仕事を続けただろう。たとえ無給ボランティアであろうが、たとえ同僚が席を立とうが、仕事は仕事だ。そう割りきれた。

 けれど、今日は止められなかった。柴田の勇姿を見ようと、奈緒美に焚き付けられたからではない。自分の意思で、自分の足で、観覧席へとつながる階段を駆けあがっていた。


 学校の体育館とはいえ、総収容人数は三千人を優に上回る。三つに分けられた四方二十間(※三十メートル)の競技場の真ん中、第三シードである柴田家久対夏目透前の観覧席は一年E組の生徒たちでごった返していた。


「いやぁー、ナッツーも可哀想に。いくらなんでも相手が柴田じゃなぁ」


 彼女は頻繁に仕事を抜け出す生粋のMMAフリークだ。いつも競技誌を購読し、贔屓が活躍しようものなら真っ先に騒ぐ。若干ヴィジュアル重視なのも女子高生の鏡だった。


「私、嫌いじゃないんだけどな。剣一筋ってのも好印象だし」

「なおみはよく、知ってるね」

「まっあねー。昔告られかけたこともあるし」


 奈緒美は手摺に頬杖を付いてリップクリームを塗っている。おちゃらけていても、その眼力はたしかだ。剣戟の光芒に目が眩む遥菜などと比べれば、プロリーガーの妻を夢見るだけあって目が肥えている。

 いや、柴田はクラス内にも信奉者が居る実力者だ。目立つ戦績のないトオルでは、勝機がないのは明らかだった。


(夏目くん)


 遥菜は、目を瞑って両手を組んだ。勝つなんて大それたことは願わない。怪我だけ、怪我さえしなければそれでいい。

 そうして再び、学校に来てくれば。

 試合開始のブザーが鳴り、歓声がわあっと沸き立った。MMAの個人戦は両者共に近接系の場合、即座に決着のつくことが多い。

 固く結ばれた瞼の向こうは、果たしてどうなっているのか。知りたくない、見たくない。担架で運ばれてゆく姿なんて。傷ついた彼の姿なんて。

 一秒、二秒と待ち続ける。会場は音をなくしていった。終わったのか、それとも、拮抗しているのか。

 なんで何も言ってくれないんだろう。いつもの奈緒美なら、聞かなくても解説してくれるのに。

 血の気の引いた顔で薄らと目を開く。横目に見た奈緒美は、大きく口を開いていた。


「うっそ……」


 奈緒美のリップクリームが下の観覧席まで落ちていった。

 彼女の視線に釣られ、遥菜は中央の競技場へ目をやる。そこには、凍りついた観客の視線を一身に集める彼の姿があった。


『勝者、城西大付属校高校夏目透!』


 場内アナウンスが流れ、呆然と座り込む柴田の前をトオルが横切ってゆく。静かに長剣を掲げる彼には、風格のようなものが漂っていた。


 ドキンと胸が痛む。

 なぜかはわからない。雄々しく風を切る姿や試合後の礼からは、かつてない男らしさを感じる。MMAに興味のない遥菜でも、素直にカッコいいと思えた。

 柴田命の親衛隊でさえ、どこか熱っぽい眼差しを隠しきれていない。それなのに。

 遠くに行ってしまうのとはちがう。まるで、別人を見ているような、そんな錯覚にさえ陥ってしまった。


「あーハル。ゴメン、先生に謝っといて」

「なおみ?」


 再び横を向くと、奈緒美は手鏡を取り出して髪のほつれや目元のアイラインを直していた。

 目付きは女豹そのものだ。大会スタッフのシャツを脇腹のあたりで縛って、サイドテールを揺らしながら大会備品を押し付けてきた。


「じゃ、私バックれるから。後よろしく」


 しゅぴ、と片手を立てて走り去ってゆく。静止の手が虚しく空を切った。

 その目的を察し、遥菜はやきもきした思いを抱えることになった。




 § § §




「そう、そうだ。私が間違っていたのではない。世界が間違っていたのだ! フハハハハ!」

「お、おい。急にどうしたナッツー?」

『ギャァァァ! やめて、やめてアーク!』


 選手控え室に幽体のまま戻ってきたトオルは、男を掴み上げるアークに懇願した。

 唇は三日月のように歪んでいる。どう見ても確信犯だった。


「貴様、この私を愚弄するか。ひれ伏せ、愚民ども私の前にひれ伏せ!」

『お願い、お願いだから許して!』

「うん、そこの女。中々いい面構えじゃないか。妾にしてやろうか?」

『本当にアーク様すみません。通信容量限界まで動画を見てくださって構いませんので、もう勘弁してください!』


 男を投げ飛ばし、怯える女の顎を掴む。気の強そうな武者系女子だったが、試合を見てか弱々しく肩をこわばらせるだけだった。

 この勇者、まさしく魔王である。

 ひととおり暴れて気がすんだのか、どっかり次戦の待機所で腰を下ろし、ようやく身体を明け渡した。


「あ、降臨アドベントぉって言ったのにぃ」

『筋肉痛ごときでウダウダいうからだ、ボケ』

「しょんにゃぁ」


 いろんな意味で我にかえったトオルは、暴君の事後を見て、ベンチで頭を抱えるしかなかった。


 完全にやってしまった、とトオルは思った。この憑依能力、両者が同意するとはじめて効力を発揮するらしい。つまり、アークが交代したくないと思えば、三分間は暴れられるのだ。

 そして相棒は、ここ最近のコスプレ系芝居に相当嫌気が差していたのだろう。

 天を仰ぎ、まだうるさく愚痴をこぼすアークとやりあう。はたから見て、明らかな異常者だった。


「ねえねえ、あのさ」


 トントンと肩を叩かれ、トオルは振りむく。そこには白とオレンジのスタッフ用シャツを纏った、女子生徒の姿があった。

 彼女は返事も待たず、対戦相手用のパイプ椅子に腰掛けてしなだれ掛かってきた。同じクラスの男子が唖然としているのが見えた。


「夏目くんてさぁすごく強いんだねぇ。なおみぃー、かんどーしちゃったぁ」


 瞳をハートにして、腕に絡みついてくる。何が起きたかわからなくて、身体が氷柱のように動かなくなった。

 彼女は興奮と媚を混ぜた声で、女性慣れしていないトオルを一気呵成に攻め立ててきた。結果を持ち上げられ、技を褒めそやされ、ついでに言及されたことのない容姿まで讃えられ、いろんなところが伸びまくりである。


 そもそも、彼女から「ナッツー」以外で呼ばれるのはかなり久しぶりだった。

 というのもその汚名が根付いたのは、彼女に告白する間もなく振られたとき、口さがない連中が吹聴して回ったせいだった。

 そんな高嶺の花に半オクターブ高い声で媚びられては、欲深い高校生であるトオルなどチョロいものだ。

 冴えない人生が急に薔薇色になる。男なら一度は夢見る瞬間だ。それを今まさに、体験していた。


「あ、あ。えっとその、近い、近いから!」


 色々柔らかくて、何やらいい匂いまでして。トオルは顔を真っ赤にさせて仰反った。

 彼女は膝を揃えてうつむく。そして、悲しそうな顔で、上目遣いにぎゅっと目をすぼめた。


「そう、だよね。嫌だよね。私、ずっとナッツーって呼んでたし」

「あ、いや、そんなこと」

「ううん。私が悪いの。あだ名が嫌いな人もいるのに、言われるまで気づかないなんてサイテーだよね」


 ああそうか。目尻に大粒の涙を溜める彼女を見て、ストンと胸のつかえが落ちてゆくのを感じた。

 蔑みの意味を持つ「ナッツー」というあだ名。でも、誰も語源など興味がない。知りもしない。「ヒッキー」でも「なつー」でもなく、ただ単純にキャッチーだから。みんながそう呼んでいるから。

 被害妄想なんて、そんな言葉で片付けるつもりはない。けれど、己こそが殻に囚われているのだと、素直にそう思えた。


「気にして、ないから」

「許して、くれる?」

「う、うん。でも、できれば夏目って呼んでくれると――」

「本当! じゃあ私、トオルって呼ぶからね」


 ぱっと顔を明るくして、彼女は乗り出すように顔を寄せてきた。女心は秋の空だというけれど、変わり身の早さもそうだとトオルは思った。

 波及はそれだけに留まらなかった。クラスメイトは大浜オープンの結果を実感したのか畏敬混じりに挨拶をよこし、雪崩れ込んできた教師陣からは熱烈な歓迎を受けた。貴賓席に坐す教頭からは、お褒めの言葉まで頂戴する次第だ。自分が自分でなくなってしまったようで、少しばかり怖くなった。

 それほど衝撃は大きかったのだろう。

 なにせ、アークの技は明らかに高校生のレベルを逸脱していた。

 踏み出した一歩は鋭く、柴田に反応する余地も与えない。油断はなかった。憎悪で目が曇ろうも関係なかった。

 右半円に駆け、袈裟に振り下ろされた刃は、余人立ち入ることの許されぬ御技だ。

 それを、たかが高校一年生にぶつけたのである。対抗しろというほうが酷だろう。

 対峙した柴田は、信じられぬと長々己の手を凝視していた。


 二人にとって、城附オープンは極めて相性が良かった。予選サバイバルなしのトーナメント形式であるため、一時間に約三分という制限はないに等しい。

 二回戦、三回戦共に悠々勝ち上がる。ときを経るに連れ、その注目度は跳ね上がっていた。


『カカカ、オレ様のときもそうだった。あぁー、こいつぁ気持ちいいぜ』


 盛大な高笑いを続けるアークの横で、トオルも脚を組みながら泰然自若として、待機廊下で待つ。

 緊張などない。あるのは充足感だ。

 帯びた佩刀が唸っている。次の獲物はどこかと。トオルは前髪を選り分けながら、言った。


「ふっ。我が覇道に敵はなし、か」


 緊張した様子の対戦相手はキュッと身を縮こまらせる。

 結局、翌日まで続いた城附オープンでトオルはなんと、ベスト四まで勝ち上がった。



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