第24話 戛戛

 戛戛かつかつと、足音は俺達について来る。そして、此方が足を止めれば、彼方も足を止める。


 距離が縮まっているのか、離れているのか、細かい部分が掴み切れない。唯、今の所は音の大きさが変わらないように聞こえるから、一定の距離を保っているのだろうとは思う。だから、一先ずは問題ないだろう。


 だが、俺の心臓はばくばくと激しく動いていた。純粋に恐怖から、平静が乱れ掛けている。最後尾の女が突然走り出しやしないかと、ひやひやとしている。

 彼女は此方の行動を真似するようだと考えているが、その当てが外れた途端、どうなるのかと考えるだけで、手先が冷えていく。


 怖いものは得意ではなかった。


 ホラー映画は割と苦手なジャンルだった。驚かされるのも、じんわりと迫って来られるのも、酷い怪我の描写も、思わず、目を背けてしまって、彼女にはよく笑われたものだ。


 小動物のような彼女は、意外や意外にホラー好きだった。概ねの映画の好みは似ていたのだが、この一点だけは相容れなかった。俺がまだ観賞に耐えられたのは、彼女が選ぶホラーが所謂B級と呼ばれているものだったからだろう。お金の掛かっていない安っぽいCG、吹き飛ばされるのはマネキンの首、そういう要素は作品にとっては作り込みが甘いとマイナスの評価になるかもしれないが、俺にとっては大歓迎な演出だった。顔を手で覆わなくても見られるからだ。

 こんな評価の仕方は良くないが、ホラー演出がお粗末であればある程、俺の中では評価の高いホラー映画になった。


 特に辟易した作品があって、それは見ていても、怖がるどころか呆れたものなので、最早、ホラーと呼んでも良いのか分からない。

 あらすじとしては、両親を目の前で失った若い神父が心を癒すために旅に出て、その途中、中国に滞在している時に、何故かいる謎の忍者に追われる女性から謎の化石を授かったことで、夜な夜な恐竜に変身するようになる、という映画だ。

 先程も言った通り、これはホラーなのか分からないレベルの作品なのだが、見たサイトがホラーカテゴリに入れていたので、そうだと判断している。色々な場面で、予算がないのだなと感じさせるし、脚本も演出も荒削りだが、それでも面白く作ろうという気概は感じられる。しかし、生憎、俺にはあまり合わなかった。恐らく、粗にああだこうだ言いながら、楽しむような作品なのだろう。


 B級とカテゴリされていても、面白い作品は勿論あるのだが、魔境とでも言うべき界隈なので、全編通しで見たのに、何一つ理解出来ないなんて作品もある。例えば、悪魔主義のシスターが悪魔のサメを召喚する映画とかだ。あの水族館は何の時間だったのだろう。


 だが、それこそがこの映画という世界の奥深さを、懐の深さを顕しているのかも分からない。


 あの頃の俺と彼女は部屋の電気を消して、小さいスマホの画面を二人で見ていた。ニリットルのコーラもなく、山盛りのポップコーンもない。飲み掛けの麦茶が時折、涼やかに鳴るばかりで、気の利いた物は何もなかった。それでも、あの六畳の映画館は今でも最高だったと思える。


 彼女を思い出していると、心が落ち着いて来る。脈拍も、多少、緩やかになったようだ。


 過ぎ去りても、未だに心の岸辺に残る。目を閉じれば、思い出せる。窓を閉じていても聞こえてくる蝉時雨、上の階の人の足音、遠くから伝わる電車の地響き。音響環境は最悪。それでも、目眩く物語達に目が離せない、心が囚われて、逃げ出せない。胸が高鳴って、視界がぼやけて、時に笑い声をあげて、手に汗握って、歓喜して、悲嘆に満ちて、無我の境地に至って、かと思えば、根雪が溶けるように言葉にならない感想が染み出す。なんて目まぐるしい感情だろう。心の内から突き抜けそうな程に暴れ回るのに、とても心地が良い。


 今になって思えば、心が自由でいられるから、俺は映画に惹かれたのだろう。同じ支配でも違う。物語は俺を振り回すけれど、その心の内までは縛らない。そして、再生ボタンを押すか止まるかも、俺が決められるのだ。きっと、お互いに一方的な関係が丁度良かった。そして、その自由な感想を言い合うことも、俺にとっては一種の願望であり、リハビリであり、喜びだった。


 だから、スタッフロールが終われば、横を向いた。すると、彼女が待ってましたという顔で言う。「面白かったね」「いまいちだったね」「あれはああなのかな」「難しかったね」「あの役者さんの演技が最高だった」「つまり、これはこうでしょ」「凄い泣けちゃった」「あの演出、凄かったね」「続編出てるんだって」「何で続編出せたんだろう」「脚本考えた人、天才だよね」

 ちょっと誇張された感想達が、曖昧に、然れども、はっきりと彼女の声で蘇る。確か、この感想はあの映画だ。あの感想は俺の感想と真反対で、喧嘩になった。これは二人してコケにした。これは何が言いたいか分からなくて、二人で頭を悩ませた。これは、これは、これは。嗚呼、そうだ、これらは。

 幾つもの物語と共に記憶は俺の頭の中で踊る。熱に浮かされたような気分だ。


 遂には、懐かしい匂いがした気がして、足を止めた。


「わっと」


 思ったより近くにいたらしい梯さんが、俺の背中にぶつかる。


「ぶつかって、すみません。……どうしましたか? 何かありましたか?」

「すみません、少し考え事をしてしまって」

「どんな考え事ですか?」

「あ」


 どうしようか。この状況で思い出を蘇らせていたなんて、おかしいと思われるだろうか。背後には得体の知れない女がつけてきているのだ。

 だが、どうしてだか、俺はこの人に話したいと思った。否定せずに、穏やかに聞いてくれそうな気がした。


「昔、彼女とホラー映画を見たんです」

「へえ、ホラーお好きなんですか?」


 俺はまた歩き出した。


「嗚呼、俺は苦手だったんですけど、彼女が好きだったので、その付き合いで」

「苦手なら、しんどくないですか?」


 梯さんは俺の斜め後ろ辺りを歩いていた。微かな足音が聞こえて来る。


「ええ、まあ、でも、彼女の趣味がB級ホラーだったんですよ」

「また、ニッチな所に」

「だから、インパクトはあるけど、何処か安っぽかったり、頑張ってる感じが出てて、あまり中身に没入せずに見られたので、多少はましだったんです」

「ピンキリですもんね」

「本当にそうなんですよね。グロいのはちょっと厳しかったんですけど」


 話しながら、俺は自分が笑っていることに気が付いた。きっと、俺は思い出語りが楽しいのだ。


「面白いって思える作品もあるんですけど、退屈な作品もあって、当たり外れが激しいというか。でも、逆にそれが発掘してるみたいで、本人は楽しいみたいです」

伊東いとうさんが気になったB級ホラー映画は何でしたか?」


 問われて、思い返す。幾つか見て来たが、趣味ではないというのもあって、なかなか好きな作品というのはなかった。頭にこびり付いたものならある。


「強いて言うなら、神父が恐竜に変身する映画が印象強かったですね。ホラーなのかは分からないですけど」


 そう言うと、右肩の辺りを掴まれた。驚いて振り返るが、相変わらずの暗闇だった。だが、位置やその伝う体温からして、掴んで来たのは梯さんだろう。


「私、その作品、大好きなんです!」


 何処か興奮したように、今までで一番大きな声で梯さんが表明する。


「本当面白いですよね。何処がどうとか言うのも野暮な気がしますけど、言わずにいられない。もう、突然、無から弟を生やすなとか、何で一般人が忍者倒せるの? とか、他にもおかしな点は沢山あるんですけど、ラストのあれでもう大団円な気がして来るし、エンタメとして最高なんですよね。馬鹿馬鹿しいけど、爽快というか」

「突き抜けてる感じはありますよね」

「そうなんです。開き直って、コメディとシリアスをしているみたいな。そのバランスが絶妙で」


 今まで落ち着いた雰囲気であった梯さんが、とても楽しげに饒舌に語り出し、その止まらない様子がいつかの彼女に重なって、愛おしさのようなものを覚えながら、俺は話に耳を傾けた。

 自分の感想を言うのも楽しいが、どハマりしている人間の語る感想は、その熱量に当てられて、楽しくなる。その作品が好きという気持ちが、伝染していくような、楽しげに語る姿に心が揺れるというか、何と言うか、見ていて此方も良い気分になって来るのだ。

 そこで、俺は感想を語り合うのが好きで、つまり、それは話すことであり、聞くことなのだと、当たり前のことを再認識した。


「あ、すみません。語ってしまって。なかなか、見たって人に会わなくて」


 正気に戻ったらしく、梯さんのテンションが落ち着き始める。

 俺はそれに少し残念だと思いながら、「聞いていて楽しかったですよ」と、本心で返した。


「久々に人の感想を聞きました。懐かしくて。昔、彼女と同じ映画を見て、その後、感想を言い合ったんです」

「楽しそうですね」

「楽しかったですよ。でも、あれ、何で言わなくなったんだっけな」

「やらなくなったんですか?」

「はい。一緒に映画は見続けていたんですけど、感想会はしなくなって。確か、彼女が言わなくなったような」


 突如、スピーカーから声が流れる。


「そうではない」


 俺は思わず、次の句も継げず、黙ってしまう。


 頭に過ぎる言葉。「何でも否定しないで」それは誰の言葉か、誰の言葉を受けての言葉なのか。嗚呼、どうして泣いているの。俺は俺の感想を言っただけだ。

 燃え滓になる前の彼女が、袖で目尻を拭う。いつもなら思い出せるのに、あの時は何の作品を見たのだったか。思い出せない。

 狭い暗室、蝉の声は絶えて、上階の住人の足音、響くレールの繋ぎ目の上を過ぎ行く音、鼻を啜る音、不機嫌そうな声。

 剥がれた仮面は音も立てず、割れもしない。いつでも、被れるし、外せるものだ。此処ではつけなくて良いと学習したに過ぎない。だが、それは地続きだ。両立するものなのだ。素顔も仮面も、所詮は一側面。

 相反していようと、確かに愛していた。失うなんて耐えられない。荒れた部屋の中で、彼女の手を取って、まるでロミオのように甘く優しく囁く。「君のために言っているんだよ」いつか囁かれたのと同じ台詞が自分の口から吐いて出た時、吐き気がした。

 暫く感じずにいられた背後の視線が、自分の視線と重なった気がした。逃げ出せない。囚われて、恐れて、服従への通知はいつだってリアルタイムで、音もなくて、役に縛られて、俺は頭が真っ白になる。「お願い、今日はもう帰って欲しい」言葉を置き去りに、足音が遠ざかる。

 月が見たい、目が眩んで、目を閉じたい。


「俺が悪いのか?」


 誰に言うでもなく、舌の上に零れ落ちた。


「伊東さん」


 落ち着いた声が俺を呼んだ。


「伊東さん」


 もう一度、呼ばれる。俺は返事をしたくなかった。もう一回、呼んで欲しくて、堪らなかった。故は分からない。


「はい」


 だが、俺は返事をした。甘えることは許されない気がした。


「疲れていませんか?」

「いえ、大丈夫です」

「気付いていますか? 後ろの足音がなくなっています」


 耳を澄ませる。確かにあの特徴的な音はない。


 不意に眩しい光があった。ずっと暗闇を歩いて来たからか、扉の隙間から差し込む細い光さえも、まるで夜間工事用のライトに照らされたみたいに、目に刺さる。

 光源は右手側にある。俺はずっと壁についていた左手を離して、光の方へ誘引される蛾のように近付いた。

 それは扉だった。ドアノブもある。より層の内側へと向かうための扉だった。


 だが、それは随分と小さな扉だった。四つん這いにでもならないと潜れなさそうだった。


「まるで不思議の国のアリスのようですね」


 後ろから梯さんが呟く。俺は戯けて返した。


「そこら辺に、「Eat me.」と書かれたクッキーや瓶のドリンクは落ちていませんか?」

「ふふ、残念ながらなさそうです。我々は等身大で通るしかありません」


 梯さんは笑って答えた。

 俺は恐る恐る、その身の丈に合わない扉に手を掛け、ゆっくりと開いた。





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