7-1.「ごめんね」

 誰かに頭を撫でられたような気がして目が覚めた。目に飛び込んできたのは見知らぬ部屋の天井と、隣で自分を見下ろし微笑む……優雅の顔だった。


「おはよう、菜々ちゃん」


 ふわりと笑う優雅。菜々はぼうっとする頭で彼の顔を見つめた。混乱していて、状況がよくわからない。ここはどこ、なぜ優雅が。


 菜々は浴衣姿のままベッドに横たえられていた。でもお団子にしていた髪はほどかれていて、作り帯の背中の飾りも外されているようだった。


 窓にはカーテンがかかっていて、夜なのかシャッターが閉められているのか外からの光はない。天井の辺に沿って埋め込まれた間接照明の柔い光だけが、部屋を薄明るく照らしていた。


「……?」


 起き上がろうとして、体に力が入らないことに気づいた。熱があるときに起き上がるような猛烈な怠さを感じ、そのままくらりと倒れかけた菜々の背中を咄嗟に優雅が腕と体で支えてくれる。


「大丈夫?あまり無理しないで。……倒れたんだ。駐車場で。原因もわからないし、心配だったからここまで連れてきたんだけど……覚えてる?」


 全く覚えていない。菜々は頭を横に振って、俯いた。学校で突然倒れたことはあるが、その時はすぐに気づいたと聞いた。今回は長かったのだろうか。だからここに……


 そこまで考えて、あれ、と思った。

 大きな本棚。デスクに置かれたPC。どう見ても病院ではなく、どちらかと言うと誰かの自宅の部屋の中のように見える。この状況からするとおそらく優雅の自宅だろう。


 そんなに心配だったなら病院に連れていきそうなものだ。自宅で自分で介抱することを選んだのは何故なのだろう……


「……怖い?」


 その言葉に菜々は首を傾げた。怖い?

「ごめん、正直に言うよ。君を誘拐した。僕と真夏のふたりで」


 告白された瞬間、自分でも驚くくらい冷静だった。誘拐……現実離れしすぎていて、頭でその単語の意味は理解しても気持ちの面でついていけない。菜々は整理がつかないまま、とりあえず頷いた。


「ここは僕の別荘だよ。玲香ちゃんはもちろん、黒木兄弟も場所は知らない。真夏は玲香ちゃんに電話してくるって言ってたから、もう直ぐ戻ってくるはずだよ。……安心して、殺したりはしないから。君が僕らに従っていればね」


 ぎゅっと後ろから優しく抱きしめられる。所謂、バックハグ。距離が近い……戸惑いながらも菜々は首元に回された彼の腕に触れた。

 逆らわなければ殺しはしない––––つまり逆らえば殺されるのだ。お決まりの脅し文句。言ってることはめちゃくちゃ怖いのに、空調の効いた部屋だったから余計、その腕は暖かく感じた。


「……怖がれよもっと」

 〈?〉


 その呟きは聞き取るには小さすぎた。振り返って立てた人差し指を左右に振り首を傾げると、優雅は「ああいや」と目を逸らした。


「そうだ、筆談するものがいるね。スマホはこんな状況だし使わせてあげられないんだけど……代わりのもの持ってくるよ。ええと、その机の上のパソコンにしようか」


 そう言って優雅は菜々を支えていた腕をゆっくりと離し、菜々がよろけないことを確認してから立ち上がった。


 他人にパソコンを使わせて大丈夫なのだろうか、自分は紙とペンがあれば十分だ。それを伝えようと慌てて彼の後を追おうとして、菜々は初めて自分の足首を拘束するロープの存在に気づいた。左足首に巻かれたロープがベッドの脚にくくりつけられている。可動域はというと、せいぜいこのキングサイズの広いベッドの上を自由に動けるくらいだろうか。


「……ぁ」


 ショックから思わず声を漏らす。その微かな声に優雅は振り返った。暴れることもロープを解こうとすることもせず、ただ自分を拘束するそれを指さして、不思議そうにぱちぱちと瞬きをする菜々を見た瞬間、優雅は背筋に冷たい何かが走るのを感じた。

 抵抗できないのではなく、抵抗する気がないのだ。この状況下でもなお、自分のことを信じ切っている。


「ああ……ええと……ごめんね縛ったりなんかして。嫌だよね。でも少し我慢してほしいんだ。念のために君が逃げないようにって理由でやってるだけだから、その気がないなら気にしなくていいんだけど……難しいよね」


 菜々のもとに戻り少し屈むと、彼女の頭をぽんぽんと撫でてやる。


 恐怖を与えておいて、ころっと態度を変え優しくする––––心理学を学んでいる身としては、こういうことがあまりよろしくないのはわかっていた。しかし今回のこれに関してはわざとではなく、おもいっきり素の言動だった。やっぱり、できない。強気な女の子ならともかく無抵抗な、内気で病弱な彼女に酷いことをするなんて––––。


 先程とは一転して下手に出る優雅に、菜々は戸惑いつつも彼を安心させるべく首を横に振った。誘拐したと言っていたが、彼なら酷いことはしなさそうで少しほっとする。


「座ったままいれる?辛かったら横になっててもいいからね。あ、少しでも体調おかしくなったら教えて。変なもの飲ませちゃったのはこっちだし……」


 変なもの、と言う単語が少し引っかかったがまあいいかとスルーした。うなづくと、頭に置かれていた温もりが離れていく。それが寂しくて––––否、安心させて欲しかっただけなのかもしれない。とにかく優雅が隣を離れるのが嫌で、菜々は優雅の服の裾を引っ張って彼を引き止めた。驚いて振り返った優雅を、そばにいてと目で訴えかけながらじっと見つめる。


「へっ!?……だ、大丈夫だよ、すぐそこの机こっちに持ってくるだけだから」


 優雅にとってはもちろん予想外だった。誘拐したと先程言わなかっただろうか。彼女の足を縛らなかっただろうか。逃げる気がないなら気にしなくていいと言ったが、まさか本当にそんな気はないというのか……驚きながらも菜々を諭すがそれでも菜々は手を離そうとしない。


「どこにも行かないから。この部屋の外には出ないし。僕はずっとそばにいて、君のこと見てるから。……ね?」


 優雅のその言葉に、菜々は安心したのか少し微笑んで、掴んでいた服の裾を離した。


 この子は……優雅は彼女に背を向けて、ため息をついた。自分にしては精一杯、脅しをかけたつもりだったのに、まるで効かない。

 ずっとそばにいて見ていると言われて安心するのか。普通は恐怖を感じないだろうか。もっと直接的に、お前が逃げないように監視している、とでも言うべきだったのだろうか。


 ただ一つ言えるのは……自分がこう思うのもなんだけど、正直この状況では、彼女は自分のことをもっと警戒すべきだし、何をしてでも全力でここから逃げ出そうとすべきだ。


「このテーブル、コロついてるから割と動かすの簡単なんだよね。会話はパソコンでもいいかな?」


 菜々が頷くと、作業用机の脚についたコロのロックを外す優雅。机の上には大きなモニターが2枚とキーボード、デスクトップPCが置いてある。

 机をベッドの前まで転がしてくると、抜いていたPCのコンセントを近くの電源に挿し直す。優雅がボタンを押すとPCが起動した。


「パスワード入れるから3秒あっち向いてて」


 言われた通り後ろを向く菜々。カタタタ、タンっ、とキーボードの快い音。そのあと数回クリックする音が聞こえた。

 もうpinの入力は終わっているだろうが、デスクトップにもみられたくないものが入ってるかもしれないとか思いなかなか振り向けないでいると、あはは、と優雅の笑う声。


「もう見ていいよ」


 赤くなって振り向くとメモ帳が立ち上がっていた。


「これで筆談しよう。無理しなくていいからね、何か不便なことがあったら言ってね」


 ベッドの上に座る菜々の隣に戻ってきて、またそっと頭を撫でてくれる優雅。なんというか、とことん優しい。その温もりと、無理はしなくていいと言ってくれたことで少し安心できた。


『ありがとうございます』


 早速キーボードを叩き文字を打ち込むと、優雅は誘拐犯とは思えないような優しい笑顔でにっこりと微笑んだ。


「いいえ。……タイピング速いんだね」

 〈ありがとうございます、うちなれてるんです。それにしても誘拐って……ドッキリか何かですか?〉

「……違うよ。割とガチのやつ。まだドッキリだと思ってたんだ?」

 〈そうですね。だって優雅さんと真夏さんがわたしを誘拐なんてするわけない。ふたりともそんな人じゃないもん〉

「……あのさ、菜々ちゃん。ごめんね」


 優雅の突然の謝罪に菜々はぽかんとして数回瞬きをした。急に何で……?どうして謝るのだろうか。


「その……君をここに連れてきたこと。あとあいつ……真夏は暴走したら止まらないとこあるから、その時は僕が……」


 と、タイミング悪くドアがガチャリと開いて、水の入ったペットボトルを持った真夏が入ってきた。何かを言いかけていた優雅だったが慌てて口を噤んだ。

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