第7話 入院前 7

 手術にすべきか、オルタナティブな方法によるのか、という点に関して、比較的早く僕の中で結論はついていた。

 最初に行った病院で、選択肢も提示されないままそのまま手術という流れになるのは嫌だったけれど、きちんと説明を受けた結果としては手術がもっとも正しい治療法であることは容易に理解できた。

 転移などがある場合は「散々痛い思いをして体を切り刻んだ挙句・・・」というのに対する拒否感はあったし、これを書いている今でも「ある」が、少なくともその時点では転移は確認されていなかったので、治療を受けないという選択に合理性はなかった。手術にしても、放射線治療と化学療法の併用にしてもどちらも体へのダメージは避けえないだろうが、後者を先にしてその後での手術というのは体力的に厳しいというのも納得できた。

 つまり・・・「手術」というのが僕の決めた選択肢だった。

 連れ合いや、家庭を持って別の場所で暮らしている娘に相談するという手もないではないが、僕が彼らの立場だったら相談を受けても困るだけだろう。彼らが医者であったり、少なくとも医療関係者だったら何らかの知見があるかもしれないが、そうではない。だとしたら結局は「あなた次第」という事になる。知見があったとしても「その知見を受けたうえでのあなた次第」であり、おそらく僕の周りで一番知見があるのは通っている病院の医師でしかない。あとはその医師が信頼がおけるかどうか、だけしかない。

 とはいっても今まで僕はまともな意味で入院をしたり手術を受けた経験はなかった。直近では潤年ほど前に検査入院をしたことがあるだけで、それ以前になると幼少期のはしかでも入院とかアデノイドの手術とか、自分の記憶にさえない入院や手術だけだった。だから手術そのもの、その怖さを知らない。比較的頑丈だった体も歳を取っていろいろなところが弱っている。そうした不安は残った。

 それに手術となればそれなりに準備をする必要があった。100人に一人か二人であろうとも手術が失敗する可能性はある。一見、少ない比率のようだけど、2%というのは生死という観点からは結構な比率である。

 少なくとも仏壇を実家から運び込み、寺に万一の時のことを話しておかねばならない。仏壇はレンタカーで運ぶことにして近くのトヨタレンタリースでバンを借りることに決めた。寺には連れ合いをつれていかないと後のことが話せないので、互いの都合を聞いて四月の初めに行くことにした。その時に手術することは連れ合いに言っておいた。

 そんな日を過ごしている時、僕の携帯電話が鳴った。見ると病院の医師の電話番号である。何か急なことがあったのだろうか?と思って電話を取ると、

「あ、西尾さん。どうです?手術なさるかどうか決めました?」

と医師の声がした。

「・・・あ、いえ」

 内心は決めてはいたが、いったいどういう趣旨の電話か分からなかったので僕は口ごもった。

「そうですか。実は来週、手術の予定があったのですがキャンセルになったんでもし決めているならどうかなと思って」

 医師は電話口の向こうから明るい口調でそう言った。いったい、どういう状況で手術はキャンセルになったんだろう(まさか手術予定者がお亡くなりになったんではないだろうなぁ)と思いを馳せつつ、

「すいません。もう少しお時間を頂けたら」

 来週では仏壇もお寺の処理もできないではないか、手術の日程を決めるにはちょっとカジュアルすぎるなぁ、とおもいつつそう答えると、

「あ、全然結構です。気にしないでください。では今度来る時に決めましょう」

 そう言うと電話の主は電話を切った。こちらにとっては一生の出来事でも、医師にとっては日常茶飯事の手術である。でも、こうした認識のギャップは時に互いの不信感を生み出すこともあるのではないか、とふとその時思った。

 僕自身は生死ということに若いころから一種の諦念を持って接してきているので、あまりそういう気持ちにはならないが、「死」が目の前に来るとそれまでは常識的な人が突然豹変することがある。昔、死を端然として説いていたある寺の高僧が自分がガンだと告げられた途端に人に対して説教していたにも関わらず、突然苦悩し始めたという話を聞いたことがある。

 本当かどうかは別としてあり得る話だとは思う。そうした個人個人の死に対する考えの違いを病院は掬い上げ続けることは難しいのだろう。現に病院でも心理カウンセラーみたいな人がいて最初の診察の時に話をしたのだけれど、そういう人がいたとしてもなかなか対応が難しいのはSNS上に掲載される体験談みたいなものを見ても容易に窺うことができるのだ。

 もちろん、僕は人の死を軽々として扱うべきではないと考える。人の死を軽々として扱う人間は極めて危険で愚かな人物であり、歴史上にも多くの虐殺者が英雄として描かれているのは唾棄すべき恥だと思う。今でも世界ではそういう愚かな人間がたくさんいる。だから人の死を重く受け止めるのは人間の心情として大切なことだと思う。

 一方翻ってみれば、生物は必ず死を迎える。人間が特別な存在だと思うのは人間の傲慢さであって、この世で人間は特別な存在ではない。とりわけ往生際の悪い生物ではあるが・・・。

 したがって死を軽々に扱うことも、また死を非常に特別な事として扱うことも僕はあまり考えていない。だが、そう思う人は多分少数派であろう。もし、あの電話が別の患者に行ったら、その患者は軽い、ひどい扱いを受けたと思うかもしれない。世の中は難しいものである。

 とにもかくにも・・・僕は切ったばかりのスマホを眺めながら思った。早めに事務的な作業を終えねばならないではないか。


 

 

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