第21話  8日目 2022年5月21日 (土)

 四時から五時の間に目覚めるのが日課になって来た。病院にいる間からそうだったけど、年をとると早起きになるというのを実感してしまう。それともこれは手術の影響なのだろうか?

 体温は35.9°血圧115/74脈拍は65。  

 昨日食べ残したスパゲッティを朝食にすることにした。ちゃんと作ったスパゲッティなら冷蔵庫に冷やしておいてもそこそこ美味しく食べられる。二回に分けて全部食べ終えた。土日は連れ合いが起きてくるのが十時頃なのでその前に栄養剤の腸瘻投与を終えるように五時から開始する。そうすれば腸瘻をしている姿を見せずにすむ。病院でならともかく家庭で腸瘻をしている姿を見せたくないなぁ、というのは僕の勝手な美意識で、裏返せば家人がそんな姿をしているのをみたくないという事でもある。

 Winndowsのソリティアをしながら、昨日聴いたグレングールドによるベートーベンの協奏曲の残りを聴く。二番と三番はバーンスタインの指揮、五番はストコフスキーとの共演である。

 いずれグレングールドに関して別にちゃんと書こうとおもっているのだが、彼は有名曲に関してとりわけ独自の主張をしがち、と感じる。

 ベートーベンの協奏曲で言えば一番とか二番とか、取り立てて強い主張は感じられず、それでいて品も知性も十分ある演奏を展開する。それが三番、四番と次第に怪しくなっていき、五番ともなるとあの有名な出だしのテンポの個性的な演奏となる。良くは分からないが、グールドのあの独特のテンポは楽譜からすると間違えとは言えないという話を聞いたことがあるが、どうなのであろうか。五番にはカレルアンチェルの指揮による別演奏もあるけれど、やはり独特のテンポでであることに変わりはない。 

 ソナタでも「月光」とか「悲愴」とか「アパッショネータ」とかでは独特の演奏を披露するグールドは、ちょっとひねくれた目立ちたがり屋の子供であり、内心、ねぇねぇ聞いて、と言っているのかもしれない。

 だが、世の中は子供ならともかく、ちょっと生意気そうなカナダ人男性にはそんなに甘くなくてタチアナ ニコラエワあたりから(確かベートーベンの後期ソナタの演奏に関して)批判され、おちこみひねくれ、それでいて止めない、という変わり者のレッテルを貼られるのを(気にはしているが)気にしないふりをしている。そんな所がちょっと可愛くもある。

*The Glenn Gould Edition Beethoven The 5 Piano Concertos by Sony Classical

Concerto for Piano and Orchestra No.2 B-flat major, Op.19

Concerto for Piano and Orchestra No.3 C minor Op.37

Columbia Symphony Orchestra /Leonard Bernstein

Concerto for Piano and Orchestra No.5 E-flat major Op.73"Emperor"

American Symphony Orchestra/Leopold Stokowski

SM3K 52 632より


 とはいえクラッシク音楽界というのも多少変な部分があって、実力のある演奏家が必ずしも評価されず埋もれるケースも散見され、大した実力もない音楽家がCDを大量に出すようなこともある。そうした若干ゆがんだ構造をグールドは気付いているのだろう。特にピアノでは有名な演奏家であっても僕も全く聞かない演奏家が二・三人はいる。(誰とは言わないがそうしたピアニストに限って指揮者を兼任するものだ)

 指揮者の中にもそうした人はいる。時間と共にいずれ淘汰されては行くのだけど、どういうわけかその時代にはのさばっている。

 ビジネスとはそんなものとはいえやっぱりカルチュアの世界でそんなことがあるのはちょっと残念な部分がある。

 権威主義的な構造は権威に近づけば、どんな下手でも評価される可能性があるわけで、とにかく20世紀後半あたりは結構権威主義的なものが散見された世界であった。「正当な権威」自体は否定しないが「権威主義的なもの」はとても良くない。日本の音楽評論家も「権威」、「権威主義」「権威主義を否定する権威主義」などが入り混じって混沌としていたが、本当の権威など片手で数えるほどもいなかった。敢えて名前を上げるなら小林秀雄くらいにしておこうか。頭の中にモーツアルトの40番の交響曲が繰り返し現出するという話はとても好きである。

 ベートーベンを聴きながらあと腸瘻の時間がどのくらい残っているかを時折眺める。なんだか途中でさぼっているんじゃないかと思うくらいゆっくりとしている。だがこれを早くするとお腹を壊してしまうので我慢強く落ち切るのを待つしかない。

 問題児の演奏の後にルイオーリアコンブ指揮のヴィバルディの「四季」を久しぶりに聴いてみる。・・・というか、四季そのものを聴くのが久しぶりである。この日本人好みの曲は祝祭感が程よく有って押しつけがましさがどこにもない。四季というのも日本人の好みの発想である。

 とはいえヨーロッパでもやはり四季は大切にされていて、イタリアではLe quattro stagioni、ドイツではDer vier Jahreszeitenと言うホテルの名前が結構あった。ホテルの名前に選ばれるというのは四季というネーミングがポジティブな感情を与えることに他ならない。ミュンヘンでは一番の老舗のホテルの名前がVier Jahreszeitenという名であったけど・・・今でもまだあるのだろうか?ホテルの系列化の波は僕がいた頃から激しかったし、旅行業界はこの数年、Covit19で打撃を受けているのでもうなくなってしまっているかもしれない。

 「四季」の演奏は他にもイ・ムジチの二種類の演奏とカラヤンの二種類の演奏を持っている。世間ではイ・ムジチの評判が高いけど個人的にはオーリアコンブの演奏が好きである。カラヤンのならば後の録音の方が(たぶん同じベルリンフィルでも編成を小さくしているのだろう)聞きやすい。


 昼飯は業務スーパーで買った蕎麦で月見そばを作る。白状すると、実はいまだに月見そばの上手な作り方が分からない。

 問題は卵の白身である。卵かけご飯の時もときおり感じるのだけど、熱が通っていないときのあの白身のずるずるとした感覚をどう処理すればいいのだろう?ご飯に掛ける時は、箸で高速回転させて黄身と混ぜるという力技が存在するが、月見うどんとかそばは、「月見」である以上混ぜるわけにもいかない。かといって卵を煮るという訳にもいかない。月見そばの時の白身はいつもの半分の量でいい、と思う。とはいえ、白身を捨てるのも忍びない。白身は少し固めの部分と流体に近い部分があって、新しい卵ほど固めの部分がしっかりしている。目玉焼きにすると少し盛り上がって良い感じに仕上がるのだが、生の時はどうもいただけない。

 今回はそばつゆを火にかけ、その中に蕎麦と卵を投入して少し白身を固める、という方法を取った。白身はある程度固まって食べやすくなったが、肝心のそばつゆの香りが火で飛んでしまったし、つゆが蕎麦となじまない。失敗であった。


 ベッドを注文に行こうかと思ったけれど天気が悪くてなんだか気分が乗らない。うだうだしながら野球を見ていたら時間が遅くなったので今日は止めにして、五反田あたりをぶらぶらしてから帰宅した。という訳で結局のところ7902歩しか歩かなかった。体温は36.3℃、血圧は115/66、脈拍は67.

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