しず姉様は大事を取ってしばらく入院され、帰ってこられたのは年の瀬だった。一緒にお飾りやおせち料理の準備をして、元旦には近くの神社へお詣りをした。三人で過ごすお正月は想像していたような気持ちの浮き立つものではなかったけれど、それでもとにかく、しず姉様と共に無事に新しい年を迎えられたことに安堵した。

 しず姉様は、始終ぼんやりしている。以前はあれほど熱心に本を読んでらしたのに、今は頁を開くことすらない。無理からぬことだとわかりながらも、もどかしく、寂しい気持ちでいっぱいだった。

 わたしはあの晩倒れて、一晩病院に泊まった。重苦しい眠りだった気がするが、早朝、目が覚めるとずいぶんと気分がよかった。指の先までぴんと血が巡るような感覚は、これまで生きてきて味わったことのないものだった。

 お正月も過ぎて鏡開きにおぜんざいを食べたとき、わたしは全部平らげたけれど、しず姉様は少し残した。以前は大きなお口で大福を頬張っていたのに。あのときの稚い様子を思い浮かべると涙が滲む。あんなに元気でいらしたのに。

 笹本さんも疲れている様子だった。しず姉様を預かっている立場から、心労が堪っているのだろう。以前に比べてずいぶんと元気になったわたしは、笹本さんに教わりながら家事をこなした。掃除も洗濯も、以前は手伝おうとしてもすぐ疲れてしまっていたのに、今日などは回り廊下を全部ぞうきんがけをして、小さな花壇の手入れをして、白い水仙をいくつか切る。しず姉様のお部屋に飾ろう。

 わたしは水仙を手に、郵便受けを覗く。白い封筒が一通、入っていた。差出人は見なくてもわかる。

 縁側でひなたぼっこをしているしず姉様に、そっと声をかける。

「お手紙きてた」

「ん……おおきに。そこらに置いといて」

 しず姉様の声は素っ気ない。にっこりと笑ってくれるけれど、手紙を持ったわたしの手元は見ようともしない。

 史生さんは年の瀬に何度かこの家を訪ねてきた。だけど、しず姉様は頑なに会おうとはしなかった。体調が悪いからと告げると、酷く心配していたけれど、それも三度目になると一目だけでも会えないかと詰め寄られた。答えに窮して黙り込むと、史生さんは悲壮感に目を潤ませながら、拳を握り締めていた。だけど、強引に上がり込むようなことはしない。彼は優しく、意気地がないのだ。

 史生さんから書簡が届くようになったのは、年が明けてからのことだった。会えないならばせめてと思ってのことだろうか。三日と明けず届く手紙はすべて、封も切られずに文箱に仕舞われた。

「しず姉様、縁側は寒ない?」

 言いながら、わたしは毛糸のショールをしず姉様の肩にかける。すると、そっと手を握られた。乾いた、冷たい指先だった。

「董子の手ぇ、ぬくたいなぁ」

「しず姉様が冷えてるとちゃう。お部屋は入ろ」

 促すと素直に立ち上がり、座布団の上でぽてんと足を投げ出す。

「水仙、ええにおい」

 鼻をひくひくとさせて、しず姉様が呟く。喜んでいただけてよかった。

 時間が経てば、元の朗らかなしず姉様に戻るのだろう、そう思っていた。だけど一方で、以前のしず姉様にはもう二度と、会えないような気もしていた。

 しず姉様は、どこか遠くに行ってしまったみたいだ。身体はここにあるのに、遠く、遠くに。知らないおじさんのところへお嫁に行くよりも、ずっと遠くに。

 ――だめ。

 自分の考えが恐ろしくなり、慌てて首を振る。悪いほうへと想像を巡らせてはいけない。それが本当になってしまう気がするのだ。しず姉様はじきにお元気になる。そう信じなければ。

 だけどどちらにしても、身体が元気になればしず姉様はこの家を出ていってしまうのだ。

 一人思い悩むわたしを見て、しず姉様はくすくすと笑い出す。

「どないしたん。変な子」

「ううん、なんでも。お茶でも煎れましょか。昨日もろた五色豆もあるし」 

「ん、今はええわ。なぁ、董子」

 いつかのように、しず姉様は白い手をひらひらと振ってわたしを呼ぶ。

「お乳、吸うて。うちのお乳」

 しず姉様の声はふわんとわたしの耳の中で反響する。わたしはその声に逆らうことはできず、しず姉様に躙り寄り、衿を左右に開く。素肌は以前のような張りはなく、乾いていた。痩せて少し小さくなったしず姉様の乳房にそっと手を添え、わたしはその先端を口に含んだ。唇を窄めて、ちゅっちゅと吸う。微かに汗のにおいがした。

 しず姉様はわたしの背をとんとんと叩きながら、押し殺したような息遣いで、細い声で歌を歌う。もの悲しくも美しい旋律に、わたしはうっとりと目を閉じた。

「その歌……聴いたこと、ある」

「峰子さんが歌てはったんちゃうか。あの人は、崇仁の出やて聞いたことあるさかい」

「祟仁?」

「知らんねやったらええ。忘れて」

 素気なく言ったあと、しず姉様はまた歌い出す。わたしはしず姉様の胸に顔を埋めたまま、その歌を聴いた。

 やっぱり、覚えがある。母が、わたしをあやすために歌ってくれたのだろうか。乳を吸うわたしの背をとんとんと叩きながら。母との温かい記憶の切れ端を掴もうと瞼の中を探すけれど、何一つ覚えてはいなかった。それはそうだろう。乳飲み子の頃のことなど覚えているはずもない。

 浮かぶ母の面影はいつも、綺麗にお化粧をした物憂げな顔だけ。

「董子、この歌なぁ、子守歌とちゃうねんて」

 朧気な母との思い出を遮られ、わたしはしず姉様の胸から顔を上げる。

「奉公に出された子ぉが、子守をする歌やて」

 母の生い立ちは聞いたことがないが、しず姉様の口ぶりからは不遇なものだったことが察せられた。

「史生に聞いたんや。史生は、いろんなこと教えてくれたなぁ……」

 久方ぶりにしず姉様の口から史生さんの名前が出て、どきりとした。

「悪いことしたと思てる。ちょっとな、男を自分の思い通りにしてみたかったんや」

 乾いた声でしず姉様が笑う。少し意地悪く歪んだ唇はひび割れて皮が捲れ、血が滲んでいた。しばらくわたしの顔を見つめたあと、ふと視線を上げた。

「なぁ、菫子。ちょうちょ」

 幼げな声にぞくりとする。無造作に腕を伸ばすものだから、袖がまくれて白い腕が露わになった。

「ちょうちょ。ふふ、かいらしいなぁ」

 しず姉様の指を躱し、蝶はひらりひらりと舞う。

 あの、蝶だ。灰色の羽根の、薄気味悪い蝶。今でははっきりとわかる。あれは普通の蝶ではない。得体の知れない悪いものだ。春の花が咲くと共に現れる儚く可憐な虫とは違う。

 わたしはしず姉様の腕を掴む。たわんだ肉の頼りない感触にひやりとした。まるで枯れて萎んでいく植物のようで。

「気のせいや、しず姉様。こないな時期に蝶なんか、おれへんて」

「あー……それもそやな」

 応えながらも視線は蝶に 据えたまま。

 こっち向いて、わたしを見てしず姉様。それは、きっとよくないものだから。心奪われてはいけない。

 ふいに、空に伸ばしていたしず姉様の手はぱたりと膝の上に落ちた。

「ほんま、おおきにな、董子」

 奇妙に明瞭な声でしず姉様が言う。

「うちのややこ、食べてくれて」

 ざわっと身体の中で何かが蠢く。そして、ぞろぞろとおなかを内側から撫でられているような感じがした。

 わたしは、しず姉様のおなかから流れ落ちてしまった子を食べた。

 あのときは恐ろしくて悍ましくて逃げ出そうともしたけれど、しず姉様が喜んでくださっているなら、よかった。ほんの僅かでもしず姉様の救いになったのなら。

 わたしは喉元に蘇る粘つく感覚に耐えながら、再びしず姉様の乳房に顔を埋める。すると、それが当たり前のように、そろりと頭を撫でられた。

「――あれ、菫子。なんや、できもんか」

 ひやりとした。しず姉様に知られてしまった。

 気づいたのはいつだっただろう。髪を洗うときに指先に違和感を感じたのは。

 わたしの頭部にも、しず姉様と同じような小さな突起があった。

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