「ここらはほんま、長閑やなぁ」

 のんびりした口調でしず姉様が言う。本家のある東山あたりはほんの少し歩けば四条通に出られて、賑々しく商店が建ち並ぶ。祇園もほど近く華やかな界隈だ。

 今日はしず姉様と二人、近くを散歩していた。晴れた秋の陽射しが背中を暖める。小春日和というのはこういう穏やかな秋の日のことを言うのだと、しず姉様が教えてくれた。

 小川沿いの道では数珠玉がしなやかな葉を伸ばし、艶々とした黒い実をつけていた。しず姉様は熱心に実を摘んでは、手にした巾着にしまった。中に入れた小銭がシャリシャリと鳴る。帰りに駄菓子屋に寄ろうという算段だった。

「しず姉様、ここでの暮らしは退屈やない?」

「ちっとも。こっちきてからのほうが楽しいくらい」

 にっこりと笑う表情に嘘はない。わたしはほっとして、しず姉様の袖を摘まんだ。するとしず姉様はぱっと袖を払い、驚いたわたしの手を握ってきた。

「こっちのがええ」

 握ったままの手を歩調に合わせてゆらゆらと振る。

 振り払われたと思って驚きと悲しみで冷えた心が、急に温かくなった。いえ、熱くなった。自分でも怖いくらいに心臓がどくどくと音を立てている。

 しず姉様の手は柔らかくて赤ちゃんみたいだった。爪は短く切り揃えて、桜貝のよう。

 しばらく歩くと、苔むした石段がある。雑木林の奥には塗りのない白茶けた鳥居が見える。小さな神社は由緒書きも色褪せてほとんど読めない。

「董子、見て。七竈、赤うなってる。秋になったら一番に色づくんはこの木ぃや」

「しず姉様は、ほんに物知り」

 でこぼこした石段を上がりながら、気をよくしたしず姉様が目につく植物を指差しては名前を歌のように口ずさむ。慎ましい不如帰にはっとするほど青い竜胆、愛らしい花に不似合いな名前の現の証拠。梢を飛ぶのはおなかが橙色の可愛い小鳥、山雀。

「董子と嵐山に行きたいなぁ。山が赤う染まって、そらぁ見事や。うちも小さい頃におじいさまに連れてってもろたきりやけど、今もよう覚えてる」

 しず姉様の祖父……つまり、わたしの父親は、しず姉様のことをとても可愛がっていらして、この家にもよく連れてきた。わたしはしず姉様が遊びにくるのをとても楽しみにしていた。外で遊べないわたしに、おはじきやおじゃみの遊び方を教えてくれたのもしず姉様だ。白い手がぽんぽんと器用におじゃみを宙へ投げる様は、まるで奇術か何かに見えた。だけど外出のときはわたしは決まって留守番で、とても寂しく思っていた。

「行きたい。しず姉様と」

「ほな丈夫にならんとな。ようさん歩いて、おいしいもん食べたいもんな」

 優しく窘めるように言われ、わたしも神妙に頷く。それから、しず姉様の柔らかな手をぎゅっと握った。

 珍しく、神社には先客がいた。腰の曲がった老婆だ。白髪を一つに結い、一心に手を合わせている。わたしたちは、少し離れて順番を待った。邪魔にならないように会話は慎み、二人してじっとその小さな背中を見守った。

 ずいぶんと長い間、その人は祈っていた。何を祈念するのだろう。家族の健康だろうか。それとも自身の長寿だろうか。しず姉様と顔を見合わせて帰ろうかと思案し始めた頃、ようやく老婆は振り返った。そして最初からわたしたちがいることを知っていたかのように、まっすぐにこちらに向かってくる。

「お待たせしてもうて。どうぞ」

 場所を空けてくれた老婆に会釈して、わたしたちは古びた賽銭箱の前に立ち頭を下げた。擦り切れて色褪せた朱の鈴緒を持ち、ガラン、ガランと大きな鈴を鳴らす。

 このときいつも、周りの空気が変わるのを感じた。何かここではないどこかから、生ぬるい風が吹いてくるような。

 いや、余計なことを考えてはいけない。神様と対峙するのだから。

 わたしの祈りはだいたいいつも同じだ。神様にご挨拶をして、平穏に過ごせていることを感謝して、それから、ひとつだけお願いごとをする。

 しず姉様と、できるだけ長く一緒に過ごせますように。

 一礼して本殿から離れると、鳥居のそばで老婆が手招きをしていた。

「お嬢ちゃんら、お蜜柑おあがり。早生やからちょっと酸いけど」

 手提げの中から蜜柑を二つ取り出し、ひとつずつわたしたちの手に載せる。しず姉様はすぐさま皮を剥いて、ぽい、と口の中に房をいくつか放り込んだ。わたしも倣って一房口に含む。若い蜜柑は酸っぱいけれど瑞々しい。お正月を過ぎた頃のぼけた味の蜜柑よりも、わたしはこれくらいきりりとした味のほうが好みだ。しず姉様は、梅干しを食べたときのように唇を窄めている。なんて可愛らしい表情なのだろうと、なんだか胸の中がくすぐったくなって、わたしはしず姉様から目を逸らす。老婆もその幼げな表情に目を細めていた。

「ここらの子ぉか。あんまり見かけへんけど」

「うちは最近、親戚んちに住まわしてもろてて。こっちの董子は、身体が弱いさかい、あんま出歩かへん」

 しげしげとわたしたちを見たあと、不意に合点がいったように老婆は頷く。

「あんさん、亀島のお嬢さんか。そらぁ……そら、ほんに気の毒な」

 老婆は言葉を切り、小枝のような自分の手に視線を落とした。皺の奥の、少し青みがかった目がしず姉様とわたしを交互に見る。

「女の子はな、みぃんな、可哀想や」

 どこか怒りを孕んだ声だった。わたしはびくりとして、しず姉様の袖を摘まむ。

「堪忍な。変なこと言うてもうて」

 立ち去ろうとする老婆に、しず姉様は屈託のない声で言う。

「おばあちゃん、お蜜柑おおきに」

 わたしたちは老婆の後ろ姿を見守った。あんなに腰が曲がっていても、意外にも力強く細い足は参道を歩く。

 あの老婆も、少女の頃は可哀想だったのだろうか。何十年も昔、彼女が女の子だったときに思いを馳せると息苦しくなった。今は、幸福なのだろうか。それを聞けばよかった。聞けば、わたしたちの未来のよすがになったかもしれない。

「なぁ、なんで女の子は気の毒なん。可哀想なん」

「なんでやろなぁ」

 とぼけたふりをして、しず姉様は笑う。だけどわたしにはわかる。大好きなしず姉様のことだもの。

 しず姉様は理解している。わたしたちが何故、憐れみの目を向けられたのかを。

 どこからともなく灰色の蝶がしず姉様の髪に舞い降りて、羽根を休めていた。



 その日はなんとなく気詰まりで、あまり話もせず黙々と食べた。しず姉様はいつも通りおいしいおいしいと笹本さんのごはんを食べる。

 笹本さんのごはんは質素だけれど栄養をちゃんと考えてあって、優しい味がする。今日はわたしの好きな卯の花が、お気に入りの金魚の絵付けがされた小鉢に盛られていた。残さず食べると、笹本さんは細い目をさらに細めて微笑む。

 普段と変わらない夕食の光景。女ばかり三人で食卓を囲んで、誰ともなくお茶を煎れて、片づけはみんなで。

 だけどわたしの心の中には、昼間に会った老婆の言葉が渦巻いていた。

 可哀想、可哀想、可哀想。わたしたちは可哀想。

 嫌な気持ちだった。なんだか惨めで、胸の中に芋虫が這い回っているみたいに不愉快だった。

 どうしてこれほど蟠ってしまうのか。

 たぶん、わたしにはわからなくて、しず姉様にはわかっていたからだ。

 洗い終えた食器の水気を手ぬぐいで拭いていると、ひょいとしず姉様が顔を覗き込んできた。不意のことで、わたしは笑顔を取り繕うことができなかった。

「董子、寝るまでになんかして遊ぼ」

「……なんか、て?」

 唇を曲げたまま、わたしは小さく問い返す。その声音が甘えていて卑しくて、泣きそうだった。しず姉様はわたしの背中をぽんぽんと叩く。

「なぁ、笹本さん。花札ある?」

「ええ……書斎で見かけた思いますけど。探してきましょか」

 前掛けで手を拭きながら、笹本さんは書斎へ向かう。

「しず姉様、遊び方知ってるん?」

「うん。董子にも教えたる」

「まぁまぁ。お嬢様はいったい、どこで花札やなんて覚えはったん」

「内緒や」

 花札を手に戻ってきた笹本さんのからかうような言葉をするりと躱し、しず姉様はちゃぶ台をどけて、座布団を人数分ともう一枚用意した。そして、中央に置いた座布団の上に札を並べていく。

「一月が松、二月が梅、三月が桜……ほんで、この派手なんが光札」

 小さな長方形に描かれた花鳥風月は可愛らしいけれど、何かいけないものを見るような心持ちがした。カルタのようだけれど、これは子どものおもちゃではない。博打に使うものなのだ。

 しず姉様は十一月で手を止め、一枚の札を掲げた。

「ほんで、これは鬼」

「鬼……? なんか怖い絵……」

 他の札と比べるとずいぶん異質な雰囲気だ。暗雲垂れ込める空に稲光、赤い柱のようなものが描かれている。

「柳のかす札やけどな。これは特別で、他の札を喰うんや」

「喰う……」

「そ。鬼やからな」

 ふふ、と意味深な笑みを浮かべたあと、しず姉様は遊び方を詳しく教えてくれて、箱に入っていた役と点数の表をわたしの手元に置いてくれた。花合わせを、まずは練習で一勝負。

 おおまかな遊び方は難しくなかった。親が手札を配り、中央の場には伏せて積んだ札と表を向けた札がいくつかある。手札と場の札の絵を合わせて、伏せた札を一枚返す。合えばそれももらえる。そうして集まった札で役を作るのだ。親は最初は笹本さん、次の勝負は勝ったしず姉様。

 役の名前は面白く、菊に盃と芒に月を合わせて月見で一杯、月の代わりに桜に幕なら花見で一杯。いかにも大人の遊びという感じがした。

 三回目の勝負のとき、しず姉様がにぃ、と口の端をあげながら言う。

「なんか賭けよ」

「お金はあきませんよ」

「ほんな……これ」

 しず姉様はいつも髪に結わえている舶来もののリボンを解き、するすると座布団の上に落とした。

「え。お気に入りとちゃうの、そのリボン」

「いらんもん賭けてもしゃあない」

 悪戯っぽく口の端を上げるしず姉様の言葉に、わたしと笹本さんは顔を見合わせ立ち上がった。

 わたしは自分の部屋の、千代紙が貼られた小箱を開く。いくつかの宝物を眺め、竹久夢二の絵はがきを選んだ。痩せた女の人が俯いて、寂しいような夢を見ているような、そんな顔をして佇んでいる。表書きは何もない。お正月に本家に行ったとき、綺麗だから董子ちゃんにあげるといって書生さんがくれたのだ。

 再び居間に集まったわたしたちは、それぞれ改めて賭ける品物を見せ合った。

 笹本さんが座布団の上に置いたのは、桐の箱に収まった珊瑚の帯留めだった。咲きかけの薔薇を象ったそれはとても美しいけれど、薄桃色と湿ったような質感はなんだか肉のようにも見えて生々しい。華やかで、笹本さんの慎ましい雰囲気にはそぐわない気がした。

 それを見て、慌てたのはしず姉様だ。一目でそれがどれほど高価なのかわかったのだろう。

「や、これはあかんて。こない大きい珊瑚……」

「かましません。うちにはもう、派手やさかい。若い人に譲りたい思てたとこですねん」

 からりとした声だった。しず姉様はじっと笹本さんの表情を窺ったあと、札の束をぐしゃぐしゃに混ぜ、山に戻して手に取った。

「返して言うても返しませんえ」

 口元を袖で隠し少し気取った口調で言ったあと、しず姉様が札を切る。

「次は本ちゃんや」

 しず姉様は真剣な表情で札を配った。わたしは急に緊張してきて固唾を呑む。手札は悪くない気がする。山から引いて光札を手にすることができて、わたしは慌てて役が書かれた表を確認した。

 場の札を凝視する。手元には松に鶴、梅に鶯が手元にある。場に出ている桜に幕が揃えば表菅原という役ができる。しず姉様が桜に幕を取らないよう、じっと様子を窺った。

 しず姉様が手札の桐に鳳凰をカス札に合わせる。それから山から一枚引いた。

「あっ……」

 思わず声が漏れた。白い指のその先で、黒い雷鳴が閃く。

「ほれ」

 パシッと小気味よい音を立て、しず姉様が札を叩きつける。

 狙っていた札を鬼に喰われて、わたしは呆気に取られて言葉を失う。

 しず姉様の手元では最強の役、五光が完成していた。

「宵待草はわたしのもんや」

 得意げに口の端を上げて笑う。しず姉様は、絵はがきが欲しかったのか。てっきり、珊瑚の帯留めが気に入ったのかと思っていた。満足そうに絵はがきを眺めたあと、解いたリボンを袂にしまった。それから珊瑚の帯留めをじっと見つめたあと、笹本さんに差し出す。

「なぁ、笹本さん。帯留めは返すさかい、代わりに本買うてくれへんかな」

「本、ですか。書斎には読みたいもんありませんでしたか」

「うん、借りもんやのうて、自分の本が欲しい。うちは……本は買うてもらわれへんかったから」

 しず姉様は朗らかに笑いながら、少し恥ずかしそうにこめかみを掻く。

「女の子は、賢うのうてええて。ちょっとくらい阿呆なほうが可愛げがあってよろしいって」

「そないなこと、おません。わかりました、どないな本がええか考えといてください」

 笹本さんはわずかに眉を顰めたあと、そっとしず姉様の手を取った。わたしもしず姉様が気の毒で、膝の上でぎゅっとこぶしを握り締めた。

 本家はお金持ちで、しず姉様はたくさん着物やお人形を持っている。だけど読みたい本は買ってもらえない。

 神社で出会った老婆の言葉がまた蘇る。

『女の子はな、みぃんな、可哀想や』

 せっかく、花札で遊んで忘れかけていたのに。

 笹本さんがポンと手を打ち、その場の澱んだ空気を払った。

「さ、お嬢さん方。ぼちぼちお休みにならんと。しずさん、花札で遊んだことはくれぐれも本家の方には内緒で」

「もちろん。うちも怒られるし」

 笹本さんとしず姉様が目を合わせて笑う。わたしだって一緒に遊んだのに、なんだか秘密を共有しているのは二人だけのような様子に、胸の中でちりちりと何かが焦げつく音がした。

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