絡まる赤い糸は、身を滅ぼす契り。

 春の夜。叢雲むらくもに包まれた朧月ろうげつが微光を放っている。


 蒼牙そうがは物陰からじっと、辺りを伺っていた。


「蒼にぃ?」


 青年の腕の中に収まっている少女が、心配そうに声をあげる。


 アムネジアの中心から遠く離れた街、ゲヘナ。この地にはパーティーの喧騒は愚か、その煌びやかな明かりさえも届かない。辺りはしんと静まり返り、時折ふくろうの鳴き声が虚しく響く。春の夜風は冷ややかに、青年の短く切り揃えられた前髪を揺らした。


「どうした? 寒い?」


 蒼牙が心配そうにそう尋ね腕の中を見下ろすと、少女はふるふると首を横に振る。


「あのなか、行かないの??」


 少女がそう言って指差した先には、白い壁が立ちはだかっていた。蒼牙はその無邪気な質問に、困ったように微笑む。


「ダメだよ、ねね。

 あそこに入ったら──僕たち殺されちゃう」

「ころされちゃ?」


 意味を理解していないのか、ねねはその言葉を反芻した。蒼牙はその愛らしい仕草に吹き出すと、そっと口を開く。


「僕たち人造人間キマイラにはね、

 すっごくちっちゃなチップが埋め込まれてるんだ」

「ちっぷ?」

「そ、特に19XXは、政府の意向で廃棄処分対象。

 捕まったら、僕もねねも一緒にサヨナラだ」

「いっしょ!!」

「ふふ、一緒に死んでくれるかい?」


 冗談めかしてそう言ってみる。ねねは数回瞳を瞬かせ、ギュッと蒼牙が抱きついた。またそっと、その頭を撫でてやる。


「嗚呼、とっても痛いんだあれは。

 脳が裂けるような、心臓が喰われるような、そんな」


 青年は譫言うわごとのようにそう呟き、視線を落とした。

 自分の中で確かに生きていた細胞自らが、──その【痛み】と形容するにはあまりにもむごく、熱く、痺れるような痛みは、目を瞑れば鮮明に思い出される。

 まだ幼かった己は、その理解し難い苦しみにもがき、死を願い、


「蒼にぃ?」


 ねねがまた、心配そうに言葉を掛ける。少女を見ると、大きく潤んだ瞳と視線が絡む。その美しいアクアマリンが、痛みを和らげる。


「大丈夫だよ」


 蒼牙はそう言って少し微笑むと、ねねを腕に抱き直した。


 ──響葵ひびきは今何をしているだろう?


 ねねをいだきながら、ふと蒼牙はそんなことを思った。愛しいあの人は今、この壁の内側で危険さえ顧みずに、約束を果たそうとしている。響葵自身のためではない、紛れもなく蒼牙のためだ。

 無茶な願いであったはずなのに、彼女は嫌な顔をせず引き受けてくれた。理由を問うと微かに微笑まれ、「似た者同士ですから」と、たった一言の返事を貰った。

 自分とあの人と、どこが似ているというのか。蒼牙にははなはだ疑問であった。

 何事にも懸命で真っ直ぐで、優しいあの人と、何事からも逃げてばっかりで嘘つきな自分と、どこが似ているのだろう。

 素直に疑問をぶつけてみても、彼女は穏やかに笑うだけであった。さらに問い詰めれば、「ではまた今度の機会に話しましょう」とあっさり引き下がられた。その時の彼女の微笑みは、どこかぎこちないような、何かに怯えているような、そんな気がした。


 ──


 【約束】と明言しなくても、これは【約束】だ。

 また今度──この任務が終わったら話しましょう、と。その言葉には責任が伴う。また今度。貴方が言ったのだ。果たしてもらわなければ困る。絶対生きて戻ってきて、そして【約束】を守って──


 蒼牙はそう願わずにはいられなかった。



 彼らの視線の先で、先ほどからこそこそと繰り返されていた会話が途切れる。話を終えたらしい女は、軽い足取りで帰路に着いた。


「よし、ねね行くよ」


 彼はそれを確認すると、裏路地に回り女の行手を阻む。女は驚いて目を見開くと、蒼牙とその腕に収まる少女を交互に見やった。



 蒼牙はにっこりと微笑むと、女にそう語りかける。彼女は逃げようと辺りに視線を巡らせた。しかし体が動かない。青年の殺気が、女をつかんで話そうとしない。


「……少し、お話を伺っても?」


 青年の耳元で、普段は付いていないはずのピアスが揺れる。


──そのピアスは確かに、咲穂の首元の刺青と同じ形をしていた。

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