ある日、好きな人に誘拐されました。

西羽咲 花月

第1話

4月下旬の土曜日。



平野蘭(ヒラノ ラン)は周囲を見回しながら飲み屋街の一角を歩いていた。



周囲は薄暗くなり始めていて、もう少し立てば居酒屋が開店しはじめる時間帯だ。



蘭が注意深くお店の様子や、お店に出入りしている人を確認していると、不意に誰かがぶつかってきた。



余所見をして歩いていた蘭は咄嗟に立ち止まり「ごめんなさい!」と謝る。



ぶつかった相手も目を丸くして立ち止まったものの、蘭の顔を見た瞬間大きく息を飲んだ。



蘭も同じように息を飲み、言葉を失う。



しばらくの間お互いに見つめあうだけの時間が流れた。



やがて男は時間が進んでいることを思い出したかのように表情を変えた。



それは驚きから嫌悪へと歪んでいく。



眉は眉間の中央へ寄せられ、口元は口角が下がっていく。



その表情を見た瞬間蘭は一瞬だけ胸にチクリとした痛みを感じた。



男は軽く舌打ちをすると、蘭に謝ることもやめて通り過ぎていってしまった。



蘭はその後ろ姿を見送ってゆるゆると息を吐き出した。



一瞬にして緊張が解けていったのがわかる。



男がいなくなると、路地には蘭ひとりになった。



いつの間にかお店への出入りが止まり、店内で営業開始のための準備が始まったことがわかった。



蘭はため息を吐き出して、歩き出そうと一歩を踏み出す。



その瞬間だった。



突然後ろから口をふさがれていた。



蘭は咄嗟にその手を自分の口から引き剥がそうとする。



しかし相手は全身の力を込めて蘭の口を塞いでいて、簡単には解くことができない。



黒い皮手袋をはめたその手は女の蘭のものより一回り大きくて、男のものだということがわかった。



蘭は相手から逃れるために必死に身をよじる。



手足をばたつかせ、塞がれている口で一生懸命声を出す。



しかし、それはどれもこれも効果的なものではなかった。



蘭の後ろに立つ相手は空いているほうの手で蘭の横腹を殴りつけた。



よほどの力がこめられているようで、蘭は「うっ」とくぐもった声を上げて目を見開いた。



痛みが全身に駆け抜ける。



そしてその痛みが去っていく暇もなく、2発目、3発目と同じ場所を殴られた。



内臓を直接殴りつけられているかのような衝撃だ。



眉間にシワを寄せて痛みに耐えていた蘭だが、次第に意識が遠のいていき、やがて男に体重を預けることになってしまったのだった。


☆☆☆


腹部の痛みを感じて目をあけると、まずは自分のヒザが見えた。



どうやら自分は椅子に座っていてガックリと頭をたれているらしいと気がついて、蘭は顔を上げた。



長い時間無理な体勢でいたらしく、それだけでひどく首や肩が痛んだ。



体のあちこちに痛みを感じて顔をしかめたながら周囲を見回してみると、ここは見たこともない場所だった。



灰色の壁と床。



天井の蛍光灯からはオレンジ色光が降り注いでいる。



しかしこの部屋には窓がなくて、自然光が入り込んできている様子がない。



部屋の真ん中には長い木製のテーブルが置かれているが、食事をするようなテーブルではないとすぐにわかった。



木工などで使われる作業代のようだ。



更に首を動かしてみると右手の奥に階段が見えた。



コンクリートで固められただけの無骨な階段は上へと続いているが、蘭がいる場所からはドアを確認することはできなかった。



更に部屋の中を観察しようとしたとき、ようやく自分の体が拘束されていることに気がついた。



蘭の体はロープで椅子と一体化させられているのだ。



両手は背もたれの後ろに回されて拘束されている。



両足は自由な状態だったが、なぜか素足になっていた。



「なんなの」



焦りから呟くと、自分の声がひどくかすれていた。



しかしここまで拘束されていても口が塞がれていないということだ。



蘭は思い切って大きな声を張り上げた。



それこそ、今までの人生でここまでの大声なんて上げたことがないくらいに。



「誰かいるの!? 助けて!!」



蘭の声はコンクリートの壁に反射して返ってくる。



しかし、どこからも反応はなかった。



「誰か助けて!!」



さっきよりも大きな声で叫ぶ。



その声も部屋の中に反響したが、ただそれだけだった。



だいたいこの部屋には窓がないのだ。



どれだけ叫んでも外まで声を届かせるのは難しい。



蘭は次第に自分の置かれている状況を理解してきて、ゴクリと唾を飲み込んだ。



黒目はひっきりなしに周囲を見回し、額には汗が浮かんでくる。



呼吸は少し乱れてきているようだ。



「なんなのこれ……」



そして自分が誘拐されたのだと思い当たった。



あの飲み屋街で、後ろから口を塞がれて、横腹を何発も殴られて。

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