第2話

 歳のころは十六、七と見える少女は、静かに口をひらいた。

「先生」

 これといって特徴のない顔の、十人並みの造作のなかの、奇妙に目を惹く赤くつややかな唇で少女は言った。

「芝山栄太先生」

 彼女は、栄太をペンネームではなく本名で呼んだ。

 その顔と同じように、抑揚のない調子で、それでも高く澄んだ声音であった。

 おや、と栄太は思った。

 数年前までは、町を歩いていると、ときどき声をかけられサインや握手を求められもしたのだ。しかしそれも絶えて久しく、今、見ず知らずの他人に先生と声をかけられるのは、なにか新鮮な気持ちさえもした。

 栄太は沈黙のうちに彼女を見つめた。

 彼女もただ黙って栄太を見つめた。

 どれほどの時が流れただろう。

 一分、二分、三分……。

 それとも十秒、二十秒、三十秒……。

 永久に流れる沈黙の時のなかで、かすかに渡った生ぬるい風に吹かれるように、彼女は言った。

「わたしを、弟子にしてください」

 栄太は唖然とした。

 サインでもない、握手でもない、いうにことかいて弟子にしてくれ。

 唖然として、やがて、失笑した。

「なぜ」

「先生の小説に、わたしは救われました。生きる価値のない私が、それでも生きていてよいと先生が……、先生の小説が教えてくださいました」

「勘違いだ。私は人の心を救済するような物語は書かない。ただ愚劣で俗悪で、流行にながされ読者に媚びた、浮薄な三文小説しか、私は書かない」

「いいえ、そんなことはございません。わたしは救われました。先生はおっしゃいました、――この世界に、生きる価値のない人間などひとりもいない、人はただひたむきに生きればそれでいい」

 たしかに、書いた。書いた小説のなかで、そんなことを、主人公に対してその師が言い、教え、諭し、励ました。

 だが、そんなものは、強敵に敗北をきっした主人公をふたたび立ちあがらせるための、たんなる方便だ。

「あれは、君のために向けた言葉などではないよ」

「わかっております。すべてを理解したうえなのです」

 ふっと、栄太は返す言葉がみつからないことに気がついた。閉口したといえばそれまでである。だが、彼女の言葉から発せられる圧迫が、言葉ににじむその意気が、彼に言葉を喪失させたのであった。

「どうしてここがわかった」しかたがないので栄太は話を変じた。「私がここにいると、なぜわかった」

「そんなことは簡単です。あなたはいつかこの桜の木を写真に撮りました。そうしてツイッターに載せました。いつものツイートの文言から、大森のあたりにお住まいだとわかっておりましたので、あとは写真をたよりに、ただひたすらに、この木を探しました」

「どれくらい?」

「二十日ほど」

 栄太はあきれた。くだらない。それではまるでストーカーではないか。

「ことわる」

「え?」

「私は弟子などはとらぬ。もし私を師と崇敬してくれるなら、私の編んだ本を読みなさい。読んだのならば忘れてしまいなさい。そして他の人の書いた素敵な物語をたくさん読みなさい。私があなたに教示できるのはそれくらいのわずかな言葉だ」

「嫌です。わたしは不承知です」

「あなたが不承知かどうかなどは問題ではない」

 投げ捨てるように言って、栄太は体をめぐらした。そうして玄関へと向かった。少女がついてきているのは察したが、いっさい無視して、栄太ははや足に歩いた。居住者の持つ鍵でしか開けられない共用玄関の扉をあけ、エントランスへと入った。少女は、彼の後について、閉じていくドアに体をすべりこませるように、するりと入った。

 エレベーターの前にたち、六階のボタンを押すと、上階でとまっていた箱が、階下へ向けて降りはじめた。

「いい加減になさい」

 八階から七階、六階へと明かりを移すランプを見あげたままの上向いた顎で、栄太は言った。

「嫌です」少女は言った。

「帰りなさい。家に帰りなさい」

「嫌です」

「家はないのか」

「家は出てきました」

「ご両親は」

「だまって出てきました」

「なおさら帰りなさい」

「嫌です」

 エレベーターが到着し、扉が開き、栄太が入り、少女が入り、扉を閉じ、六階のボタンをおし、無言のふたりを乗せて箱が動きだす。

 六階に着き、降り、廊下をあるいて栄太の住まう六号室のドアを開けてなかに入ると、彼の背を押すように彼女も入ってきて、彼が靴を脱いで玄関をあがると、彼女はそのかまちの上に膝を折った。

 そうして、強く、静かに言った。

「わたしは帰りません。ここに住みます。弟子にしてくれずとも、ここに住みます」

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