月浜定点観測所記録集 第四巻

此瀬 朔真

四千八百六十三号書架 れ 二千三百六十三区 七百七十九番 四千八百八十三巻 六百三十一頁 六千三十一章 二百二十節 「業は身を助ける」

 午後四時。湯けむりが音もなく流れていく。

 やわらかい風は熱い頬を冷ますのにもってこいだ。だるい足を、満月みたいに大きく丸い湯船のなかで思い切り伸ばした。

 人影はない。目を閉じると水の音だけが伝わってくる。首元まで湯に浸かって、水圧に逆らって胸いっぱいに息を吸う。限界まで止めてから細く長く吐き出す。力の抜けた腕がぷかりと浮いて絶えず波打つ水面に揺れている。

 私は小説家だ。しかも、それなりに人気の。

 一冊出せばまとまった数が動くし、原稿や取材の依頼はひっきりなしに来る。何度か賞も取った。久しぶりの長編を上梓した六月の半ば、携帯電話を家に置き去りにして、温泉宿で二泊三日のあいだひたすら湯に浸かっていても平気な程度には余裕のある生活をしている。

 売れるのはもちろん嬉しい。収入が多ければ自由が利くからだ。不自由を回避する切り札は多くあるほど好ましい。だけど何よりも、私の書く小説を好きだと言ってくれる人がいることが嬉しかった。毎月出版社から送られてくる段ボール箱いっぱいの手紙は私の励みだ。新作は申し分のない出来だから、きっと喜んでもらえるだろう。

 けれど。

「それじゃ足りないんだよな」

 湯気で温められた喉にもどかしさが重く凝って、思わず独り言を漏らす。

 まだまだこんなもんじゃない、と思うのだ。

 もっと小説が上手くなりたい。誰かに褒められるだけではなく、掛け値なしに私が私を認められるような、よく書いたと心から言えるような素晴らしい作品を書きたい。完成した時点で私の手を離れる小説に、この世界をどこまでも歩いていけるだけの力を与えてやりたい。

 そのための修行は日頃から――修行と言っても大したことではなく、ひたすら読んでは書くの繰り返しだ――しているけれど、もちろん一朝一夕に結果が出るわけはない。逃げず腐らず諦めず、根気強く続けることが結局のところは最短だ。

 そんなことは重々承知しているのに、溜まった疲れが未だ湯船に溶け切らないせいで、つい弱音をこぼしてしまう。

「小説の神さまとか、いないもんかな」


「いるよ」


 びくりと肩が震えた。そのはずみで、頭に乗せていた手拭いが滑り落ちる。

 真っ白な布に湯が染み込んでいく。じわじわと浸食される。

 緩んでいた感覚が、水風呂に飛び込んだみたいに一気に目を覚ました。

 鋭くなった耳が伝える。先ほどまで呑気に鳴いていた烏の声がしない。

 頬を冷やしていた涼風が、ほんの一瞬何かの焦げる匂いを混じらせたあとに、ぱったりと止んだ。

 明らかに均衡を欠いて破れていく空気に目蓋が痺れる。

 そして、普段の何倍も感度の良くなった目が告げる。

 丸い湯船の向こうには人工の滝と、小さな池がある。

 池の縁、落ちる水と揺れる水の境界の辺りに、何かがいた。

 真っ黒な人影。

 熱い湯に浸かったままの体がぞっと冷えた。

 今すぐ逃げ出したいのに、視線に射すくめられて動けない。裸の胸を抱いて縮こまるのがやっとだった。

 こちらを凝視したまま、人影が動く。一歩前へ踏み出す。足の届く先は地面ではない。体重を乗せた足は易々と水面を踏み抜いて、浅い池の底へ沈む。

 そのはずだった。

 なのに聴こえたのは水の弾ける音ではなく、音だった。

 丸く凍った水が、踏み込んだ足をしっかりと支える。踵から爪先へ重心が移動していってもびくともしない。やがて入れ替わりにもう一方の踵が水面へ迫ると、再度ぱきりと小さな音とともに、足は水面を掴む。

 足元だけを凍らせながら、池を渡りこちらへ歩いてくる。そのあいだも視線はまったく逸れない。

 距離が縮まっていくにつれて、その姿が詳細に見えてきた。

 ゆったりと体を包むシルエットのシャツ。袖は手首の辺りで断ち切られ、長く取った裾から伸びた足は細く引き締まって長い。灰色の靴が緩いペースで水面を踏む。

 遠目から見ても大柄なのに気配が異様に薄い。衣擦れさえ立てずに歩いてくる。

 やがて池を渡り終え、丸い湯船の輪郭に沿ってこちらへ歩み寄り、私の隣りにぴたりと立ち止まるまで、声ひとつ上げられなかった。

 黒づくめの服と上背のある体つきのために、もはや壁のように見えるそいつがゆっくりと背を曲げて顔を覗き込んできた。癖のあるが左の瞳を軽く隠している。

 そこになんの色も浮かんでいないのを見て取って、ついに私も観念した。

 現実逃避はやめだ。

 間違いなく、こいつは人間ではない。

 フィクションばっかり書いているからこういう目に遭う、と頭のなかで自省の声がしても、後悔が先に立たないのは百万年前からどうしようもない。

 そいつは数秒のあいだ、まじまじとこちらを見つめてからふいと目を逸らした。長い腕を伸ばして湯に漂ったままの手拭いを掴み取り、丁寧に畳む。固く絞ると、力を込めた手に太い骨が浮かぶ。含んだ水分がたちまち溢れ出してくる。ばしゃばしゃと跳ねる水滴が確かに頬を濡らし、振りさばいた布地の白さが日陰の湯船にあっても目に沁みた。

「神さまだから言わせてもらうけど」

 開いて振りさばいた手拭いを再度折り畳み、躊躇いなく私の頭に置く手つきは存外に優しい。

「痩せ過ぎ」

 考える前に手が出た。出るはずだった。

 普段であれば。

 わずかでも下卑た色がそこにあれば、相手が人間だろうがなんだろうが迷わずぶん殴っている。なのに、なんの感情も込めない、ただ事実を述べたというだけの声音のせいで、怒りの感情が立ち上がらない。

「一応気にしてはいるんだけど」

 応えた声は随分子供じみた響きで、けれど相手は笑わない。真面目くさった顔で頷く。

「もうちょっと自分を大事にしたら」

 考えないようにしていたことを真正面から告げられて、つい俯く。

 そうすると当然、湯に沈んだ自分の腕が目に入る。

 骨の細い、筋肉も脂肪も足りていない、枯れ木のような腕。そこから視線を滑らせていくと、ささやかと呼ぶのもお世辞になりそうな膨らみがある。

 寝食を忘れて、という慣用句は私にとって比喩ではない。

 書くのが好きだ。

 現実でどんなに辛いことがあろうと小説を書いたら全部忘れた。恋人を奪われても受験に落ちても家族が死んでも書いているあいだは胸の痛みを感じなかった。仮にこの先まったく本が売れなくなっても構わない。書いていれば幸せだからだ。誰にも読まれなくたって私は書く。私のために書く。それ以上の幸せも喜びも私は知らない。

 だから、小説が書けなくなったら迷わず死ぬと決めている。書けないなら生きていても仕方がない。

「自分より、小説のほうが大事だから」

「死んだら書けなくなるのに?」

 苦し紛れの反論を正論でねじ伏せて、濡れた手を振る。かたわらにしゃがむと削げた頬がよく見えた。頑丈な顎を柔らかく髭が覆っている。

「まずはまともな生活しなよ。酒と栄養剤ばっかり呑んでないで」

 三十代の後半に差し掛かった男のように見えるけれど決して人ではない何かは、部屋の隅に転がった壜や缶を見てきたように言う。

「良く知ってるね」

「神さまなんで」

 折り畳んだ膝に頬杖をついて、わずかに唇の端を上げる。相変わらず瞳は真っ黒な虚ろだ。

「それで用件は」

「用件?」

「人間は用事もなしに神を呼び出さない」

 自ら話を振ってくれるとは、小説の神さまは意外と世話焼きらしい。

「願い事が、あって」

「だろうな」

 それだけ応えて、視線だけで続きを促してくる。

 単純でも本心からの願いだ。だから飾らず、そのまま伝えた。

「もっと小説が上手くなりたい。できるだけ、早く」

「初志貫徹だな」

「だめかな」

「いや」

 簡潔な返事に、漂白された表情。神とは得てして人間とかけ離れた思考を持つという、どこかで耳にした話に内心で頷く。不愛想ともまた違う、機械的という言葉も当てはまらない、奇妙な冷たさと親しさ。

「願いは叶える。ただし条件がひとつ」

 条件、という言葉にぼんやりしていた頭がすっと冴えたけれど、その内容は意外なものだった。

「同居させてもらう。どうせ放っておいたらまた飲まず食わずで書くだろ」

「それはつまり、監視するってこと?」

 問い返せば、解釈は任せるとばかりに肩をすくめてみせる。

 しかし実際、願ったり叶ったりではあった。

 現状私の生活はほとんど壊滅的だ。思考のリソースのほとんどを執筆に当てているから、他のことを考える余裕がない。今回の旅行だって、危うく別の予定が二重に入ってしまうところだった。寸前で気づいて対処できたけど、これまでも似たようなトラブルを起こして何度も酷い目に遭っている。

 しかし逆に言えば、常に手を貸してくれる誰かがいたらそんなことは起きない。スケジュール管理や無数に飛んでくる連絡の応対や、掃除や洗濯やその他諸々を引き受けてくれる誰かがいれば。

 縮こまっていた体を少しばかり緩める。足を畳んで胸元に寄せ、せめてもの目隠しを施してから右腕を持ち上げた。

「わかった。契約成立」

 水の抵抗を打ち破って、ぱしゃんと手を差し出す。

「よろしく」

 ずぶ濡れの手を迷いなく取る、骨張った指はごつごつと固く、温まった皮膚にひどく冷たく感じられた。

藍場あいば由佳ゆか。好きに呼んで。そっちは?」

 一緒に暮らす以上、名前を知っていないと不便だ。そう思って尋ねると、相手は意外そうに眉を上げた。そしてしばらく口を噤んで、ため息混じりに言う。

「名前はない。好きに呼んだらいいよ。由佳」

 ゆか、と発した声が、湯けむりを少しだけ千切った。

 それからおおよそ十分後。小説の神さまは姿を消した。

 再び、広い広い露天風呂は私だけになる。

 詰めていた息を肺の底から吐き出す。烏がのんびりと鳴き、風がやさしく湯気をさらっていく。

 湯船の向こうの小さな池を見る。滝はざばざばと飛沫を上げて、水面は呑気に揺れているだけだった。

 頭の芯が痺れたように動かない。けれど同時に、胸を躍らせている自分がいるのを感じる。

 人間としての私は突然直面した非現実によって頭のヒューズが飛びかけていて、小説家としての私はこれ以上の面白いことがあるものかと舌なめずりしていた。

 引き裂かれそうなのに、不思議と苦しくはない。

 勢いよく立ち上がり、騒ぐ湯船に背を向けた。敷き詰めた石をひたひたと踏みながら、頭に乗せたままの手拭いを取る。

 顔を拭っても、目蓋に焼き付いたあの無表情は消えることはなかった。


 わずかに青の混じった猪口に、透明な液体を少しずつ注ぐ。薄玻璃の杯は唇に心地好い。そこから零れてくる酒もまた、舌を喜ばせてくれた。

 やはり部屋食にして正解だった。少々値は張るけれど、周囲に気兼ねすることなくゆっくりと食事を楽しめる。何より良いのは部屋まで戻る手間がない。どれだけ酔っても、布団に這っていく体力さえ残っていれば安眠は約束されている。

 油と出汁を存分に吸った茄子に、焦げ目ひとつない鰈の味噌漬け焼き。上等の料理を上等の日本酒と一緒に心ゆくまで味わっていた、その最中のこと。

 肉鍋を温めていた固形燃料の匂いが、甘辛い香りをすり抜けてふっと漂う。

「酒ばかり呑むなって言ったはずだけど」

 空白だったはずの向かいの席で、猫背の頬杖が呆れている。

「あのねえ。温泉宿でこれだけご馳走出されておいてさ、一滴も呑まないなんてどうかしてるんだよ。大体今日は慰労のために来てるんだから。指摘するほうが野暮だって。わかる?」

「あんたは酔うと喋るタイプか」

「世の中いろんなタイプがいるよね。私みたいに口が回るのもいれば、泣くのも怒るのもいる。愚痴るのも説教するのも……ああ、脱ぐ人もいたっけ。出版社の偉い人だった。洒落にならないから総出で止めたよ。完全に場が凍ったね」

「やってもいいけど止めないからな」

「堂々と人の裸見ておいて何言ってんのさ。痩せ過ぎなんて言ってくれたけどね、締め切り前は食事もろくに取れないんだよ」

「取れないんじゃなくて取らないんだろ」

 瞳は一貫して暗く冷たい底無しだ。だけど上目遣いに睨まれると、それなりに人間らしい。まともに叱責されているように見える。うっかり酔いが醒めかけた。

「不器用だからねえ。一度に一個のことしか集中できないんだよ。なんでみんないっぺんにいろんなことができるのか、不思議でしょうがない」

「あんたのは不器用と言わない。怠惰でもない。やりかたを知らないだけだ」

「あれ、サボってるだけだって言わないんだ」

「事実だからな」

「こういうときはね、根性論ってすごく便利なんだよ。本人のやる気とか気合いとか心がけとか、目に見えなくてどうしようもないもののせいにできるから」

「そんなものに頼るからいつまでも人間は進歩しない」

 単刀直入な言いざまに、少しばかり救われた気持ちになる。

 正確に言えば、そのような気持ちになっているのはここで酔っぱらっているのではなくて、過去の私だ。

 怠けている、やる気がない、気合いを入れろ。みんなもっと頑張っている。

 そのような言葉で延々と迷路に追い込まれ続けた、昔の「私」だ。

 口数の少ない、今よりもげっそりと痩せて隈の浮いた私。

「痩せてるのは昔と変わってない、か」

 自嘲の呟きを聞かれることほど不格好なことはない。もの問いたげな表情に首を振る。

「まあ、手法を確立するのは大事だよね。確立というか、言語化かな?」

「そう。言語化と細分化」

「目的までの道のりを明確かつ小さなステップに切り分ける、か。なんか神さまらしくないな。言ってることが胡散臭いコンサル業みたいだよ。もっとなんか、すごい奇跡で一発解決とかないの?」

「銀の弾丸は存在しない」

「だからさ、そういうところだって」

 猪口を干して向き直る。改めて、まじまじと相手を観察してみる。

 小説の神さま。ぼやきめいた私の願いに応じてふらりと現れた人ではないもの。存在の異様さに対して、提示してくる解決策がことごとく現実的。

 どこかの社に引きこもっているだけと思っていたけれど、神さまというのは、実は意外と世慣れているのかもしれない。

「とにかく」

 頬杖を解いて、伸べた手が徳利を掴んだ。差し向けられる注ぎ口の真ん丸な暗がりへ透明な猪口を合わせる。

「帰ったらまずは掃除だ」

「了解です。神さま」

 とくとくと快い音を立てて、注がれる酒はきんと冷えていた。

 床に転がった酎ハイの缶を眺めているとそのことばかり思い出す。

 甘露のような、きりっと冷えた純米大吟醸。珠玉の肴の数々。広々とした湯船。ああ、次はいつ味わえることか。思いを馳せると、深々とついたため息で綿埃が吹き飛ばされた。

「手を動かせ」

 頭上から浴びせられた冷や水のような声に、今度はわざとらしく嘆いてみせる。

「こっちは人間なんですよ、神さまと違って疲れるんですよ。あれは捨てるこれは取っておく、選択するってものすごく頭に負担なんだよ」

「それもそうか」

 あっさり返答してどこかを見上げる。その先を目で追うと、壁時計がまもなく一時を指すところだった。換気のために開けた窓からふんだんに午後の陽射しが降り注いでいる。

「それだけまとめたら食事にしよう」

 山積みの書類で塞がった両手の代わりに、顎の先で空き缶の山を示す。努力の甲斐あって標高はだいぶ低くなった。もうひと息ですべてゴミ袋に収まりそうだ。

「そっちの進捗はどうです? 神さま」

「書斎のぶんはこれで終わり」

 紙の束にかけたビニール紐をぎゅっと引き、十字に縛ってひとまとめにする。そのようにして作った塊が部屋の隅に整然と並んでいた。

「一人じゃこんなに進まなかったよ。いてくれて助かった」

「俺が提案したことだし」

 ベランダで揺れる洗濯物を眺めながら言う。風通しの良くなった部屋は梅雨の晴れ間の清々しい匂いでいっぱいだ。

「楽しくなりそうだね」

「俺もそう願うよ」

 半ば独り言だったのに、きちんと返事があった。

 見上げれば、相変わらず表情の伺えない横顔だ。

「なんだ」

「ううん、別に」

 もうひとつ、袋に放り込んだ空き缶がからんと呑気な音を立てる。

 このようにして、奇妙で快適な共同生活は始まった。

 進捗管理にメールの返事、掃除洗濯家事全般、などなど。日々の雑務を任せておけるだけで驚くほどに執筆が進む。体調も万全だ。クリアな頭からアイデアがどんどん湧いてくるし、集中力を途切れさせずいくらでも資料を読んでいられる。洗濯物は溜まる暇もなく、クリーニング屋も顔負けの仕上がりでクローゼットに返却される。三度の食事は栄養も味も申し分なしだ。お酒とエナジードリンクを固く禁じられはしたけれど、良い香りのするハーブティーを啜って湯船に浸かり、清潔なシーツとふかふかの毛布にくるまって眠れば心身共に回復する。

「お前はただ書けばいい。時間は有限だ」

 いつまでも見つからない靴下や汚れた皿の山や税金の督促状から救ってくれた張本人は、そう言いながらシャツの皺を丁寧に伸ばしている。

 まさに神さま。

 しかし、そんな神さまにも任せられない仕事がある。

 長年世話になっている担当の編集者との打ち合わせだ。こればかりはどうにも直接顔を合わせないと気が済まない。私が辛うじて、人間同士の会話を忘れずにいられたのはまさにこの用事のためである。

 生活が快適になった今でもそれは変わらず、いそいそと出かける支度をする。

「悪いけど、今日は留守番頼んだ。ついでに昼ごはんも食べてくる。あとは……宅配ボックス、確認しておいて」

「わかった。十三分後に快速が来る」

「十三分?」

 新調したばかりの腕時計を見る。これも、助言のひとつだ。

「今から出れば余裕だね、ありがとう。行ってきます」

 昨夜のうちに中身を確かめておいた鞄を背負い、足取りも軽く外へ飛び出す。心にしこりがない状態というのがなんと幸せなことか。やりたいとやりたくない、その葛藤から解放されるだけで誇張抜きで世界が輝いて見える。

 積み上げた本を仕舞わなきゃ。溜まった服を洗わなきゃ。でもそんなことより小説を書きたい。ただ書いていたい。それに比べたらどれもこれもつまらない、意味がない、価値がない。

 やらなきゃ、でもやりたくない。

 この鍔迫り合いのなかでずっと生きてきた気がする。好きなことだけをしてはいけないと、やらなくてはいけないことをやってから好きなことをしろと、散々言われてきた。その理由がどうしてもわからず、やりたいことだけをやってきた。もちろん怒られた。散々逃げ回って、やらないと致命的なことになるとわかってから、嫌々やった。

 道行く人たちはみんな、きちんと生きているように見える。私のように丸投げしなければ生活がたちまち綻んでしまうような、だらしないとか怠けているとか言われるような人たちではないのだと思う。

 どうしてそんなに器用に生きられるのだろう。

 どうして、やらなければいけないことのためにいつまでもやりたいことを我慢できるのだろう。

 やらなければいけないことだけで、簡単に一生なんて終わってしまうのに。

「まあそれがわからないから、こういう仕事をしているんだけどね」

 改札にスマートフォンをかざして、ゲートの開く音にまぎれて呟く。いわゆる普通の会社に勤めていたらどうなっていたか。想像するだけで胃がぐわんぐわん波打ちそうだ。あっという間に無能の烙印を押されて、出世レースにはそもそも参加すらできず、窓際どころか窓から投げ捨てられたって文句は言えないだろう。

 そういう意味でも私には小説しかない。

 一生を添い遂げる相手がいるとしたら、それは小説だけだ。

 書いて、書いて、書き続ける。唄うように、戦うように。

 轟音を上げて快速電車がやってくる。一人では何もできない、そしてもちろん小説も書けない。万が一そんな人間に生まれていたら、私はとっくにあの車体の前へ体を投げ出していただろう。

 今は死にたいなんて、ちっとも思わない。死んだら書けないからだ。

 ドアの脇に立つと、窓ガラスに自分が映った。

 目のしたにしつこく貼りついていた影が少しばかり薄くなったように見える。ついでに軽く頬を持ち上げてみた。悪くない表情だった。

「田中さん。おつかれさまです」

「あれっ?」

 テラス席のパラソルの陰、すっかりくつろいだ様子でアイス珈琲を啜っていた編集氏は、驚きのあまり細いグラスを倒しかけた。慌てて手を伸ばす。

「……セーフ」

 香ばしい黒い液体を机にぶちまける惨事は寸前で避けられた。まったく同時にため息をついて、そのおかしさで緊張が緩んだ。

「ごめんなさい、びっくりさせちゃって」

「ああいや、こちらこそすみません。……えっと」

 随分早いですね、と言いたいのだろう。驚くのも無理ない。これまで一時間や二時間の遅刻は全然珍しくなかったからだ。そのせいで何度も担当が変わったし、出版社自体から切られそうになったこともある。

 それを救ってくれた恩人が、私の担当編集者であるこの田中氏だ。

 ――結論から言うと、書いてくれればそれでいいです。実際我々が必要なのは原稿だけですから。立ち入ったことは一切尋ねません

 最初の面談の日、ごく軽い口調で田中氏はそう言った。

 ――藍場さんの本は面白い。簡単に言えば、出せば売れます。ちょっとくらい刊行スピードが遅くたって充分取り返せますし、なんならそれでお釣りが来ます。なので、面白いものを書いてくださっているうちは、ぼくがなんとかします

 人によっては椅子を蹴って帰りそうな言葉に、私は泣きそうになった。

 この人は、放っておいてくれる。ただ書かせてくれる。

 これまでの編集者のように、生活態度だのやる気だの、社会人としての常識がどうだの、そんな説教だけで何かした気になるような人ではない。

 それが、ひたすらに嬉しかった。

 やってきた店員にアイスティーを頼む。伝票を持ち帰る背中を見送って、再度腕時計を確認した。今ちょうど約束の時間になったところだ。

「明日は雪かもしれませんね」

 燦々と陽射しが降り注ぐ通りを、はあはあと息を切らして柴犬が歩いていく。飼い主のご婦人はは大きな帽子とサングラスが良く似合っていた。

「だったら、街じゅうの車が事故りますよ。取材付き合ってください」

「本物志向ですねえ。外車の玉突き事故とか見たいな、個人的に」

「それ実際ありましたよね。怪我人が出たかは忘れましたけど」

「外車も運転手もお釈迦だと悲壮感出て興奮しますよね、なんかね」

「田中さん、政治家にだけはならないでくださいね」

「なんでですか」

「暇潰しで金持ち粛正しそうだから」

「次回作、独裁者の粛正ものとかどうです? 戦争末期が舞台で」

「勘弁してください、グロ苦手なんですよ。観るのも読むのも」

「え、でも人がめちゃくちゃ死ぬやつ書いてましたよね」

「独裁者の心理のほうがずっとグロいじゃないですか」

「人間の死体より?」

「外車の玉突き事故より」

 不謹慎な軽口も慣れたものだ。あまねく創作、特にフィクションを扱う人間であれば、多寡を問わずに持っている残酷さを隠しもしないこの編集氏を私は気に入っている。

 作品に通う血は勝手に湧いてきたりしない。作者が自ら注ぐものだ。

「で、真面目な新作のほうなんですけど」

 表情と声を瞬時に切り替えて、田中氏は話を始めた。

 執筆に時間がかかるのはどうしようもない。しかし書き上がるのをただ待っているというわけにもいかない。だから、どんなときでも先手を打っておく。常に仕込みを絶やさない。たとえ、長編を書き上げた直後で頭がガス欠であっても。それが私たちのやりかただ。

 最初は搾り滓で構わない。安酒場のカウンターで語られる下種なネタで結構だ。たとえば架空の事故で国道を一本潰すような、不毛な与太話からすべては始まる。

「今回はちょっと軽いほうに振りたいんですよね」

「日常系やります? 文章量的に軽めなら、短編集とか」

「そういえば、短編はやったことないですね」

「一個テーマ決めて、それにちなんだ短いやつを何本か書いて……これだと連載にも使えるんで便利ですよ」

「じゃあ、次はそれで。字数は二万くらいでいいですか」

「そうですね。まあ、多少前後しても構わないです。十……いや、七つ貯めたらまとめて出しましょう」

「七つ貯めたらってあれですね、願い事叶うやつみたい」

 ふと、話がまた逸れ始める。

「藍場さん、願い事あります?」

「一生小説書いてたいな。書きながら死にたい。それ以外ないです」

「……そうですか」

 即答した私に、ふと田中氏は顔を曇らせる。からん、とグラスの氷が鳴る。

「結構本気でそう思ってますけど」

 時にはこちらの熱意を受け流すような態度まで取るくせに、妙に歯切れが悪い。気になって先を促してみる。

「ほんと、最近元気ですよね。まるで別人ですよ」

「これまでが酷過ぎましたからね。自分でもちょっと信じられないくらいです」

「なんかあったんですか?」

 急に低くなった声に、つまんでいたストローをぴんと指で弾く。

「立ち入ったことは一切尋ねない、って約束してくれましたよね」

「しましたよ、確かに。でも気になるものは仕方ないじゃないですか」

「なんかあったのはお互いさまっぽいですね。その様子だと」

 決して先手は取らないと言外に告げる。田中氏はしばらく、とうに空になったグラスをいたずらにかき回してから、躊躇いがちに語り出す。

「これ全然、噂なんですけど。このあいだ亡くなった、ほら」

 そこで急に出てきたのが、とあるベテラン作家の名前だったのでやや面食らう。半年ほど前に急死して大きな話題になったのは記憶に新しい。気に入っていたというロック音楽をバックに棺桶が運び出されていくのを私もニュースで目にした。

「亡くなるちょっと前に、すごい調子良かったの覚えてます? うち以外からもたくさん本出してて」

「そういえば……そうでしたね。休んでた連載も二ヶ月くらいで片付けたとか」

「持病があったらしくて。休載も、それの治療に専念するためだったそうです。まあ歳も歳でしたしね。そろそろ引退って噂もあったくらいで」

「それが急に息を吹き返したわけですか」

「そのときはまだ生きてましたけどね。担当が知り合いだったんで聞いてみたらまるで別人だったらしいです。肌つやは良いし飯もがんがん喰うし、酒は飲むわ煙草も吸うわ、それでいて毎日のように原稿送ってくるわ」

「でもあるとき、突然?」

「はい。ちょうど、長いやつを一本書き終わった直後ですね」

 作家氏の絶筆となった作品のことだ。生涯最高の名著と絶賛され、氏の急逝の衝撃も相まって今でも版を重ね続けている。

「万年筆持って、原稿用紙に突っ伏して亡くなってたそうです。心臓発作で」

「……なるほど」

 ここまで来ればなんとなく、オチはわかる。

「二の舞になるな、ですか?」

「そういうことです」

 皺のない服を着て、約束の時間に遅れず現れて、ランチメニューを眺めている姿を見れば、オカルトを信じない田中氏もそう言いたくなるだろう。

「書きながら死んだら後悔すら残りませんよ。死んだら終わりですから。それに今時、太く短くなんて流行らない」

「流行りは追いませんよ。知ってるでしょうに」

「もちろんです。流行りは追わないし、人真似もしない。そうでしたよね?」

 ぞんざいな口を聞き合っても、田中氏は間違いなく盟友で恩人だ。

 書いているあいだはなんとかする。その言葉通り、私の見えないところで彼が何度頭を下げたかわからない。裏切るわけにはいかない。だから素直に白状する。

「最近、秘書を雇ったんです。秘書というか、お手伝いさんというか。その人に言われて健康診断もして、色々指摘されて……今は、協力してもらって生活改善してるところです。なので結果として、調子が良く見えてるってところですね」

 その『人』というところだけ、嘘をつかせてもらった。それ以外は真実だ。

「そういうことでしたか。うまくいってます? その人とは」

「おかげさまで。だいぶ我慢強い人のようで」

 実際は、我慢強いどころか感情がまったく読み取れないのだけれど。

「なら、良いです。元気でいてくれるのが一番ですから」

「今日はやさしいですね。明日は雪が降るかな」

 そう返すと、田中氏はやっと笑ってくれた。悪ガキを見る父親、という感じで。

「じゃあ、降り出す前に解散しますか」

 店を出て、最寄り駅まで並んで歩く。そのあいだも話は尽きない。

「そういえば、さっき話してくれたお手伝いさん? ですけど。その人をネタにしたら面白いかもしれませんねえ」

「えっ?」

 確かに、存在自体が壮大なネタみたいなものではある。なぜ思いつかなかったのかと内心歯噛みした。

「メフィストフェレスみたいなやつですよ。小説家に手を貸すけど、最後は魂を奪うっていう」

「随分締め切りに厳しそうな悪魔ですね……」

「なら悪魔じゃなくて死神とか? 原稿の締め切りがお前の命日だ、みたいな」

 死神。

 ぴたりと足が止まった。

「すみません。今日はここで」

 田中氏は訳知り顔で頷き、ひらりと手を振った。

「今日は涼しくて過ごしやすそうですね。お気をつけて」

 地下鉄の入り口へ降りていく背中を見送りもせず、踵を返して歩く。

 向かう先は図書館。私の書庫、書斎、冷房の効いたもうひとつの脳だ。

 フロアをまっすぐに横切って検索端末へ向かい、次々にキーワードを入力して結果を絞り込む。他所の蔵書であればすぐに取り寄せを手配して、リファレンスカウンターでさらに詳しい調査を頼んだ。

 大量の本を積み上げると、閲覧席の長机がわずかに揺れた。片っ端から読んで重要なところをノートに書き写していく。手を動かしているうち、次第に周囲が見えなくなってくる。新聞をめくるやたらと派手な音も、開いたままの参考書をよそにスマホをいじる大学生も、何も意識に入ってこない。ただひたすら目の前の作業に没頭する。執筆のときと同じだ。必要なのは言葉と、それを綴る手だけ。それ以外はただのノイズ、雑音に過ぎない。そちらに気を向けるなんて無駄でしかない。

 言葉を生み、言葉に埋もれ、言葉に溺れて言葉を泳ぐ。

 それ以外の楽しみなんて、私には必要ないし、そもそも与えられていない。

 不意に手が震え、ペンが転がり落ちた。

 何も考えず拾い上げようとして、周囲に誰もいなくなっていることに気づいた。頭上のスピーカーからは閉館を知らせるアナウンスが鳴り響く。

「昼ごはん、食べ損ねたな……」

 棚上げにしていた疲労がどっと襲ってきた。腕も腰も悲鳴を上げて、おまけに眩暈までする。顔馴染みの司書の手を借りて本を片付け、覚束ない足で図書館を後にした。この状態で電車に乗るのは無理そうだ。おとなしくタクシーに乗る。寝たふりで運転手の雑談をやり過ごし、ふらふらになって自宅のドアを開けるとたちまち香ばしい匂いが溢れ出してくる。

「おかえり」

 台所からひょいと顔を出した神さまは、いつも通りの無表情だ。

「ただいま……ごめんね、遅くなって。図書館行ってて」

「そんな気はしていた」

 手を洗ってこい、と言い残して再びその姿は消え、冷蔵庫の開く音がした。

「今日はなに?」

「鶏むね肉のソテー」

 脱いだ服を脱衣所のかごに放り投げ、すっかり楽な格好でリビングへ出る。机には既にいくつも料理が並んでいた。

「疲労回復に良いらしい」

 そう告げる目にも声にも、遠回しの非難や過剰な愛情が見つからない。ほっとして席に着く。

「次の作品は面白くなりそうだよ」

「もう考えてるのか」

「もちろん。仕事だからね」

 にやにや笑いが止まらないのは、目の前に次々並ぶ料理が美味しそうだから、というのもあるけれど。

 また書ける。また、まだ、小説が書ける。きっと良い作品になる。それがただ嬉しかった。

 ただひとつ、このとき忘れていたのは。

 私の喜びは常に、凪ではなく荒波だということだ。

 書き、食べ、書き、眠り、読み、また書き、話し、書いて、書いて書く。

 そうしているうちに、朝になった。

 極度の運動嫌いを打ち明けたら散歩を提案された。最初は億劫だったものの、今ではすっかり習慣になった。コースは気分次第で決まる。疲れたらコンビニに入り、熱い珈琲を一杯したためてから帰るのだけが共通している。今日もそれにならって、早朝の薄暗い公園でカップの湯気を吹きながら、昨日の打ち合わせを反芻した。

 ――連載、かなり評判良いですよ。話のテンポがこれまでとは段違いだって

 喜色満面の田中氏を前にして、私もつい笑みがこぼれた。

 ――ほんと、書いてて楽しいです。これまでも楽しかったですけど

 ――過去最高、ですか

 ――ですね

 ファンレターもどんどん増えている。納得のいくものが書けて、しかもそれを喜んでもらえる。作家冥利とはこういうことだ。

 ――だけど今後も、体調だけは気をつけてくださいね

 ――ありがとうございます。田中さんもね。あんまり呑み過ぎちゃだめですよ

 くは、とあくびがこぼれて回想は打ち切られた。どんなに生活をサポートしてもらったって、本人が無理をしていたら意味がない。それも最近わかってきた。みんなが当たり前にやっていることを少しずつ身に着けていく日々だ。

 ときには荒波のように書くよりも、凪のように穏やかな眠りを選ぶこと。

「なんだか、一度死んで生まれ直したみたいだね」

 疲れた足を屈伸でなだめ、カップをごみ箱に放り込んだ。

 神さまは、当然と言うべきかどうなのか知らないけれど睡眠を必要としない。いつでも起きている。リビングに入ると、窓の外を眺めてぼんやりしていた。

「少し寝るか」

 やむを得ず徹夜をしたら、午前中は休む。そう約束してある。

「うん。二時まで寝ていたら起こして」

「わかった。おやすみ」

 干したての枕カバーが頬に心地好い。少し奮発して、シルクの値の張るやつを買ってよかった、と過去の自分を褒めているうち、自然と目蓋が落ちた。


 荒れた頬に骨の形が透けて見えるほどだった寝顔は肌つやを取り戻し、いまや溌溂とした健康さと穏やかな安らぎに満ちていた。

 由佳の寝顔を見つめるようになったのは最近だ。

 以前はもっと離れて座っていた。足先から始まり、腰のあたり、胸元、そして今は顔が間近で見える距離にいる。

 遮光カーテンをぴったり閉めた部屋に寝息だけが規則正しく響いている。寝室にだけは絶対に入らないでくれと言い渡され、由佳が起きているあいだは律儀にそれを守っているが、実際は音を立てず立ち入るくらいなんの支障もない。

 藍場由佳は生きている。

 全身に血をめぐらせ、深く眠り、夜通し書き続けた疲れを少しずつ癒している。

 それを眺めるのが好きだ。

 好きだった。

 本当の安らぎは、ここにはない。

 それを与えるのが自分の仕事だ。

 そのときは、もうすぐ。

 黒服の人影は、眠る小説家をただ見つめている。


 自宅の前でぴたりと停まったタクシーを降りる。抱えた花束がまだ新鮮であるのが嬉しくて、機嫌を良くしながらドアを開けた。手探りでスイッチを押すと、玄関の灯りが点かない。こんなタイミングで電球が切れたらしい。普段は面倒で顔をしかめるところだけれど、今ならまあいいか、程度で済ませられる。

 壁を伝いながら部屋に入ると、待ち構えていたらしい気配を感じた。

「おかえり」

「ただいまあ」

 ベッドがあるはずの場所へ体を投げ出す。スプリングにぼすんと受け止められ、洗濯したばかりのシーツが気持ちいい。香りの強い柔軟剤は使わないから、目蓋を冷やしてくれる甘い香りの源は、きっと花束のなかでひと際大きかった一輪だ。早く花瓶に移すべきとはわかっているけれど、こうして横たわっていると疲労と酔いの回った手足が重たい。

「満喫したか」

「おかげさまで。楽しかった」

 そう応えたところで、寝ころんでいる場合でないことに気づく。起き上がって深々と頭を下げた。

「なんだ」

「こんなに良い小説が書けて、こんなに良い賞がもらえるなんて思わなかった。全部きみのおかげだよ。改めて、ありがとう」

「努力したのは由佳だろ」

「そうだけど、そばにいてくれたから頑張れたんだよ。そうだ、何か欲しいものはない? お礼がしたいな」

 相変わらず深夜の闇に紛れたままの気配が、少しだけ揺れた。

「欲しいものか」

「なんでもいいよ、賞金も結構な額だったからね。また温泉でも行こうか?」

「お前の命が欲しい」

 堅苦しい口調に酔いがあいまって、ついけらけらと笑ってしまう。

「大袈裟だなあ。ここまでお世話になったんだし、もう命なんてほとんど預けたようなものだよ。それともなに、プロポーズ? 結婚願望は正直」

 ぱちり。

 軽い音を立てて、視界が白く塗り潰された。

「うわ、ちょっと」

 抗議の声は途中でかき消える。

 耳がわずかな衣擦れを捉える。

 おそるおそる開いた目に映ったのは、無音の翻る白。デスクライトから離れた手が袖のなかへ消えていくところだった。

。文字通りの意味だ」

 聴き慣れた声のはずなのに、まだ火照るお腹の底がじわじわと凍っていく。

 白のしたに重なるのは、織られた糸の波打つ加減がうっすらと浮かび上がる黒。腰のあたりを横切っている臙脂色は、光の加減で淀んだ血の色に映る。

 それが黒の地に映える様は、暗闇のなかからこちらを伺う獣の瞳のようだった。

「俺は小説の神さまなんかじゃない」

 からりと鳴る、白木の下駄。

「死神だ」

 一部の隙もなく着物をまとい、冷たく暗い視線を投げかける姿は、ぞっとするほど美しかった。

 薄紙を握り潰すように、微かにくしゃくしゃと足元で鳴るものがあった。

 持ち帰ったばかりの、まだ新鮮でみずみずしい花たちが、まるでテレビで観た早回しの映像みたいに急速に萎れて乾いていく。花弁が色褪せて縮み、茎も葉も繊維ばかりが残り、やがて自分の重みに耐え切れなくなって力なく折れた。

 目の前で、ありえない速さで、花が死んだ。

 まるで見えない火に焼き尽くされたみたいに。

 見えない火。

 今になって思い出した。

 彼が現れるとき、いつも感じていた。

 見えない火に晒されて、焦げて溶けて、焼け落ちる匂い。

 いつの間にか、それが部屋の隅々まで満ちている。

 ざっと血が冷えた。

 覚束ない手が毛布を掴む。ばさりと振り回して、思い切り投げつけた。分厚い布が障壁になった一瞬を逃がさず、部屋を飛び出す。

「無駄だよ」

 再び、感じたのは眩しさ。けれどさっきの、ダイオードの白ではなかった。

 ぬるい空気に撫でられてじわりと嫌な汗が滲む。

 ゆっくり目を開ける。無数の光源が幽霊みたいに揺れている。

 天井は低い。溶岩の流れたあとみたいにごつごつと黒く角張った岩場は、四方を壁で覆われている。入り口は見当たらない。

 小さな洞窟にも見えるけれど、そんな平和な場所じゃないのはすぐわかる。

 所狭しと並んだ、無数の蝋燭のせいで。

「人間は寿命を灯火に喩える」

 からん。

「誰が思いついたのか知らないが言い得て妙ではある」

 からん。

「なんせ事実だからな」

 からん、からん。

 背の高い影が隣に並んだ。身を屈めて、岩場の隙間へ手を伸ばす。

 その手をいつも近くで見ていたはずなのに、なぜだか今はひどく遠い。

「これがお前の寿命だ」

 溶け残った蝋燭はあと数センチもない。火は小さく頼りなく、今にもかき消えそうに揺らいでいる。

「消えればお前は死ぬ」

 死ぬ?

 誰が?

 私が。

 藍場由佳という名の小説家が、死ぬ。

「死んだら、どうなる?」

「どうにもならない。消えるだけだ。喜びはないが苦しむこともない」

 消える。この世から消えてなくなる。

 私という存在は世界から消え失せる。

 それは、つまり。

「もう書けない?」

 私には小説を書くことしかなかった。それ以外いらなかった。

 なのに、もうひと文字も書けなくなる。

 あの花たちみたいに、ぐうっと顔が俯いた。震える指を、少しずつ開いていく。

「もう苦しまなくていい。死ねば解決する。周囲の人間は苦労するだろうけどな。お前の知り及ぶところじゃない」

 耳を疑った。けれど、すぐ諦めがついた。

 なんだ、そうか。

 結局、きみもそういう風に理解していたんだな。

 書くことしかできない私は、生きているだけで傷ついているように見えたのか。当然だろうな。書いていなければ寝るか吞むか、そんな人間が楽しそうに見えるはずがない。

「だったら」

 伸ばし切った指を、今度はゆっくり曲げていく。

 拳の形に。

「なんで、会った日に殺さなかった? 一年も待った?」

 小説の神さま――いや、死神は応えた。間髪入れずに。

「お前が書きたいと望んだから」

 ざあっと、血管の沸き立つ音がはっきり聴こえた。

「私は最高の遺作を書きたいと言ったわけじゃない。死んだらおしまい、消えてしまってどうにもならない、だったら意味がないんだよ」

 洞窟じゅうに響かせ喚いても、返答はため息を伴っていた。

「あんな生活じゃ死ぬのは時間の問題だった」

「私の死は私のものだ。いくら死神だからって、口を出される筋合いはない」

「死に際を照らしてやるのも俺の役目だよ」

 ひとつ、ゆるく瞬きをする。瞳の奥がさらに暗く、深くなった。

「もういいだろう。由佳」

 こちらへおいで。

 ぐらりと、頭が揺れた。

 その声に逆らえる人間なんているんだろうか。

 あまくて、やさしくて、包み込むような誘いの声。

 永い眠りに就く間際、最後に耳にする声。

 だけど、死神はまだわかっていなかった。

 小説家なんて生き物はみんな、ときに自分の苦痛すらも話のネタにするような、だ。

 指先までぴんと伸ばして、大きく息を吸って。

 今からそれをわからせてやろうじゃないか。

「あじゃらかもくれん、てけれっつのぱー!」

 ぱんぱん、ぱん。

 いつのことだったか、ふらりと入った寄席で耳にした呪文が面白くて、何度も口ずさむうちにすっかり諳んじてしまった。

 偉大なる語り部の師匠いわく。

 こいつを唱えて手を叩けば、たちまち死神は消え失せる――


「馬鹿なのかお前は」

 そのはずだったんだけど。


 柏手は間違いなく、二人ぶん聴こえた。その証拠に、目の前の着物の男は心底呆れた顔で両手を合わせている。

「虚構は虚構に過ぎない。いくら歴史を積んだところで」

「それ小説家に言う? 現実を直視することが美徳の時代に、嘘八百並び立てて生活してる人間に?」

「虚構が現実を覆したところでお前は救われないだろ」

 宥めたつもりだったのだと思う。でもその言葉は、かえって私の堪忍袋の緒をすっぱりと断ち切った。

「救ってほしいなんて誰が言ったの? 生きるのが苦しいことくらい、こっちはもうずっとずっと昔から知ってるんだよ」

 張り上げた声が、低い天井にけたたましく響く。

「救われなくても生きたい、弱いままでも、強くなれなくても生きていく方法があるって信じたい、だから小説を書いているんだ」

 これまで烏滸がましくて誰にも話す気になれなかった。

 このくそったれな世界に、たったひとつ投げかける願い。

「誰よりも私のために。私と同じように苦しくても生きたいって思ってる、誰かのために」

 辺り一面の蝋燭。揺らめく灯りに取り囲まれて、もうどこにも逃げ場はない。殴って逃げられるような相手ではないこともとっくに了解している。

 だから、ここからは泣き言。もしくは遺言だ。

「だけどもう時間はないんでしょ。この通り」

 横目に見えた短い一本は、もう間もなく燃え尽きそうだ。

「ああ」

 端的な返事に、こちらの言葉が何も響いていないことがあからさまにわかる。かえってせいせいした。

「あーあ。あともう少しだけ、時間があったらな」

「もしそうなら何をする?」

 もう隠し立てすることもない。思いの丈を打ち明けて、ぶちまけてやる。

「この火の美しさを、まさに人は命を燃やして生きているんだってことを、私は書いてみたかった。言葉を尽くして尽くして尽くして、精魂込めて、全身全霊で、ちからいっぱいに、書いてみたかった。最高の物語に仕立ててみたかったよ」

 鼻の奥がつんと痛んで、蝋燭の灯りが滲んで、子供みたいにみっともなく声が揺れてしまっても、私は喋り続けた。

「こんな景色はめったに巡り会えない。だから書きたかった。書き残したかった。たったそれだけが心残りなんだ。悔しくて、悔しくて、たまらない」

 しばしの沈黙。

「結局」

 それから、深い深いため息。

「書くことしか選ばないのか」

 化粧が取れるのも構わず、袖で涙を拭う。そしてまっすぐに死神を見つめた。

 死んだら全部解決する。楽になれる。いつだって頭の隅でそう思っているのを、とっくに見抜いていたんだろう。死神だから。辛そうだから死なせてやりたいと思うのは、多分自然なことだ。

 だけどもちろん、ありがとうなんて言うつもりはなかった。

「それ以外は選ばない。……選べないよ、私は」

 口を噤む。言うべきことはすべて言った。

 芯の焦げるかすかな音が聴こえるほど、洞窟は静まり返っている。

 誰かが今も生きている。文字通りに、命を燃やしながら。

 私の命は、もうまもなく燃え尽きる。

 今さら泣き喚いたりしない。ただ悔しさだけを噛み締める。

 できることなら、この悔しさも、薄らいでいく火の色も、へたり込んだ拍子に触れた壁の冷たさも、辺りが次第に暗くなっていく様も、こちらを見つめている死神がどんな顔をしていたのかも、全部、何もかも書きたかった。


 死んだら消える。それでおしまい。

 つまりは、お釈迦さまが目映い雲に乗ってお迎えに来てくださるとか、美しい天の国へ招かれるなんて話もでたらめなわけだ。

 だったら、さっきから感じるは、なんだろう。

 そして今、こうしてくどくどしく独り言を吐いているのは、いったい誰だろう。

「由佳」

 ユカ。聞き覚えのある言葉だ。どこかで散々耳にした気がする。

 覚えている。

 その証拠に、体のなかのずっと深く、どこかがぽっと温かくなった。

 小さな点が次第に大きくなって、踊るように揺れる。燃え立つように輝く。

 光だ。

 消えかけた光が、新たな拠りどころを見つけて息を吹き返した。

 蝋燭の火を移し替えたみたいに。


「起きろ。由佳」

 水滴を弾く軽やかさで、目蓋が上がった。

 濡れた頬は涙のせいじゃない。冷たい滴は、天井から落ちてきたものだ。

「冷たいってことは、生きてるってことか」

「死体はおおかた冷たい」

「感覚の主体の話だよ。死んだ人は、自分の冷たさなんてわからないでしょ」

 岩場で横になるのは体に良くない。背中と腰を、油の切れたロボットみたいにぎしぎし言わせながら起き上がる。

「そこまで喋れるなら問題なさそうだな」

 珍しく安堵の色を滲ませながら、死神は呟いた。

「あの、あのさ」

「うん」

「私、死んだよね。さっき」

 返事は軽く、頷くのみ。

「一応何があったか、訊いていい?」

「企業秘密」

「ここでワイルドカード使うのやめてほしいな。いやそれより死神って企業所属だったの? ちょっとショックなんだけど」

 こちらの指摘に応えず、死神は傍らに手を伸ばした。

俺たち死神は一度だけ人間に呪いをかけることを許されている」

 金属の擦れる音。蝋燭よりもずっと眩しい灯りに思わず目を細める。

「呪い?」

 くすんだ真鍮色、丸いガラスの火屋。蓋の開いたランプが明るいのは、灯芯が燃えているからじゃない。

 手のひらに乗るほどの、鉱物みたいにつるりとした三日月が煌々と光っている。

「人の命を奪う呪いだ」

「それは呪いじゃなくて、仕事って言うんじゃない? その、死神だったら」

「奪うことの意味が違う」

 死んだら消える。それでおしまい。だから死神が奪った命はそのまま消失する。他の人間に分け与えられたり、死神自身の寿命に変換されることはない。

 たったひとつの、例外を除いて。

 真っ白な羽織。その正面で綺麗に結んだ紐が音もなく解けた。

 手品のように肩から滑り落ちて、目の前に立つのは黒い姿。

。蝋燭が消える寸前に」

 首を巡らし、私の蝋燭があった辺りに目を凝らす。どろどろに溶けて固まった蝋のなかで燃え滓になった芯がひしゃげていた。もう灯りの役目を果たすことはできないだろう。

 私の寿命だったものをよそに、三日月は灯る。

「つまり、まだ消えてない、ってことか」

「まだじゃない」

 振り返った、その瞬間。

「もう消えない」

 ランプの蓋が、音を立てて閉まる。

「これは俺のものだ。だから」

 骨張った手の白さが浮かんで見えた。

「もう消えない。

 黒い袖に隠されて見えなくなって、そこでやっと、言葉の意味がわかった。

「死神って、死ぬの?」

「いずれ」

「怪我とか病気は?」

「しない」

「……寿命って、どのくらい?」

「さあ」

 あまりのたちの悪さに眩暈がした。

 死なせるためではなく、自分のそばで生かすために人の命を奪う。無理やりに寿命を共有させる。三分後か千年後か、いつ尽きるのかを知るすべはない。

「しばらくそばにいてわかった。まともな生活なんてお前には無理だ。だったら死なないようにするしかない」

「合理的過ぎて涙が出てくるよ、まったくもう」

 茫然と座り込む私を、死神は真正面から淡々とろくでなし呼ばわりしてくる。悪びれもしない口調に怒る気もしない。

「書くことしか選ばないんだろう。なら選べばいい。いつまででもそれを選べばいい。そばにいてやるよ」

 怒りは感じなくても、これはあんまりな結末だ。苦しまぎれに言い返す。

「余裕そうで結構だけどね、そっちもいずれ後悔するよ。もっとまともな相手を選べばよかったって、あとで泣いても知らないからな」

 ほとんど捨て台詞だったのに、死神は急に口を閉ざしてしまう。

「え」

「なんだ」

「後悔するの早くない?」

 返事が一拍遅れた理由を、こちらを見つめる瞳に見つける。

「悔やまないと思ったのか」

 沈痛な、深い藍色。

「最後までどうするべきかわからなかった。お前の願いを叶えたいと思ったのは本当だ。でもどうしたって結局は俺のエゴでしかない」

 私は、書くことしか選ばない。それ以外は選ばないし、選べない。

 だから死神は選んだ。一度しか使えない切り札を、私から死を取り上げるためだけに使うことを選んだ。

 あまりに業の深い、わがままな私を生かすために。 

「お互いさまだよ、そんなの」

 立ち上がり、腕を伸ばした。

「エゴで結構。何も選べないより、ずっと幸せだ」

 ぎゅっと抱きしめて、猫背気味の大きな背中を撫でてやるとくしゃくしゃ頭をかき回された。袖のなかのランプがほんのりと温かい。

「とりあえずさ」

「うん」

「部屋に帰ろう。死なないからって、ずっとここにいたら風邪引きそうだ」

「そうだな。もう眠ったほうがいい」

 少しだけ考えて、私は応える。

「いや。今夜は起きてるよ」

「どうして」

「ほら、夢になるといけないから」

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