§6

「一体、何があったの……? この人は、何処で何をしてきたの……?」

 疑問は尽きなかったが、この場はとりあえず、彼をそっとしておいてやるのが最良の措置であると判断したマグは、ベッドから毛布を持ってきて彼の身体に掛けてやった。出来れば寝床まで運んでやりたいところだったが、ドロドロになった彼を、そのまま室内に運び入れたりすれば、恐らく後で叱られるのは彼女の方だ。ならば、その場にそっとしておく方が良いだろうと考えたのだ。それに、下手に動かせば折角の睡眠を妨げてしまうかも知れないし、第一、マグの力では彼を支える事はできない。

「……後で、それとなく聞く事にしよう……それより、この人が目覚める前に、身体を綺麗に……」

 些か状況は変わったが、それでもまだ彼女の自由が奪われたわけでは無い。彼は帰宅したとはいえ、今は深い眠りの最中。今というこの瞬間を逃しては、この先いつ同じチャンスが巡ってくるかは分からないのだ。

(……衝立が欲しいけど……だ、大丈夫だよね。ぐっすり寝てるし……)

 万一の事を考え、マグは衝立を用意しようと考えたのだが、あいにくバッカスが衝立に寄り掛かるような格好で邪魔になっているため、彼女はそれを諦めるしかなかった。

 そして暫し後、衣服をすっかり脱いだマグは、なるべく音を立てないように、そして視線は常にあの男に向けて警戒を怠らないように……と注意を払いながら水浴を始めた。しかし、そのあまりの爽快感にウットリとして緊張を解いた彼女は、そちらの方に夢中になってしまっていた。が、その刹那……

「……今日は随分と、サービスが良いんだなぁ?」

「……!!」

 背後から聞こえる、まさかの声。そう、水音で目を覚ましたバッカスが、マグの姿を眺めていたのだ。

「あっち向いて! このスケベ!!」

 涙目になって羞恥心を露にし、隠れ場の無い場所で必死に両手を駆使して、マグは何とか身体を隠そうとした。その口から些か乱暴な言葉が飛び出したとしても、無理からぬ事だろう。だが、意外にもそのリアクションにムッとしたバッカスが、直前の発言に異を唱えた。

「覗くつもりなら、声を掛けたりしないで、息を殺してジッと眺めてると思うぞ?」

「……!!」

「生憎、今は全身がガタガタでな。自力で寝返りを打つ事も出来んのさ。首がそっちを向いたままなのはその所為だ……許せ」

「ご、ごめんなさい……」

 省みれば、この状況を作り出したのは自分自身。ここで彼を悪役にするのは、あまりに身勝手……そう反省したマグは、今度は控え目に彼に願いを伝えていた。

「あの、申し訳ないんですけど……服を着るまでの暫しの間、目を閉じていてはもらえませんか……?」

「……目、瞑んなきゃダメ?」

「……やっぱりスケベじゃないですか」

「冗談の通じん奴だな」

 短いやり取りを交わし、急いで身づくろいを済ませたマグが改めてバッカスの傍に近付くと、彼は再び眠りに落ちていた。

(……私の運が悪いのか、この人の運が良すぎるのか……あのタイミングで目が覚めるなんて、まったく……)

 結果として、一方的に大サービスをする羽目になったマグが不満げに呟く。しかし彼を責める事は、彼女には出来ない。今回は全面的に彼女のミスがあの結果を招いたのだ。

(いま見られた分は、授業料を払ったと思って忘れる事にしよう……)

 恥はかいたが、警戒心を強く持てという事を今の一件は思い出させてくれた……そう考え直し、いかにも眠りにくそうな場所で気持ち良さそうに寝息を立てるバッカスをチラリと一瞥しながら、マグはその場を離れた。これ以上、彼の安眠を妨害するのはまずいと思ったのだろう。

 そして太陽が天高く昇った昼下がり、バッカスは再び目を覚ました。

「ん? 夕べ? 食い扶持を稼ぎに行っていたのさ。夜中の方が、給金が高いんだよ。危ねぇ仕事が多いけどな」

「仕事……働く、って事……?」

「そうだよ。稼がなきゃ、お前の飯だって買えないだろう?」

「……!!」

 この人もキチンと、そんな事を考えていたのか……と、マグはバッカスの事を見直していた。ずっと不真面目で、自分にとって不快の対象でしかなかったその男との距離が、ほんの少し縮まった瞬間であった。

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