§2

「なぁ、いいじゃないかよぉ。お前の肩を揉んでやるから、その紅茶を譲ってくれってんだ。無理な相談じゃないだろう?」

「無理に決まってるでしょ! それに、アンタの場合は肩だけじゃなくて、胸まで揉んでくるじゃない! お断りだよ!」

「サービスだよ、サービス!」

「そんなサービスなら要らないよ! さ、買わないなら帰った帰った! 商売の邪魔だよっ!」

「チェッ、なんでぇ! 融通の利かねぇ女だな!」

 男は不満そうに、舌打ちをしながら露天商に背を向けた。顔馴染みのようであったが、お世辞にも良い客とは言えず……いや、客と呼べる代物であるかどうかさえ怪しい態度であった。

「つまらん……ユーモアを理解しない連中は嫌だねぇ。あーあ、面白くねぇ!」

 彼は名をバッカスといい、その名が示す通り、常に酔っ払っているかのような言動で知られた、ちょっとした変人であった。とにかく自分勝手で、我が儘で、それでいて他者の言葉には全く聞く耳を持たないという……ローマ神話のバッカスが聞いたら、ほぼ確実に嫌がるであろう程の、悪い意味での有名人であった。おまけに自他共に認める好色で、『バッカスを見たら娘を隠せ』と噂されるほどの、酷評の主でもあった。尤も、実害が出ていない為、それはあくまで噂の範疇を出なかったが。

「ふん……街は駄目だな、皆して俺を避けやがる。機嫌直しに、少し風でも浴びに行くか……」

 自業自得、という言葉は彼の辞書には無いようだ。自分の行いが自分の首を絞めている事に気付かない……いや、自覚できないのだ。尤も、それが出来るぐらいなら、最初から嫌われ者にはなっていないのだろうが。

 そんな彼でも、一応は傷つくのだろうか。先程のやり取りで機嫌を損ない、気分を悪くしていたのだ。そんな時、彼は決まって、ある場所に行く。手には一本の小瓶。中身はスコッチウィスキーだ。これを喉に流し込みながら、街外れにある小高い丘の上で昼寝をするのだ。すると、酔いが醒めて目覚める頃には、不機嫌の元は忘却の彼方。これを繰り返す事で、彼は『反省』という行動から無縁になっていくのだった。

「いい風だ。見慣れた街の景色も、酒の肴にするには悪くねぇな」

 少し酔いが回り、いい気分になって来た頃合。このタイミングが、彼の最も機嫌の良い時である……しかし反面、彼が一番ワガママを爆発させるのもまた、このタイミングなのであった。が、幸か不幸か、このタイミングで彼に接した者は皆無であった為、彼自身もその事を自覚してはいなかったのだ。

「……ん?」

 ふと空を見上げると、フワフワと宙を漂っている女が居るではないか。年の頃は16~7と言ったところか、好色の彼から見れば少し青い感じではあるが、悪くは無い。

「どうして女が空から降って来るのかは分からねぇが……コイツを拾わねぇ手はねぇよな」

 酔いの回った頭の中で、思考回路など働くはずは無い。どうして人が空から降って来るのか、そんな事はどうでも良かった。とにかく、目の前に降りてくる『好物』に向かって、彼はまっしぐらに手を伸ばした。

「……えっ!?」

 驚いたのは彼女である。幾らモチベーションが最低で、もはや消えてしまいたいとまで思っていても、いきなり誰かに抱き止められて、驚かずには居られない。

「へぇー、顔も可愛いじゃないか。こりゃあ今日はついてるぞ!」

「え……えぇ!? な、何なの!? 何が起こったの!?」

「何が起こったも無いもんだ、風で飛ばされたシャツのように、お前が降ってきたから……俺はそれを拾ってやったんだ」

「飛ばされたんじゃない、飛んでいたのだ! はっ、離しなさい!」

 突然の出来事に驚いた彼女であったが、目の前で酒臭い息を吐く見知らぬ男を見て、本能的に身の危険を感じたのだろう。即座に臨戦態勢を整え、抵抗を試みる。が……

「……そんな格好で幾ら睨んでも、ちっとも怖くないんだけど?」

「あうぅ……」

 そう、彼女はバッカスの腕の中にスッポリと納まり、しっかりと抱き止められる格好になっていたのだ。この格好では、幾ら牙を剥いた所で、怖くもなんとも無いのは当たり前であろう。増して、彼女は小さな女の子にすら負けてしまうほどの脆弱。大人の男であるバッカスに、敵う訳は無い。

「ふーん……ちょっと青いが、抱き心地は悪くない。気に入ったぜ、嬢ちゃん」

「嬢ちゃんではない! 我が名はマグ! こう見えてもヴァンパイアだ、無礼は許さぬ!!」

「はい? ヴァンパイアって、あの……夜中にコウモリが変身する、アレか?」

「うっ……わ、我は……彼らのような高級種族ではないが……」

 彼女の虚勢は長くは続かず、既に弱腰になっている。反対に、バッカスの方はどんどん勢いがついて、もはやかなりの上機嫌。こうなると、酔っ払いというものは最早、手が付けられない生き物になっている事が多いのだ。が、マグとて黙っている訳にはいかない。相手は今、酒に酔った状態……それを逆手に取れば、契りを交わしてサッサとそれを破棄、実績だけを手に入れて故郷に帰る事も可能なのではないか……? と考えたのである。

「とっ、とにかく! お前は我と契りを交わし、我に従うのだ!」

「ん~……? その、契りって……どうやるんだ?」

「簡単な事だ……我がお前の首を、軽く吸えば良いのだ」

「あっそ。こうかい?」

「なっ、違……それ逆! 私がアンタを……嫌あぁぁぁぁ!!」

 その叫びは、虚しく虚空に消えた。だが、しっかりと契りは交わされてしまった……主従関係が逆になっては居たが。つまり今、マグがバッカスの首筋に吸い付けば成功だったのだが、逆にバッカスがマグにキスをしてしまったのである。

「ん~、美味しいねぇ……若い女の子は肌がスベスベで、良い匂いだ……こりゃあ……たまんねぇや……」

 既に酔いが回っていたバッカスは、そのままマグを抱き枕代わりにして眠ってしまった。マグの身体から発する甘い香りが、更なる安眠効果を与えたのだろうか。彼はマグを抱き締めて、ものの数秒で眠ってしまったのだ。

「うう……お酒臭いよぉ、恥ずかしいよぉ……離してよぅ……」

 しかし、その身体をガッチリとホールドされてしまったマグは、バッカスが目覚めるまで身動き一つ取れずに、ジッとしているしかなかった。尤も、事故とはいえ契りを……しかも主従関係が逆になった状態で結んでしまった為、この場を逃げたくても、逃げる事は出来ないのだが。

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