Ep.4 HARUNA 3

 コツ、コツ、コツ……


 靴音が聞こえる。急ぐでもなく、足音を忍ばせるでもなく、しかし確実にだれかを追いつめていく歩調だ。


「な、何が起こってるんだろう。あれは、きっとハンニャのお面にちがいない。あたし、つかまっちゃうよ!」

「らしいな。もうちょっと前の時点に出られたんだったら、こうなったいきさつもわかったんだろうが……」

 ローレンスはいかにも残念そうな表情でつぶやき、ここはどこだろうというように周囲を見回した。


 イスにはあたしのものらしいパジャマが掛けてあるし、カギ束のことも考え合わせると、たぶんエルザハイツの舎監室だ。何かの事情があって、ママかおふくろといっしょにこの部屋に泊まることになったらしい。


 すると、靴音が止まった。金属音がどこから聞こえてきたのか、耳をすまして考えているのだろう。ありがたいことに、見当ちがいの方向へ向かいはじめた。


「らしいな、って……。そんなのんきにしてる場合じゃないだろ!」

 靴音の主に聞かれるはずなんかないのに、あたしは思わずささやき声になって言った。

「だけど、これは記憶なんだよ。私たちが介入してどうにかできるって問題じゃない。現在のきみはこうしてピンピンしてるんだから、命にかかわるようなことにはならないさ」

「そ、そりゃたしかにそうだけど、これはきっとあの悪夢のはじまりだよ。トラウマになりかかってたのが、よけいひどくなっちゃうじゃないか」


「落ち着くんだ、ハルナ。いざとなれば別の記憶に飛んでしまえばいいし、眠りに入った場所に帰ることだってできるさ。きみはもうそのコツがほぼつかめたはずだからね」

「そうか――」

「でも、真相を知ることで悪夢を解消しようと、ここへやって来たってことを忘れてはいけない。それに、このまま逃げ出したら、二度ともどって来られないかもしれないのだ」


 そうだった。ローレンスの言うとおりだ。

 いきなりこの場面に出現したってことは、幼いあたしにとってよっぽど印象的だったか、それとも大事なことがこれから起こるってことかもしれない。いちばん怖かった経験だとも考えられるけど、幼いあたしの身に降りかかったことなら、あたしもしっかり受けとめてやらなきゃいけない。

「わかった。覚悟を決めるよ」


 記憶しているのは、視覚や聴覚だけじゃない。匂いや味だってわかる。それと同じように、自分が抱いている感情だって、内容までは無理でもその心理状態は感じ取れる。

 だから、足がすくんでいることや、ドキドキが止まらない心臓の鼓動は、いやでも感じてしまう。あちこち歩き回る足音にじっと耳をすませながら、幼いあたしはなすすべもなく立ちつくしている。


 すると、思い出したように足元に散らばるカギに手を伸ばし、その数個を拾い上げた。数秒間じっと見つめると、スカートのポケットにねじ込んだ。

「なるほど。これはきっとエルザハイツのカギ類だ。きみは、ハンニャから逃れるためにどれかの部屋に隠れようとしているんだ」

 ローレンスが感心して言う。


 あたしも、それで幼いハルナがこんな緊急時にわざわざカギを取ろうとしていた意味がやっとわかった。

 カギをゲットして気を取り直した感じのあたしは、床に降り立つと、こんどは身を潜める場所を探しはじめる。狭い部屋だから、見つからずにすむスペースなんかほとんどない。ベッドの下にもぐりこんだりしたら、かえって逃げ場を失ってしまうだけだ。


 ハンニャのものらしい足音が、とうとうこちらに接近してくるのがわかった。

 すると、あたしは妙なことをはじめた。モゾモゾと不器用にTシャツを脱ぎはじめたのだ。

 それからクローゼットをなんとか引き開け、中にTシャツを投げ込んで閉じる。イスにかけてあったパジャマを代わりにひったくると、ドアのすぐ脇に置かれた小テーブルの陰に座りこんだ。

 ローレンスは、手出ししようとしても無駄だともうわかっているから、部屋の中央であたしがすることを興味深そうに見つめているだけだ。


 ついに敵が来た。

 ドン、ドンと容赦ない音がして、ドアがそのたびに振動する。ノックしてるんじゃない。最初から強引に蹴り開けるつもりなのだ。


 なのに幼いあたしは、また何かを思いついてあわてて机のところへ駆けもどった。同化しているあたしは当惑するばかりだけど、迷いのない動作でバラけたカギを腕でかき集めると、抱えたゴミ箱にザラザラと流し込む。

 ゴミ箱にそのへんの紙片をつっ込み、ついでに電灯を消してからあたしは元の小テーブルのところへもどった。もうパジャマを着込んでいるような余裕はない。あたしはタンクトップからむき出しになった震える肩を抱いて身を固くした。


 とうとう錠がふっ飛び、廊下の照明を背に受けた人の影が部屋の中にヌッとのびる。一瞬立ち止まったものの、侵入者は電灯もつけず、ズカズカと踏み込んできた。

(やっぱり、あいつだ!)

 フワフワとした和風の装束を着け、なによりツノの生えた面をかぶってるのでわかる。


 廊下の明かりはちょうどクローゼットのあたりまで届いていた。扉の合わせ目から、レモンイエローの布地がはみ出ているのが見える。あたしのTシャツだ。

 ハンニャは目ざとくそれを見つけ、ためらうことなくそこを目指す。

 ドアの陰に隠れていたあたしは、そのすきに開けっぱなしのドアからはい出した。


 幼いあたしに一杯食わされたとわかったハンニャは、すぐに舎監室を出てきた。ひどい状態になっている談話室や食堂のほうをぐるりと見渡した後、まだ探索の手をつけてない物置のドアを見つけてそこに入っていく。

 当時の物置がどんな状態かわからないが、寮生がいた頃なら今よりずっと雑然としていて、小さなあたしが隠れられそうな場所はたくさんあるだろう。しかも、こんどこそ逃すまいと、ハンニャは後ろ手にドアをきっちり閉じた。


 あたしは潜んでいた階段の後ろからそっと出て、階段に取りついた。

 だけど、まんまとハンニャを出し抜いたというのに、幼いあたしは一段一段はって登るしかない。そのギャップがあたしにはもどかしくてたまらない。


 あたしに合わせてゆっくりとした足取りで昇りながら、ローレンスが感傷的な声で言う。

「姫は、きみの母親になることをあきらめた。そして、きみを抱っこすることさえ自分に禁じたんだ。私も彼女にならって、一度も抱きしめたことがなかった。だけど、今こそきみを抱き上げて、安全なところまで全速力で逃げられればと思うよ」

「お願いだから、ひとが必死こいてるときに、力が抜けるようなこと言わないでよ」

「すまない。しかし、実際登ってるのは幼いときのきみだろ」

「そりゃそうだけどさ」

 自分がいっしょに力んでやれば、いくらかでも助けになれるような気がするのだ。


 二階には人影がなかった。

 あたしはポケットからカギを取り出し、近くの部屋のドアと交互に視線を動かしている。カギに彫られた数字と部屋番号を照らし合わせているのだ。

「ちがうよ、反対側だってば……」

 幼いあたしは、効率悪くひとつひとつ見比べていって、廊下を半周以上してからやっとその部屋を探し当てた。


 だが、迷わずカギ穴に挿しこんだり、カギを回すことまでちゃんと知っているのは、きっと母親たちのだれかがやってるところをしっかり観察していたからにちがいない。

 幼いあたしにとって、ドアが魔法のように開いたときの達成感は、そのむこうに安全な場所を見出した安堵感よりもむしろ大きいくらいなのがわかった。


 月は雲に隠れているようだったが、四谷の繁華街からの明かりで開いた部屋の中がなんとか見て取れる。空き部屋らしくガランとしていて、ベッドもマットがむき出しのままだ。

 だが、幼いあたしは体力も気力も限界だった。誘われるようにベッドにはい上がる。


 すると、スカートのポケットのふくらみがじゃまになって身体を反転させた。中から出てきたのは、数本のカギとケータイだった。あたしは、意外なほど慣れた手つきで二つ折りのガラケーを開く。

 画面に現れたのは、ハンニャの面をなぜか逆さまにとらえたショットだった。


 あたしはギョッとし、幼いあたしも見たくないものから眼をそむけるようにしてすぐにケータイを閉じた。

 すると、とうとう力つきた小さな手からケータイがポトリと落ちる。

 それが、意識に残る最後の光景になった――

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